このページの本文へ移動

1089ブログ

黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景1

本ブログは、特集陳列「黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景」(~ 2012年4月1日(日))で展示される作品をご紹介する全3回のブログのうちの、第1回です。

≪湖畔≫(1897年)などの作品で知られる洋画家黒田清輝 (1866-1924)には、追い求めていた絵画世界がありました。それは複数の人物を自然の中に配し、愛や勇気といった抽象的な概念を表現するもので、その主題として大切にされていたのが「労働」と「休息」でした。この主題は黒田の独創というわけではありません。留学先のフランスで先行する作例を見た経験が背景にあるようです。たとえば、黒田はバルビゾン派の画家であるジャン・フランソワ・ミレーの作品を高く評価していました。ミレーといえば ≪落穂拾い≫≪晩鐘≫などが思い浮かびます。 ≪落穂拾い ≫は麦刈りの後に落穂を拾う労働の場面を、 ≪晩鐘≫は農作業を終え、感謝の祈りを捧げてこれから休息に向かう場面をとらえた作品です。
平成22年度には「農村 (田園)へのまなざし」と題する特集陳列で、黒田が田園の労働を描いた作品をご紹介しました。この展示では、黒田が描こうとした「休息」を主題とする作品につらなる作例を当館の所蔵品によってご紹介します。


黒田清輝は薩摩藩士の子息として、江戸時代も終わりに近い 1866年に鹿児島で生まれました。実父清兼とその兄清綱の間には、黒田家で最初に生まれた男子を家の跡継ぎとするという約束があったとされ、清輝は 5歳で伯父清綱の養嗣子となります。黒田清綱は幕末に西郷隆盛らとともに奔走し、維新に勲功があったと評価されて 1887(明治20年)に子爵となりました。黒田清輝は武家の子息の素養として漢学のほか狩野派の絵画を学びますが、少年の頃の夢は法律家になることでした。当時の法曹界はフランスからのお雇い外国人ボアソナードらが活躍しており、フランス法に学んで日本の法律が制定される動きがありました。黒田が留学先にフランスを選んだのはそのためと考えられます。留学準備として英語やフランス語を学び、法律家になるために黒田は1884年にパリに留学します。


黒田の少年時代の写真(1879年、東京にて)


パリに着いた黒田はリセに入学して法律学校入学の準備を進めますが、一方で、パリ留学中の日本人たちと交遊するうち、絵画に興味を持ち始めます。当時、ヨーロッパでは日本趣味 (ジャポネズリー )が流行しており、日本美術が高い評価を得ていたことも一因していたようです。また、黒田が趣味で描く絵に日本から来ていた画学生や美術商・林忠正らが画才を見出し、画家になるよう勧めたことも強い動機づけとなりました。

  
(左)黒田の留学初期の写真(1884年、パリにて)
(中)≪裸婦習作≫紙・木炭 明治20年(1887)
(右)≪裸体・女(後半身)≫カンヴァス・油彩 明治22年(1889)
(展示予定は未定)



1886年に黒田はサロンの画家ラファエル・コランの画塾に入り、本格的な修学を始めます。コランの絵画教育は、木炭による石膏像デッサン、裸体デッサンに始まり、油彩による裸体習作、構図研究、自由制作に至るアカデミックなものでした。

黒田の画才は「すらすらと伸びた」とコランのもとで一緒に絵画修学をした久米桂一郎が述べています。 1890年には油彩の自由制作をするようになっており、この頃からサロン出品を意識するようになっていったようです。


コラン肖像写真 紙・鉛筆 大正5年(1916)
(展示予定は未定)



サロン出品をめざして最初に試みたのが ≪マンドリンを持てる女 ≫(1890-91年)です。楽器を手にしてクッションに寄りかかる女性は、演奏のあとなのか、やや上気した表情です。繊細な弦楽の余韻、柔らかい布の触覚が伝わってきます。


マンドリンを持てる女 黒田清輝筆 明治24年(1891)(~ 2012年4月1日(日)展示)


黒田にとって最初のサロン入選作となった ≪読書≫(1891年)は、パリ近郊の農村、グレー・シュル・ロアンで、この村に住むマリア・ビョーという少女をモデルとして描かれました。マリアの家は豚肉とその加工品を商っていたようです。彼女自身がこのように読書をするような有閑的生活を送っていたかは疑問です。読書する女性は 19世紀のフランス絵画によく描かれていますが、それは、ひとつには、余暇をもち、その時間を知的に過ごすことが憧れの対象であったからです。


読書 黒田清輝筆 明治24年(1891)(~ 2012年4月1日(日)展示)


≪読書≫(1891年)でサロン入選を果たした翌年、黒田は師ラファエル・コランが 1877年のサロンに出品した ≪夏≫を参考とした≪夏図≫の制作に取り組みます。水辺で女性たちが釣りをしたり、話をしたりする情景を描いた大作のために、多くの画稿が描かれました。それらは後年の ≪花野≫の制作にもつながっていきます。

 
(左)夏図画稿(横たわる女) (右)夏図画稿(女の顔)
(左右ともに)黒田清輝筆 明治25年(1892)(~ 2012年4月1日(日)展示)

カテゴリ:研究員のイチオシ

| 記事URL |

posted by 山梨絵美子(東京文化財研究所 企画情報部近・現代視覚芸術研究室長) at 2012年02月28日 (火)

 

書を楽しむ 第9回「白氏詩巻に挑戦!?」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第9回です。


今回は、国宝「白氏詩巻」です!

トーハクの総合文化展、本館2室「国宝室」に、
「白氏詩巻」が展示されています!!(~2012年3月18日(日)展示)


国宝 白氏詩巻(部分) 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018)


じつは、私がいちばん好きな作品です。
その理由は単純で、「こんな字が書きたい!」です。

というわけで、写してみます。
展示室で写すときは、作品の保護のために、エンピツを使ってくださいね。


私が字を写すときの道具一式です。

エンピツ版「白氏詩巻」、いかがですか?

 
エンピツで写した白氏詩巻 (右)左画像の部分拡大

形はがんばって似せてみました。
でも、一番左の行は字が大きくなってしまい、さいごの文字まで書けませんでした。

普段はエンピツで写すだけですが、今回は、毛筆でも写してみました。
(注)展示室では毛筆は使えませんので、自分の机で写真を見て写しました。


 
(左)毛筆で写した白氏詩巻
(右)該当部分の白氏詩巻(冒頭に掲載の画像、国宝「白紙詩巻」の部分拡大)

この箇所は、とくに好きな部分です。
さらっとくずした字もあって、バランスがとてもいいです。
でも、
難しいのは筆の弾力。
形と筆の動き、この調和がなにより大切。
この調和こそが、書く楽しみでもあり、鑑賞する楽しみです。


「白氏詩巻」は、藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)が寛仁2年(1018)に書きました。
当時の宮廷貴族のあいだで、中国・唐時代の白楽天(白居易)の詩集『白氏文集』が
流行して、筆写されました。
この作品も、『白氏文集』を書いているため「白氏詩巻」と呼ばれています。

藤原行成は、能書として歴史的に評価の高い「三跡」のひとり。
同じく「三跡」の小野道風や、中国の王羲之を学んだと言われています。
重要なのは、藤原行成が、「和様(わよう)の書」を確立したことです!
「和様の書」とは、日本風の書、と言ったらいいでしょうか。
それまで書かれていた中国風の書にくらべて、
やわらかく、なだらかな線が特徴です。

その行成の力量がいかんなく発揮されているのが、この「白氏詩巻」です!

さらに、この「白氏詩巻」には……
言いたいことが山ほどありますが、今回はこのへんで。

書にとって写すことはとても大切なことです。
好きな作品を見つけたら、写してみてください。

私の大好きな「白氏詩巻」、全部展示していますので、
ぜったいに見てくださいね!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

| 記事URL |

posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年02月24日 (金)

 

東京国立博物館コレクションの保存と修理

今年で140周年を迎えた東京国立博物館(トーハク)は、11万3千件を超える文化財を所蔵しています。
その歴史は日本の博物館のなかでもっとも古く、収蔵品の量も最大規模。
それだけにコレクションの保存状態は、必ずしも良好なものだけとは限りません。
貴重なコレクションを次の世代に伝えることができるように、トーハクでは文化財の収集や展示などと並行して、保存と修理のための活動にも日々取り組んでいます。
特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」(~2012年4月1日(日))は、実際に修理した収蔵品の展示を中心に、普段なかなかご覧いただくことのできない保存と修理の活動をわかりやすくご紹介する企画です。
平成12年(2000年)から数えて今年は12回目の実施となります。


平成21年(2009年)に実施した特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」の会場


修理の内容は作品個々の分野や材質・状態、さらには目指す展示や保管のあり方によっても変わってきます。
今回のブログでは 重要美術品 柳橋水車図屏風(りゅうきょうすいしゃずびょうぶ)を例にして、修理がどのように進められたのかを具体的に紹介したいと思います。


修理前の作品。裂や縁木などは新調しました。
重要美術品 柳橋水車図屏風 筆者不詳 安土桃山~江戸時代・16世紀末~17世紀初
6曲1双 紙本金地着色
右隻 本紙 縦154.4㎝ 横323.1㎝
左隻 本紙 縦154.8㎝ 横324.3㎝



(1)この作品の保存上の問題点はなんといっても盛り上げた胡粉(ごふん)と緑青(ろくしょう)部分の剥離・剥落でした。

 
(左)剥落した蛇籠の盛り上げ胡粉
(右)剥落した柳の葉の絵具・緑青



(2)修理前には観察を通して内部の保存状態を詳細に把握。肉眼観察だけでなく、光学機器などを使うこともあります。

 


(3)いよいよ処置を開始します。まずは屏風を1扇ずつに解体。金具や縁木も外していきます。

 


(4)次に剥離が起こっている絵具を膠(にかわ)(動物の骨や皮から作る接着剤)などで安定させます。これを剥落止めといいます。盛り上げ胡粉の部分も保護してから下地から本紙を剥がします。

 


(5)下地から剥がしたら、再び絵具などに剥落止めを行ない、古い裏打紙を除去します。少しずつ裏打紙を剥がしていった後に、今度は新たに裏打ちを行ないます。

 


(6)同時に下地の準備も行ないます。木製の骨下地が歪まないように、全部で六種類もの下張りを繰り返します。下張りには今回の修理をいつだれが行なったのかという記録も添えます。このような記録は、いつか次の修理をする時にきっと役に立つはずです。

 


(7)平行して、新しい裂(きれ)や金具を選びます。関係者が幾度も話し合いを行ないます。PCのバーチャル空間で裂の取り合わせ作業も試みました。

 


(8)作品を前にして、候補の裂と作品の相性を確認しました。



新調する金具は、制作された時代によく見られる唐草文を取り入れたデザインにしました。

 


(9)本紙の欠失部分には補紙をあて、その部分にのみ補彩を行ないます。色の見本を作って色を合わせていきます。

 


(10)絵具層も安定し、下地も完成したらいよいよ張り込みです。



唐紙、本紙を張り込んでいきます。

 


(11)裂を張り込んだら、縁木と金具を取り付けて仕上げです。

 


(12)関係者が集まって仕上がりを点検。大勢の人たちが関わり、話し合いをしながら、一つの修理作業がようやく終わりました。




以上、柳橋水車図屏風の修理をどのように進めてきたのかについてご説明いたしました。
修理の結果、この屏風はいったいどのように生まれ変わったのでしょうか。
その答えは会場でぜひ直接お確かめください!

会場には柳橋水車図屏風のほかにも、絵画・書跡・工芸・彫刻・考古など幅広い分野の作品が合計15件展示されています。
修理を通して再生された作品の魅力とともに、ひとつひとつ異なる修理作業の奥深さにも触れていただければ幸いです。
 

(関連事業)
列品解説 東京国立博物館の保存修復事業について 2011年2月21日(火) 当日受付
列品解説 柳橋水車図屏風の修理について 2011年2月28日(火) 当日受付
列品解説 絵画・書跡作品の保存と修理 2011年3月13日(火) 当日受付
列品解説 屏風修理の事前調査 2011年3月27日(火) 当日受付

カテゴリ:研究員のイチオシ

| 記事URL |

posted by 川村佳男(保存修復室) at 2012年02月21日 (火)

 

江戸時代の地図

今回の特集陳列「江戸時代の地図」(~2012年3月25日(日))は大きく特別1室が日本図、特別2室が世界図という分け方で展示をしています。
 
(左)特別1室、日本図の展示 (右)特別2室、世界図の展示

無論、世界には日本も含まれているわけで、各時代の世界図の中で日本がどのように描かれているかを見ていただくと興味深いものがあります。
以降に掲載の画像は全て、2012年3月25日(日)まで展示。


日本列島は大陸から離れた島国ですから、その具体的な形はなかなかわかりませんでした。特に遠方のヨーロッパ人には「黄金の国ジパング」と名ばかり高く、実際にポルトガル人が日本に到達し(1543年)やオランダ船が日本に漂着(1600年)しても、地図上では不確かな情報をもとに怪しげな日本列島が描かれました。

重要文化財 エラスムス立像 1598年 栃木・龍光院蔵
慶長5年(1600)に日本に漂着したオランダ船デ・リーフデ号の船尾像でした。



「西洋鍼路図」2面のうち、アジアを描いた図の東北端に日本が描かれていますが、もとの図では形が変です。
 
西洋鍼路図 17世紀 (右)左画像の部分

まるで近畿以東がなくなっているように見えます。たぶんこの図が制作されて以降、同じように考えた人がいたのでしょう。後筆で東日本を書き加えており、房総半島、三浦半島、伊豆半島とそれらしい形になっています。ところが当時のヨーロッパ人は日本列島は南へ曲がっていると考えたらしく、一見、紀伊半島と見えるのは、実は東北地方のつもりらしいのです。日本列島の形が整うのは、日欧の交流の機会が増える17世紀前半以降のことでした。


日本にも西欧流の測量術が伝わり、「日本航海図」のような、私たちが見ても一目で日本と想像のつく図が制作されるようになります。

重要文化財 日本航海図 江戸時代・17世紀


その後、19世紀の伊能図の完成に至るまで、日本の形は次第に整い正確になってゆきます。

重要文化財 日本沿海輿地図(中図) 東北 伊能忠敬作 江戸時代・19世紀

カテゴリ:研究員のイチオシ

| 記事URL |

posted by 田良島哲(書籍・歴史室長、調査研究課長) at 2012年02月17日 (金)

 

宋元の筆墨、清朝の色彩

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))には多くの傑作が展示されていますが、第Ⅰ部と第Ⅱ部で大分雰囲気が違うのをお感じになる方も多いでしょう。第Ⅰ部では中国芸術の頂点の一つである、宋元の書画や工芸の名品を展示し、第Ⅱ部では清朝の世界観を展示しています。前半の第Ⅰ部が息をのむ名品の数々だとしたら、後半の第Ⅱ部はワクワク、ドキドキするような作品で展示が構成されています。このような展示は、世界中でも北京故宮展にしか出来ません。
今回はまるで中国芸術の大きな流れをそのまま体感できるような展示なのですが、前半と後半の絵画の芸術性には大きな違いがあります。
宋元の書画を特色づけるのは、その生き生きとした墨の表現です。中国芸術では1000年以上あくことなく、作者の感情をそのまま写し出すような筆と墨による表現を追求してきました。作品に向き合えば、単色の墨のなかに、無限の色と精神が表現されているのを感じることができるでしょう。
(以降に掲載の画像はすべて中国・故宮博物院蔵。~2012年2月19日(日)展示)

 
(左)一級文物 桃竹錦鶏図軸(とうちくきんけいずじく) 王淵筆 元時代・至正9年(1349)
(右)一級文物 疏松幽岫図軸(そしょうゆうしょうずじく) 曹知白筆 元時代・至正11年(1351)


渇墨の表現が心に沁みいります。


しかし清朝の宮廷絵画になるとその華麗な色彩に眼を奪われます。例えば「乾隆帝像」。満州族の正装に身を包んだこの作品は、卓越した彩色技法が駆使されています。

 
乾隆帝像 清時代・乾隆元年(1736) (右)左画像拡大部分

輪郭をとることなく、正確なデッサンをもとにした典雅な造形。
イタリア人宣教師、カスティリオーネの作品です。
ほかの部分も、拡大してみましょう。

 
(左)袖口には金、青金(銀を混ぜた金)、銀の三色が使われています。
(右)五爪の龍にも金。黄色の発色が見事です。


 
(左)なまめかしい指先。
(右)見えにくいですが椅子には金泥を塗った上から色がかけられ、全体にキラキラと光り輝く印象を与えています。まさに西洋と東洋の絵画技法を駆使した「技のデパート!」。



乾隆帝の甲冑も同時に展示しています。絵画作品と比較してみましょう。
  
(左)一級文物 乾隆帝大閲像軸 清時代・18世紀
(中)一級文物 黒貂纓金龍文真珠飾冑(くろてんえいきんりゅうもんしんじゅかざりかぶと) 清時代・乾隆年間(1736-1795)
(右)明黄色繻子地金龍文刺繍甲(めいこうしょくしゅすじきんりゅうもんししゅうよろい) 清時代・18-19世紀


金属の輝きが見事に表現されています。
 
(左)一級文物 乾隆帝大閲像軸(部分) 清時代・18世紀
(右)一級文物 黒貂纓金龍文真珠飾冑(部分) 清時代・乾隆年間(1736-1795)


兜には細金による細やかな細工。一つ一つを克明に描きこんでいます。
 
(左)一級文物 乾隆帝大閲像軸(部分) 清時代・18世紀
(右)一級文物 黒貂纓金龍文真珠飾冑(部分) 清時代・乾隆年間(1736-1795)



「フェルメールブルー」ならぬ「清朝的青」。
息をのむような鮮やかな発色の青色と、白とピンクを基調にした布の取り合わせが、なんとも美しいですね。
 
雍正帝行楽図像冊 清時代・17-18世紀 (右)左画像拡大部分


このような清朝の絵画芸術は、南宋画や文人画を重視してきた従来の日本ではほとんど評価されてきませんでした。しかし、作品に静かに対面すれば、その技術の奥に秘められた、画家達の日々のたゆまぬ修練に感動を覚えることでしょう。皆様は第Ⅰ部と第Ⅱ部、どちらがお好きでしょうか?乾隆帝なら「どちらも素晴らしい!」、と言うかも知れません。

中国には「好事多磨(ハオシドゥオモォ)」(良い事には困難がつきものである)、という言葉があります。トーハクが20年以前から故宮と交流を重ね、ようやく実現するに至ったこの展覧会。私は最後の1年に加わったに過ぎませんが、今まで本当に多くの方の努力があってようやく実現したこの展覧会に、少しだけ加わることが出来たことを、心から喜んでいます。

お客様が帰られたあと会場にいると、展覧会の主役の一人、乾隆帝が作品を見に来ているような気がします。
トーハクでの乾隆帝ともあと数日でお別れです。

どうかあと少し、お見逃しなく!

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

| 記事URL |

posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年02月15日 (水)