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1089ブログ

和鏡の文様を愉しむ

1089ブログ「和鏡への道のり」では和鏡の成り立ちと特色についてお話しさせていただきました。
今回は、和鏡の文様についてもう少し詳しくご紹介いたします。

特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場の写真
特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美
平成館企画展示室にて2023年11月19日(日) まで。


中国・唐の時代の鏡と宋の時代の鏡を掛け合わせて発展させ、日本人の好みに合わせた文様(もんよう)を施すことで平安時代・11世紀後半頃に成立したと考えられるのが和鏡(わきょう)です。
和鏡には今日、日本の伝統意匠として知られるような様々な文様が見られます。和鏡の極致とも称される、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」のうちにそれらを探し、和の文様を愉(たの)しみたいと思います。

和の文様の代表格ともいえるのが、「松喰鶴(まつくいづる)」の文様です。松の折枝(おりえだ)を銜(くわ)えた鶴が優雅に舞う文様は、鏡の他に箱や櫃(ひつ)などの調度品にも用いられました。元を辿るとペルシアの咋鳥文(さくちょうもん)が中国・唐に伝わって流行し、奈良時代に日本に伝えられた文様が原形です。正倉院宝物にもよく見られ、含綬鳥(がんじゅちょう)や花喰鳥(はなくいどり)として知られています。これが日本でめでたい鳥とされる鶴に置き換わり、同じくめでたい植物である松を銜えるようになったのが松喰鶴で、代表的な吉祥文様の一つです。

松喰鶴鏡(まつくいづるきょう)に見られるように、和鏡の文様としては、中央の鈕(ちゅう 紐を通すための孔(あな)を開けたつまみ)を挟んで鶴が向かい合い、優雅に旋回する文様が定番で、王朝文化の花開いた平安時代らしい優美な趣に満ちています。


松喰鶴鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15441)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


構図の源流には、唐で作られた瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)や、これらを元に日本で構成された瑞花双鳳八稜鏡がありますが、余分な要素を削ぎ落とし、洗練させた文様構成は、高度な発展を遂げた貴族文化の結晶といえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)
(展示の予定はありません)



続いてご紹介するのは、本館14室で行われている特集「日本の伝統模様『秋草』」でも取り上げられている秋草の文様です。
秋草は「もののあはれ」を催させる存在として、日本文化に重要な位置を占めてきました。源氏物語絵巻に代表される王朝絵巻でも、登場人物の心象を表すモチーフとして重視されています。秋草は鏡の文様としても頻繁に用いられており、萩や薄(すすき)、秋の七草には入っていませんが菊などがよく見られます。

秋草蝶鳥鏡(あきくさちょうとりきょう)を見てみましょう。
ここでは土坡(どは 土の盛られたところ)あるいは水流の一部のようなところから、左に薄が穂を垂れ、右側では円周に沿って三角形の花房を付けた萩と円形の花弁を広げた菊とが勢いよく伸びています。鈕の左には仲睦まじく飛び交う2羽の鳥が配置されています。これは鈕を挟んで整然と向かい合う構図だったものが崩れ、2羽の鳥という要素が残り、番(つがい)の鳥としてめでたいモチーフに昇華されていったものと思われます。
この鏡には縁の内側に界圏(かいけん)が一条めぐらされていますが、本来文様を構成する上で内区と外区を分けるために施されたはずの界圏の上に鳥や植物が乗っかっており、ほとんど意味をなさなくなっています。しかしながら、よく見ると、外区の左に1頭の蝶、上と右に蜻蛉(せいれい)が表されているのがわかります。これらは唐鏡の外区にしばしば表されていたモチーフで、ここでは古い要素が残されているのが確認されます。
蝶の盛りは春、蜻蛉はカゲロウとみれば夏でしょうか、徒花(あだばな)のように外区に残るこれらの虫は、秋を迎えいよいよ終焉を迎えようとする存在であり、一層、儚(はかな)さやものがなしさを催させるモチーフであったと想像されます。


秋草蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15419)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



最後にご紹介するのは、先に見た秋草蝶鳥鏡をさらに展開させたような水辺に生える植物を主題とした文様です。身近な野辺(のべ)の風景を、文様的な意匠化された要素を排し、絵画のように表したこうした文様は、同時代のやまと絵山水に通じるものといえます。この時代のやまと絵の遺例は極めて限られることから、それらを補う存在であるともいっても過言ではないものです。

水辺芦双鷺鏡(みずべあしそうろきょう)は、下方に水流を大きく表し、その周囲に草を配置しています。水流の上流に当たるのでしょうか、右の鳥の足下には岩のようなものも確認されます。岩の右から松が伸びているようで、水景と樹木と岩を備えた山水図のような構成になっていることがわかります。呼び合うような大振りの鷺も存在感があります。また、梅花蝶鳥鏡(ばいかちょうとりきょう)は、鈕の下方を水流が横切り、周囲に草が生えています。鈕を通って華奢(きゃしゃ)な梅の木が表されており、大きく枝を広げています。鳥は梅の枝を避けて配置されているようです。梅を主役にした構図は、シンメトリーやバランスを重視してモチーフを配置する文様的な構成ではなく、絵画的な構成を選択した結果であると思われます。


水辺芦双鷺鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15414)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

梅花蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15406)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



これらは平安時代の末に作られたと考えられる作例ですが、少し時代がくだって鎌倉時代に作られたと考えられる洲浜萩双鳥鏡(すはまはぎそうちょうきょう)を見てみましょう。こちらでは下方に水辺にできる洲浜が広がり、波のようなものも表されています。そこから大樹のように萩が枝を広げており、それを避けるかのように2羽の鳥が鈕の左に表されています。花が咲き鳥が舞う理想郷を想起させるとともに、樹木状の植物が文様の主役になってきていることがわかります。またその中で、洲浜と水の存在は、「場所」を意識させるものとして、非常に重要と思われます。浮遊する文様が居場所を見つけたといってもよいでしょうか。そこにはある種の「風景」が存在しているのです。


洲浜萩双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 鎌倉時代・13世紀(E-15442)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



鎌倉時代から、南北朝時代を経て、室町時代に至るいわゆる中世には、蓬莱鏡(ほうらいきょう)と呼ばれる、東海の理想郷・蓬莱山(ほうらいさん)を表したとされる文様を施した鏡が流行しました。鎌倉時代の作である蓬莱鏡はその典型例で、下方に波と洲浜が広がり、右方には岩と松が存在感を示し、鈕の左には2羽の鶴が洲浜の上に羽を広げています。鈕は亀形となり、岩の下方に配置された亀とともに、鶴亀文様を構成しています。左方の洲浜と右方の岩から伸びた竹は、松とともに松竹文様を構成しており、常に緑を保つ常磐木(ときわぎ)と長寿を象徴する鶴亀とで、蓬莱山を表しています。身近な野辺の景色と思われた山水描写は、年月を経て、理想の世界へと昇華していったと考えられるのです。
蓬莱文様は、江戸時代にも婚礼調度などに盛んに用いられました。古い家ではまだ、蓬莱文様の鏡や柄鏡(えかがみ)が眠っているかもしれません。その源流は平安時代の鏡に見られる水辺の文様へと辿ることができるのです。


蓬莱鏡
鎌倉時代・13世紀(E-19965)
(本館3室にて展示中。2023年12月3日まで)



この他にも、山吹や桜、楓(かえで)などの身近な植物を主題にした文様や網を張ったような文様(網代文<あじろもん>)など、いろいろな文様がありますので、心になじむ和の文様を愉しんでいただければと思います。

ところで、羽黒鏡は、羽黒山にある出羽三山神社の御手洗池から、大正初年から昭和初年にかけて4度にわたって行われた池の工事に伴い発見されたもので、ご神体と考えられた池に、祈願や報賽(ほうさい お礼参り)のために宝物を投げ入れる「投供(とうぐ)」の儀礼によって奉納されたと考えられています。洗練された作風から、平安京で作られたと考えられており、いずれも直径10センチメートル前後と小振りなのは、出羽三山修験(しゅげん)の行者などに託し、運搬しやすいように取り計らわれたためかもしれません。
ここでは紹介できなかったような多種多様な美しい文様が見られるのは、都の貴顕(きけん 身分が高い人)が思い思いに、自分の最も好んだ一面に願いを託したためかもしれません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月24日 (火)

 

常盤山文庫の墨跡コレクション

東洋館8室にて開催中の特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(2023年10月22日まで)は、閉幕まで残りわずかとなりました。
本展をご紹介してきましたリレーブログも6回目、これで最後となります。
最終回は、世界に誇る常盤山文庫の墨跡(禅僧の書)コレクションについてお伝えしたいと思います。

常盤山文庫初代理事長の菅原通濟氏(すがはらみちなり、1894~1981)が蒐集し、長男の2代目理事長菅原壽雄氏(すがはらひさお、1923~2008)がその普及と拡充に尽力された墨跡コレクションは、中国の宋・元時代、日本の鎌倉・室町時代の徳の高い僧侶の書を主とし、国宝2件、重要文化財21件、重要美術品18件を含みます。

なかでも宋元の墨跡は、当時海を渡って学んだ日本の禅僧が、修行の過程で師僧たちから授かり苦難の果てに持ち帰ったものや、帰朝後も続いた交流のなかで送られたものが少なくありません。

たとえば、コレクションの代表作の一つ「禅院牌字 巡堂」は、東福寺開山として知られる円爾(えんに、1202~1280)が、南宋での修行から帰朝後、博多の承天寺の開堂に際して、師であり南宋禅宗界の重鎮であった無準師範(ぶじゅんしばん、1177~1249)から送られた一群の額字・牌字(扁額・牌の手本用の書)のうちの1件です。現在、京都国立博物館で開催中の特別展「東福寺」(2023年12月3日まで)の出品作品、国宝「禅院額字幷牌字(ぜんいんがくじならびにはいじ)」(東福寺蔵)とともに、かつて東福寺に伝来した由緒をもち、寺外に出る際の控えとして制作されたと思われる精緻な模本が東福寺に伝わります。


重要文化財 禅院牌字 巡堂(ぜんいんはいじ じゅんどう)
無準師範筆 南宋時代・13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



同じく円爾が帰朝後に、同門の中国僧、剣門妙深(けんもんみょうしん、生没年不詳)から送られ、かつて東福寺に伝来した書簡「円爾宛尺牘」は、繊細な筆致で無準師範の訃報と遺言を伝える内容です。
また、「白雲恵暁宛雅号偈」は、円爾の弟子の白雲恵暁(はくうんえぎょう、1228~1297)が南宋での修行中に、無準師範門、つまり法系上の叔父にあたる断谿妙用(だんけいみょうよう、生没年不詳)から授かったものです。雅号(がごう、字(あざな)とも)の「白雲」にちなんだ偈(げ、仏教に関する詩のこと)を躍動感のある筆致で書写し、白雲恵暁が中国でも日本に帰っても、大空に漂う白雲のように自由をもって求道し、迷いの者たちを導くようにと願った内容です。
これらは、南宋・鎌倉時代における日中間の禅宗交流を示す重要な資料として、更には、南宋時代の確かな書としてもたいへん貴重です。


重要文化財 円爾宛尺牘(えんにあてせきとく)
剣門妙深筆 南宋時代・淳祐9年(1249) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



重要文化財 白雲恵暁宛雅号偈(はくうんえぎょうあてがごうげ)
断谿妙用筆 南宋時代・咸淳5年(1269) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



一方、コレクションには、中国の師僧が渡来して、日本で書写した墨跡もみられます。
「看経榜断簡」は南宋時代の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213~1278)の墨跡です。蘭渓道隆は、渡来僧として初めて本格的な禅宗をもたらした人物で、鎌倉時代の寛元4年(1246)に来日し、建長5年(1253)には執権北条時頼(ほうじょうときより、1227~1263)に迎えられて鎌倉の建長寺の開山となるなど、博多・京都・鎌倉の寺院で禅の発揚に尽力しました。
重厚で端整な字姿の本作は、時頼の子、執権北条時宗(ほうじょうときむね、1251~1284)の治世が久しく安寧に続くことを祈願した内容で、法会に際して読む経典名などを堂内に掲示した書の一部とみられます。


重要文化財 看経榜断簡(かんきんぼうだんかん)
蘭渓道隆筆 鎌倉時代・13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]



「看経榜断簡」は江戸時代初期、もと神宮の外宮神官を務める家柄であった久志本家に伝わり、禅僧の沢庵宗彭(たくあんそうほう、1573~1645)と儒学者の林羅山(はやしらざん、1583~1657)が当時書写した添幅が付属します。沢庵宗彭は、本作が「建長開山大覚禅師(蘭渓道隆)」の真筆に疑うところなし、と述べ、林羅山は、北条時頼・時宗が蘭渓道隆に帰依したことや本文の内容について記しています。
コレクションの墨跡には、伝来過程で制作されたこのような付属品が少なからず見られます。作品の来歴を知る重要な資料であるばかりでなく、歴史上著名な人物の手になることもあり、付属品自体が鑑賞の対象とされることもありました。


附 久志本式部少輔宛証状(くしもとしきぶのしょうあてしょうじょう)
沢庵宗彭筆 江戸時代・17世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]



附 久志本式部少輔宛識語(くしもとしきぶのしょうあてしきご)
林羅山筆 江戸時代・寛永15年(1638) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]


コレクションの代表作「遺偈(棺割の墨跡)」は、渡来僧が日本で生涯を閉じようとした際の末期の書です。筆者は元時代の禅僧、清拙正澄(せいせつしょうちょう、1274~1339)。鎌倉時代の嘉暦元年(1326)に来日し、翌年、建長寺の住持となり、のちに後醍醐天皇(1288~1339)の勅命によって建仁寺、南禅寺の住持を務めました。清拙正澄は暦応2年(1339)正月17日、66歳で没しましたが、本作はまさにその日に書写されました。
「毘嵐空を巻いて海水立つ(世界の初め・終わりに起こるという暴風が空を巻いて吹き荒れ、海の水が立ち上る)」の句から始まり、ときおり線が震えながらも凛とした筆致で書き進め、末2行目の日付でやや筆が乱れますが、末行の法諱「正澄」を毅然とした態度で書写しています。そして最後の花押(かおう)は意に満たなかったのか、再度筆を入れなおし、残す気力を筆墨に込めるかのようにして書き終えています。
同じく清拙正澄の建仁寺住持期の墨跡「活侍者宛餞別偈」が厳しい印象の字姿であるのに対して、本作はどこか穏やかさを覚える字姿であり、最期を迎えた清拙正澄の心境が表れているようにも思われます。


国宝 遺偈(棺割の墨跡)(ゆいげ かんわりのぼくせき)
清拙正澄筆 南北朝時代・暦応2年(1339) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]



重要美術品 活侍者宛餞別偈(かつじしゃあてせんべつげ)
清拙正澄筆 南北朝時代・14世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



宋元の墨跡は、日本において禅宗寺院にとどまらず、禅を尊んだ武家や禅の精神に拠りながら発展した茶の湯の世界などでも珍重され、現代まで大切に伝えられてきました。
一方、本場の中国には宋元の墨跡はほとんど遺されていません。その背景には、王朝交代時の戦乱の規模や禅宗寺院を取り巻く環境など、日本との様々な違いが想像されます。
このような貴重で魅力ある作品を数多有する常盤山文庫の墨跡コレクションは、世界屈指と言っても決して過言ではないでしょう。

 

カテゴリ:特集・特別公開「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」

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posted by 六人部克典(東洋室) at 2023年10月21日 (土)

 

日本彫刻史の闇に光を射す

特別展「京都・南山城の仏像」展覧会タイトルを見た人の「なんざんじょう?…」という反応が目に浮かびます。

山城は京都の古い呼び方南はその南部。それでもピンとこないであろうから、「京都」をつけて、京都にかかわる仏像の展覧会であることがわかるようにしました。

南山城(みなみやましろ)は聞きなれませんが、そこにある浄瑠璃寺や岩船寺はよく知られたお寺です。海住山寺の十一面観音菩薩立像は美術全集に掲載されます。

とはいえ馴染みのないお寺や仏像もあります。私は、出品作品中に見たことがなかったという仏像はありませんが、薬師寺、寿宝寺、松尾神社、現光寺、極楽寺には訪れたことがありません。

本展覧会は、交通の便が悪いため拝観の機会がない仏像を見ることができる、またとない機会です。そして、展覧会を見たら、仏像が本来置かれているお寺をぜひ訪れてください。素晴らしい風景がひろがります。

展覧会場には私にとって懐かしい仏像があります。禅定寺には十一面観音菩薩立像を含め多くの仏像があり、学生時代に仏像の勉強をする仲間と詳しく調査をさせていただきました。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 平安時代・10世紀 京都・禅定寺

薬師寺の薬師如来像は京都府立山城郷土資料館に預けられていて、そこで調査をさせていただきました。

重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・9世紀 京都・薬師寺

さて、そのような仏像のなかから、私の気になる像をご紹介します。

重要文化財 薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺

阿弥陀寺の薬師如来像は9世紀前半に製作された像で、一木造り、翻波式衣文(ほんぽしきえもん、丸みのある大きな襞としのぎ立った小さな襞を交互に配する、おもに平安時代前期に用いられた衣の表現)、異相の表情とその時代の仏像の特徴がそなわります。

同じく京都・阿弥陀寺の薬師如来立像。右袖の翻波式衣文をご覧ください


同じく京都・阿弥陀寺の薬師如来立像(近赤外線写真)。ヒゲが描かれています

しかしさらに、製作した工房の作品の特徴が表れている可能性があります。

その工房の特徴を指摘したのは、学生時代に禅定寺や薬師寺の仏像調査を一緒にした奥健夫氏(現武蔵野美術大学教授)です。

学生時代に執筆された「東寺伝聖僧文殊像をめぐって」(『美術史』第134号、美術史学会、1993年)という論文のなかで、京都・東寺の聖僧文殊像(しょうそうもんじゅぞう)、空海が造立に関わった同寺講堂の五大明王像、奈良国立博物館所蔵の薬師如来坐像(国宝)には共通した特徴があり、それと同じ特徴をもつ像がほかに複数あって、それらは同一の工房で製作された可能性があるとしました。

奥氏は、その工房については多くの作品を検討しなければならないので稿を改めるとされましたが、新しい論文はまだないようです。

平安時代前期は仏師や造仏工房に関する資料が少ないことから、仏師の暗黒時代ともいわれています。そこで、ぜひ論じていただきたいという期待をこめて、阿弥陀寺の薬師如来像がその工房で製作された可能性があるということを述べたいと思います。

工房の作品の特徴とされる表現を、奈良国立博物館の薬師如来像(〈注〉本展には展示されません)と比較しながら見てみましょう。

(1)寸がつまった体形をしています。
 
(左)重要文化財 薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 (右)国宝 薬師如来坐像 平安時代・9世紀 奈良国立博物館

(2)口元を引いています(奥氏は論文では工房の特徴にあげていません)
 
(左)京都・阿弥陀寺の薬師如来立像 (右)奈良国立博物館所蔵の薬師如来坐像

(3)耳上部の輪郭線が折れ曲がるように耳の中心に向かい、その部分が平(たいら)です。
 
(左)京都・阿弥陀寺の薬師如来立像 (右)奈良国立博物館所蔵の薬師如来坐像

(4)低平な帯状の大波としのぎ立った小波を等間隔に重ねます。
 
(左)京都・阿弥陀寺の薬師如来立像 (右)奈良国立博物館所蔵の薬師如来坐像

(5)先端
が茶杓形(ちゃしゃくがた)の衣の襞を、左右から対抗するように配置する衣文表現。
 
(左)京都・阿弥陀寺の薬師如来立像 (右)奈良国立博物館所蔵の薬師如来坐像

奥氏はほかにも特徴を指摘しますが、それらは、阿弥陀寺の薬師如来像にはそなわっていません。

その理由は、阿弥陀寺の薬師如来像が奈良国立博物館の像よりも十年以上後につくられたためでしょう。時代が経つにつれ表現が変化したのです。そのことは変化しながらも同じ表現を長期間維持する工房が存在したことを示し、平安時代前期の造仏工房のありようがうかがえるのです。

このように、南山城には日本彫刻史研究にとっても貴重な仏像が伝わります。
浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展「京都・南山城の仏像」にぜひお越しください。
 

(注)奈良国立博物館所蔵の薬師如来坐像の画像はすべて出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ仏像「京都・南山城の仏像」

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posted by 丸山士郎 at 2023年10月19日 (木)

 

連歌懐紙とやまと絵

特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」(10月11日(水)~12月3日(日))では、現在、四大絵巻を一同に展示していますが、ご覧いただけたでしょうか。
本展では、書の料紙装飾も「やまと絵」と比較しながらご紹介しています。室町時代・15世紀以降になると、連歌懐紙の料紙下絵が華やかに描かれるようになりました。


法楽歌仙連歌懐紙 初折
室町時代 応永30年(1423) 愛知・熱田神宮
展示期間:10月11日(水)~11月5日(日)
二紙を半期で展示します。二折は11月7日(火)~12月3日(日)まで展示します。

これは、応永30年(1423)11月13日に熱田神宮(愛知)で行われた法楽連歌を記した懐紙です。
本来はこれを横に半分に折って表と裏で見るものですので、下半分が天地逆に描かれています。上端と中ほどにそれぞれ金銀の揉み箔が撒かれていて、金銀泥などを使って下絵が施されています。
雲に少し隠れた金色の太陽と山と田舎屋、川で舟をこぐ人物も見えます。その先にある鳥居と松は神様を暗示していると考えられます。下半分には鶴と、笹が拡大して描かれています。この下絵は、以後に作られる連歌懐紙の下絵とは違い独特の雰囲気を持っています。
このあと16世紀に入ると連歌懐紙の下絵はおおらかな画風となります。


大原野千句連歌懐紙 第十帖
細川藤孝筆 室町時代 元亀2年(1571) 京都・勝持寺
展示期間:10月11日(水)~11月5日(日)
左側にいる蛙をさがしてみてください。


これは、元亀2年(1571)2月5日~7日、勝持寺(京都)で行われた千句連歌を、細川藤孝(幽斎、1534~1610)が清書した懐紙です。勝持寺は、現在も「花の寺」と呼ばれますが、「西行桜」をはじめ桜の名所として有名です。この千句連歌では、最初に「花」を詠む決まり事となっていたため、中央に桜が大きく描かれています。
この懐紙の下絵は、連歌で詠まれた内容に対応しています。そのため、「袖ふれて花の香とりの宮居哉(三大)」「藤なみこゆる露の玉垣(白)」「雨そそく池の蛙のうかひ出て(紹巴)」にあわせて、桜を中心に、右側に藤、鳥居と玉垣、伏籠、左側に雨と池から顔をのぞかす蛙が表されています。鳥居と玉垣は、勝持寺と歴史上深い関係にあった古社・大原野神社を示していると考えられます。
のびのびとした描線で楽し気にも見える下絵は、この時代の連歌懐紙の特徴ともいえます。それは、時代とともに変化した「やまと絵」の影響を受けているのではないでしょうか。

ぜひ、書の料紙下絵も注目して、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」をご覧ください。

 

カテゴリ:「やまと絵」

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posted by 惠美 千鶴子(客員研究員) at 2023年10月18日 (水)

 

和鏡(わきょう)への道のり

現在、平成館企画展示室では特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」(2023年11月19日まで)を開催しております。同じような大きさの円い鏡ばかりが並んでおりますが、そのみどころについて、1089ブログで2回に分けてご紹介したいと思います。


特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場

 「和服」、「和食」、「和室」、「和風」……、「和」は美称として頭に「大」をつけることもあり(「大和」)、「やまと」すなわち日本を指すことばとしてなじみのあるものです。現在当館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」のタイトルにある「やまと絵」も、「大和絵」と記されることもあり、中国絵画の主題や様式を反映した「唐絵(からえ)」や「漢画」に対して、日本的な主題や様式を示す絵画に対して用いられてきたものです。
それでは一般の方にはちょっとなじみの薄い「和鏡」とは、一体どういったものでしょうか。

日本において前近代には鏡は銅(青銅)で作られるのが一般的で、顔を写す面とは反対の面(鏡背<きょうはい>)には様々な装飾が施されました。銅鏡は溶かした銅を型(かた)に入れて作る鋳物(いもの)なので、型に表した文様(もんよう)を鋳出(いだ)して装飾することがよく行われました。中国・漢の時代には幾何学的な文様や観念的な神仙世界の文様が好まれましたが、唐の時代になると、鳥や花といったモチーフが大きく生き生きと鏡背に表されるようになりました。和鏡のルーツはこの唐代の鏡(唐鏡<とうきょう>)に求められます。

唐の鏡は飛鳥から奈良時代に、遣唐使によって日本にもたらされました。奈良にある興福寺の中金堂の地下から発見された瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはっかきょう)は唐鏡と考えられるもので、中央にある鈕(ちゅう 紐などを通すためのつまみ)を挟んで左右に鳳凰(ほうおう)が向き合って表され、上下には中国風の花文様が配置されています。
他にも瑞雲双鸞八花鏡(ずいうんそうらんはっかきょう)のように、鈕の左右に鸞(らん)という想像上の鳥が向き合って表され、上下に雲、界圏(かいけん)と呼ばれる円い線の外側(外区)に雲や蝶が配置された鏡もあります。こちらは日本で唐鏡を型にとって作られた(これを「踏み返し」といいます)鏡のようで、コピーを繰り返した画像のように文様がぼやけてきているのが特徴です。
こうした唐代の鏡やこれを模倣した鏡(唐式鏡<とうしききょう>)が和鏡の遠いご先祖様に当たるといえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 中国・唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

瑞雲双鸞八花鏡
兵庫県宍粟市山崎町金谷出土 奈良時代・8世紀 柴尾清平氏寄贈(E-14306)
(本館1室にて展示中。2023年10月29日まで)



平安時代になると、踏み返しから脱却し、唐鏡をお手本にした鏡が日本で作られるようになります。平安時代に主流となる瑞花双鳳八稜鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)は、鈕の左右に向かい合う鳳凰、上下に中国風の花文様(瑞花)が表され、外区には花唐草(はなからくさ)の文様がめぐっています。これは基本的には先に見た瑞花双鳳八花鏡と瑞雲双鸞八花鏡の構成を踏襲していますが、中国に例がなく、唐鏡を元にしてこれを翻案し、日本で創出されたと考えられます。


重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)

(展示の予定はありません)


また、907年に唐が滅んだ後、五代十国の興亡を経て、960年に強大な帝国を築いた宋の時代に作られ、民間の貿易船などによってもたらされた鏡(宋鏡<そうきょう>)も和鏡のご先祖様に当たります。
これら宋鏡の特徴は、鏡胎(きょうたい)が薄く作られていることや内区と外区を分ける界圏がないこと、鈕がとても小さく文様などが表されないところにあります。中国からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の本尊・釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)の胎内に納められていた鏡や獅子唐草文六花鏡(ししからくさもんろっかきょう)はそうした特徴を備えた作例です。


獅子唐草文六花鏡
宋時代・10~13世紀 中国(TE-81)
(展示の予定はありません)



これら唐鏡には見られない特色も和鏡に反映されており、唐鏡と宋鏡をルーツに、平安時代・11世紀後半頃に、和鏡が成立したと考えられるのです。
つまり、和鏡は、中国の鏡が年月をかけて、日本風にアレンジされたものということができます。そしてその主題も、中国の鏡やこれを模倣した鏡に見られたような瑞花や鳳凰といった空想上の存在から、秋草や松、鶴や雀といった身近に存在する植物や鳥へと移っていったのです。

今回特集して展示している、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」は、そうした和鏡の極致を示すものとしてよく知られています。
例えばその中の一つである菊楓蝶鳥鏡(きくかえでちょうとりきょう)では、鈕を挟んで植物文と鳥がそれぞれ向かい合い、界圏で内区と外区が分かれる構図は維持しながらも、植物は菊に、鳥は雀のような小鳥に替わっています。蝶が外区に留まっているのも唐鏡の要素を色濃く残している点で興味深い作例です。
同じ主題で他の作例も見てみましょう。菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、同じく界圏を残す形式ながら、界圏を無視して菊花が勢いよく伸びていき、鳥は向かい合うのではなく、並ぶように飛んでいます。ここでは既に唐鏡の構図が完全に崩れているのがわかります。


菊楓蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15432)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

菊枝双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15420)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



また、界圏がなく、鈕の小さい宋鏡の系譜に位置づけられる菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、文様的な構成を脱却し、一幅の絵画のように菊と小鳥が表されています。このような構図の自由さも和鏡の魅力の一つです。こうした絵画的な構図は同時代の他の工芸品にも見られるもので、当時のやまと絵はもちろん、これに影響を与えた中国・宋代の絵画の様式を受け継いでいると考えられます。


菊枝双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15395)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


 「和」というと、純粋に日本で創造されたように思われがちですが、中国の先進的な文化を受容し、それを基礎にして作り上げられたのが和鏡の形状であり、鏡背文様の構図であるといえます。とはいえ、和鏡の文様に感じられる心和むような安堵感や自由な構図には、自然の豊かな東方の島国で育まれてきた日本人の好みが深く刻み込まれているのではないでしょうか。

次回は羽黒鏡にみる和の文様についてご紹介したいと思います。
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カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月17日 (火)