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1089ブログ

地獄をのぞいてみませんか? 「熊野観心十界曼荼羅」の世界

講談社が発行している漫画雑誌『モーニング』で、江口夏実氏の『鬼灯の冷徹』という作品が連載されています。「鬼灯」という閻魔大王の第一補佐官を主人公にしたお話で、クールでシュールな笑いに毎回魅了されています。しかも、経典などに説かれる地獄の様相を踏まえつつ、時にはある有名な国宝地獄絵の世界観を垣間見せるなど、こうした絵画作品に興味を持つ私の心をグッとわしづかみにしています。
まずはご一読をお勧めしますが、物語の舞台は地獄。少なくともこのブログをお読みの方の中で実際に地獄を見たという人はいないと思いますが(「生き地獄」や「この世の地獄」ではなく、「純粋」な地獄のことです)、見たことがないから見てみたい。それが人情というもの。いつの時代も地獄という世界は人びとの興味関心をかき立ててきました。
現在開催中の特別展「栄西と建仁寺」で展示されている六道珍皇寺所蔵の「熊野観心十界曼荼羅」という作品もまた、地獄をはじめとする異界を垣間見てみたいという人びとの思いや、私たちは死後どこへゆくのかといった疑問にこたえるべく作られた、往時の人びとの想像力の詰まった魅力的な作品です。

熊野観心十界曼荼羅
熊野観心十界曼荼羅 江戸時代・17世紀 京都・六道珍皇寺蔵

この図には私たちの住む「人道」を含む十の世界が描かれることから「十界曼荼羅」と呼ばれています。この「十界」は、悟りを開き、煩悩のない四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)と、苦しみに満ちた六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)から構成されています。

画面は霞によって上下に大きく二つに分けられていますが、まずは画面の上半分を見ていきましょう。

熊野観心十界曼荼羅 上部

赤と白で彩色された日輪と月輪のもと、大きな山が画面を占めています。山の手前側、頂のすぐ下には阿弥陀如来と諸菩薩によって「仏界」と「菩薩界」が、山の右端には「声聞界」、左端には「縁覚界」の「四聖」が描かれます。さらに菩薩界と縁覚界の間には六道のうちの「天道」が、さらに山の向こう側には、人の一生をもとにした「人道」が表わされています。この区画には、四聖の世界と、六道の中でも上位にあたる天、人道が配されています。

「人道」の部分を少し詳しく見ていきます。山の右端のふもとの建物を見て下さい。屏風を背に椅子に深く腰掛けた女性と縁に坐す男性、そして桶の中で産湯をつかう赤ん坊と産婆の姿が見え、ここには出産のシーンが描かれています。その左上には紅い衣をまとってハイハイする乳児。この赤ちゃんは鳥居をくぐり、やがて少年から青年へと成長し、山の斜面を登っていきます。人生を歩むことを、山を登ることにたとえているわけです。
山の頂の少し前、扇を持ち振り返る女性とそれに応える男性。これはこの男性が結婚したことを表わします。ここで人生の折り返し。夫婦は坂を下りながら、やがて杖をつくなど老いていきます。ついに山のふもとに到達。生まれた時と同じように鳥居をくぐり、この男は死を迎えたわけです。我々は人として生を受けたからには、必ず死を迎えなければなりません。そうした人の身の苦しみの一つ、「生老病死」を象徴的に描いています。
さらにご注目いただきたいのが点景として添えられた樹木。幼少期には梅、青年期には桜、壮年期には松、頂を越えたところには紅く色づいた楓、老年期には冬枯れし、雪の積もる樹木が配されます。人の一生を四季の樹木によって表わしているわけです。

山を下り、一生を終えた男。この後、男はどこへゆくのでしょうか?我々は霞に隔てられた画面下部の世界へと導かれていくことになります。

熊野観心十界曼荼羅 下部

まずは画面右下。三途の川を渡り、奪衣婆に衣をはぎ取られます。衣は近くの樹木に掛けられ、そこで生前の業(罪)の重さがはかられます。さらに画面中央のやや左より、「業秤」によっても生前の罪の重さがはかられます。ほんのささいな罪も見逃してくれませんので、たいていの人は有罪判決を受け、苦を受ける身となるのです。
そこで用意されているのは四つの世界。奪衣婆の上部には修羅道(常に戦いをしている)、餓鬼道(常に空腹でありながら何も食べることが出来ない)、畜生道(動物として苦役を受ける)の三つがあります。これらも苦しみに満ちた世界なのですが、まだまだ序の口。罪の重い者は、皆さんご存じの地獄へと堕とされます。
平安時代に源信という僧が記した『往生要集』という書物によれば、地獄は八つの階層から成るとされます(八大地獄)。本図でも、この『往生要集』の記述をベースに、各所でおぞましい責め苦が描かれています。針の山(剣山)などよく知られた地獄をはじめ、舌を抜かれたり、岩で押しつぶされたり…詳細はあえてここでは省略しましょう。実際にご覧いただくのが一番です。ラフな筆致で描かれている点も、妙なリアルさを感じさせます(『鬼灯の冷徹』にはこれら責め苦の様子が分かりやすく説かれています)。

要は言葉での説明がなくとも、誰しもこんなところには行きたくない、あるいは愛する人や肉親が、死後こんなところでつらい目に遭っているのは耐えがたいと思わせるのがこの絵の主眼の一つです。人は生きていればささいな罪でも必ず犯す。よって死後、地獄へ行く可能性が高い。
それでは、地獄に墜ちてしまった場合はどうすればいいのか?
この絵は、地獄の恐ろしさを訴えるとともに、ここからの救済法も描かれています。それが画面のほぼ中央、赤い円の中にある「心」の字とともに描かれた施餓鬼供養。これは今で言うところの、お盆の先祖供養のことです。この供養により、地獄に墜ちた亡者も(一時的に)責め苦を逃れ、運が良ければ地蔵によって三途の川を逆戻りできる(画面左上)というものです。

こうした「熊野歓心十界曼荼羅」は、一般に熊野比丘尼と呼ばれる尼僧が諸国をめぐりながら絵解きしたとされ、和歌山県を中心に多くの作例が確認されています。ではなぜ、このような画題の絵が禅宗寺院たる六道珍皇寺に伝わっているのでしょうか?
その鍵となるのが、同じく今回出陳されている「珍皇寺参詣曼荼羅」です。

珍皇寺参詣曼荼羅
珍皇寺参詣曼荼羅 江戸時代・17世紀 京都・六道珍皇寺蔵


この絵の右上に井戸が描かれているのに気付きます。この井戸は小野篁が冥界への往還に使用したとされる井戸です。篁は、昼は朝廷で政務を執り、夜はこの井戸を通って冥界へと赴き、そちらで行なわれている裁判の補佐をしたとされています(このあたりも『鬼灯の冷徹』で触れられています)。このように、六道珍皇寺のあるあたりは、冥界への出入り口があると考えられていたため、このような地獄や死後の世界を描いた作品が伝わったと考えられます。

今回の展覧会では、同じく六道珍皇寺所蔵の「十王図」などの地獄関係の絵画や、巨大な小野篁像もご出陳いただいており、展覧会会場の一角が「地獄ワールド」を演出し、異彩を放っています。この作品の他にも、今回の展覧会にはこうした禅宗寺院のふところの深さを示すような作品も数多く展示されています。会期も残りあとわずか。ぜひともお運び下さい。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 土屋貴裕(平常展調整室研究員) at 2014年05月13日 (火)

 

特別展「栄西と建仁寺」20万人達成

特別展「栄西と建仁寺」(3月25日(火)~5月18日(日) 平成館特別展示室)は、
5月9日(金)午前に、なんと20万人目のお客様をお迎えしました。
国宝「風神雷神図屏風」を始めとする名品が揃い、見どころの多い展覧会として、
多くのお客様にご来場いただいております。
皆様に心より御礼申し上げます。

記念すべき20万人目のお客様は、東京都文京区よりお越しの前﨑美貴さんです。
本日はお母様とお2人でご来館くださいました。
前﨑さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として特別展図録とトートバッグ、てぬぐいなどを贈呈しました。


「栄西と建仁寺」20万人セレモニー
お母様の前﨑節子さん(左)と前﨑美貴さん(中央)、館長の銭谷眞美(右)
5月9日(金)東京国立博物館 平成館エントランスにて



お母様の節子さんが本展覧会にいらっしゃるのは、実は2回目だとか!
最初にご覧いただいた時は、伊藤若冲筆の「雪梅雄鶏図」が印象深かったそうで、
本日は、お嬢さまとお2人で、改めて見に来られたそうです。
もともと美術が好きで、最近は日本美術に興味を持つようになったという美貴さんは、
「特に海北友松の『雲龍図』が楽しみです。テレビで『雲龍図』が放映されているのを見た時に、その迫力に驚きました。
本物はどれほどすごいのか、しっかり見ておきたいです」
と、お話いただきました。

特別展「栄西と建仁寺」は5月18日(日)まで。会期終了まで10日を切りました。
人気の国宝「風神雷神図屏風」を、そして迫力の「雲龍図」を、ぜひ見にいらしてください。

カテゴリ:news2014年度の特別展

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posted by 高桑那々美(広報室) at 2014年05月09日 (金)

 

キトラ古墳壁画の材料調査

今から約1300年前、飛鳥時代後半に造られたキトラ古墳は、石室内に大陸風、極彩色の壁画をもつことで有名です。
ここでは、キトラ古墳壁画に対して行われている材料調査についてご紹介することにします。

キトラ古墳壁画は漆喰が弱くなっていたり、
表面がバイオフィルム(台所のぬめりのようなもの)や泥に覆われて汚れていたりしています。
壁画の修理は、このような表面の汚れの除去と漆喰の強化、
そして取り外された多くの破片の接合による再構成等からなります。
これら修理作業には壁画の材料と傷み具合に関する基礎データが必要となるため、
材料調査が並行して行われているのです。
材料調査から得られるデータは、修理において重要となるだけでなく、
修理後の保存・活用方法を検討するためにも必要となるものです。

しかし、ここに大きな問題があります。
それは、キトラ古墳壁画が貴重であるが故に、サンプリングをともなう分析調査はできないということです。
また、古代に用いられていた絵具についてはほとんど全くと言っていいほど記録がなく、
材料調査で得られる結果は1300年を経て変化してしまった材料の情報に過ぎません。
壊さず、しかも触らずに調査分析をおこない、
変わり果てた材料のデータから元の材料を推定していこうというのは至難の業といえるでしょう。

このような問題を抱えつつも、あの手この手で調査が進められています。
壊さず、触らずということになると、「光」や「電波」を利用する方法が有効です。
キトラ古墳壁画の材料調査には、蛍光X線元素分析、可視分光分析、斜光によるマクロ撮影、
デジタルアーカイブスキャニング
およびテラヘルツ波イメージングが用いられています。


蛍光X線元素分析の測定風景

一例をあげますと、キトラ古墳壁画の表面は、
漆喰の主成分である炭酸カルシウムが溶出、再結晶して生じた白色の薄い層に覆われていたり、
外部から流入した泥に被覆されて図像が見えにくくなっている部分があります。
このような部分に対して、赤外線によるスキャニングをおこないました。
赤外線は表面を被覆している層を透過してある程度内部に入り込むことができるため、
表面からは見えない画像などを検出することができます。
朱雀の赤外線スキャニング画像を見ると、朱雀の描線、特に嘴の付根の線描や羽翼部分の文様が
鮮明にとらえられていることがわかります。


         

朱雀の赤外線スキャニング画像。
通常では見えづらい線がよく見えます



       ↓

朱雀の顔面部分


特別展「キトラ古墳壁画」の会期中、表慶館においてキトラ古墳壁画の材料調査の成果を、
高精細デジタル画像を駆使して紹介しています。
本館の展示で本物の壁画をご堪能いただくとともに、
表慶館にもぜひおいでいただき、最新の調査から明らかとなってきている
キトラ古墳壁画の世界をぜひお楽しみください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 高妻洋成(奈良文化財研究所埋蔵文化財センター・保存修復科学研究室長) at 2014年05月09日 (金)

 

栄西の人となりについて

日本に禅宗を広め、茶の文化をもたらしたといわれている栄西ですが、その人物像については、あまり知られていないのが実状のようです。その理由の一つは、栄西についてわかりやすく書かれた本が、書店でもあまりみられないことにあると思います。


明庵栄西坐像 鎌倉時代・13~14世紀 神奈川・寿福寺蔵

栄西に関する伝記としてまとまっているものに、初期の五山文学を代表する僧侶である虎関師錬(こかんしれん、1278~1346)が著した『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』があります。
この本は高僧について記した日本仏教史で、中国の事だけ詳しくて、自国の事に無知であることを、元より来日した一山一寧(いっさんいちねい)に指摘されたことがきっかけで、虎関が一念発起して書いたものだそうです。漢文で書かれているため、親しみやすいとはいえませんが、栄西の業績を簡潔に示していて、その人となりを考えるときの第一級の資料です。
たとえば、栄西が二度目に中国に渡ったとき、たまたま立ち寄った天台山万年寺において虚庵懐敞(こあんえじょう)より、密教と禅は本質を同じくすると教えられ、以後、心をつくして禅に精進したことや、5000巻もの一切経を三度も読んだこと、さらに戒律を第一に考えていたことなどが記されています。

また、無住(むじゅう、1227~1312)が、仏教の教義を平易に説き明かそうとした説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』にも栄西に関するエピソードがみえます。
京都で大風があり、禅僧の袖のむやみに大きい異国風の大袈裟のためであると評判になりました。この件で朝廷に呼び出された栄西は、「風神ではないのに、風を吹かせる徳があるのならば、明王はこれを放っておかないだろう」と回答しました。このやり取りに感心した朝廷は、栄西の人物を認め、建仁寺を建立する許可を与えたそうです。
もちろん誇張している部分もあるでしょうが、この説話が、栄西と風神を結びつけ、国宝の風神雷神図屏風を建仁寺が所蔵するにいたったのであれば、なんと楽しいことであろうと思わずにはいられません。


他方、2003年、栄西の研究に大きな進展がありました。名古屋市の大須観音宝生院において、これまでに知られていなかった栄西の著作の成立間もないころの写本や、東大寺大勧進に在職中の栄西自筆の文書17通が、新たに発見されたのです。この書状も栄西の人となりを知る上で非常に貴重な資料といえるでしょう。

本展覧会ではそのうちの4通を展示していますが、内容は下記のようなものです。


会場における展示の様子

(1)九月六日の書状: 建物の造営は、資金があればやり遂げられるものでななく、重源や栄西のような戒律を重んじる力があってこそ実現できる、としています。
(2)正月二十二日の書状: 材木の手配に苦慮していたことを伝えています。
(3)十月十七日の書状: 後鳥羽上皇が周防国(すおうのくに)(山口県)宮野庄からの年貢だけで造営を行うように決定したが、このままでは造営は困難であり、ついには栄西が「打ち殺されてしまう」と危機感を示しています。
(4)言上状: 東大寺大仏殿前の八角灯籠の扉が盗まれたこと、その犯人が銅細工ではないかと指摘しており、栄西が灯籠の造営にも関わっていたことがわかります。

こうした栄西に関連する書跡をとおして、これまでとは違った栄西の人物像に思いをはせていただければと存じます。

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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2014年05月06日 (火)

 

国宝“風神雷神”5年ぶりに参上

「国宝“風神雷神”5年ぶりに参上」というコピーを引っさげて、平成館で開催されている特別展「栄西と建仁寺」の会場に登場したのが、俵屋宗達が描いた「風神」と「雷神」。


国宝 風神雷神図屏風 俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 京都・建仁寺蔵

同じ平成館で開催された「大琳派展」にもこの屏風が出品されていたことを思い出し、「あれから、5年か!」と思われた方も多いことと思います。当館職員の中にも「5年ぶりに宗達筆の国宝「風神雷神図屏風」が当館に参上です。」と説明をしている人がいました。
「大琳派展」が開催されたのは、2008年の秋でした。だから、当館での公開は5年半ぶりになるのです。5年ぶりというのは、2009年8月に、岡山県立美術館で開催された特別展「建仁寺」で1週間だけ展示されていますから、それ以来約5年ぶりの公開で、当館だけでなく、人前に姿を現したのが5年ぶり(その間は、誰も見ることが出来なかったのです)ということなのです。展覧会の準備をしていたスタッフは、チラシやポスターは全国に配られますから、「この世に参上!」5年ぶり!のつもりだったのです。
誤解の無いようにと思い、博物館に設置した展覧会看板では「5年ぶり」を取ってもらいました。ところが、上野駅や、館内にもポスターは貼られています。これを見ると、当館での公開が5年ぶりと思われても仕方がないなあと思うのです……。書籍や映像でよく目にする作品ですから、簡単に見ることが出来るように思いますが、実際の作品は、5年間、京都国立博物館の収蔵庫でお休みになられていましたから、建仁寺の方々もその姿を見てはいなかったので す。

登場によって「上野に嵐を呼ぶ」とも言われたのですが、楽しげに天を駆けているようにも見えます。かつて特別展「天神さまの美術」(2001年夏)が行われたときには、連日午後になると雷鳴が轟きました。宗達の「風神雷神」は、怒りの神ではないようです。


特別展「天神さまの美術」(図録表紙)

現在、本館7室「日本美術の流れ」では、尾形光琳が描いた重要文化財「風神雷神図屏風」が展示されています。


重要文化財 尾形光琳筆 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵

「大琳派展」では、宗達、光琳、酒井抱一、鈴木其一の琳派の4人による「風神雷神図」4作品が一堂に並びましたが、それ以来の同時展示です。抱一の作品は、出光美術館で(5月6日まで)、其一の「風神雷神図襖」も、東京富士美術館で(6月29日まで)公開され、この春は「風神雷神祭」のようです。

ある方から「宗達の風神雷神は怖くないですね。」と言われました。さて光琳はどうでしょう?


風神雷神図屏風 雷神表情(左・宗達筆、右・光琳筆)

黒雲が重く描かれ、顔の彩色も違います。目線も違います。そして線の質も違います。宗達の白一色の雷神は、実は、頬と耳を少し紅に染めています。さらに風神は、ひょうきんな顔つきとも言われます。日本の誇る「ゆるキャラ」として宗達は楽しみながら描いていたのかもしれません。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 田沢裕賀(絵画・彫刻室長) at 2014年05月04日 (日)