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1089ブログ

特集「中国書画精華―宋代書画とその広がり―」その1「アジア大発見!」

現在、東洋館8室では、日中国交正常化50周年 東京国立博物館150周年 特集「中国書画精華―宋代書画とその広がり―」(前期:~10月16日(日)、後期:10月18日(火)~11月13日(日))が展示中です。

 
東洋館8室 展示風景

 

「中国書画精華」は、毎年秋恒例となった、当館所蔵および寄託の中国書跡・絵画作品の名品展ですが、前期は「博物館でアジアの旅 アジア大発見!」にちなみ、「発見!」に関わる中国書画をいくつか紹介しています。
中国絵画では、伝趙昌(ちょうしょう)筆「竹虫図軸(ちくちゅうずじく)」と伝陳容(ちんよう)筆「五龍図巻(ごりゅうずかん)」に「発見!」マークがついています。



重要文化財 竹虫図軸 
中国、伝趙昌筆 南宋時代・13世紀 10月16日(日)まで展示

 

このうち、「竹虫図軸」については、以前1089ブログ「名品の名品たる所以―伝趙昌筆「竹虫図」の場合―」で紹介しましたので、今回は「五龍図巻」にまつわる「発見!」エピソードをお話しします。

 


重要文化財 五龍図巻(部分)
中国、伝陳容筆 南宋時代・13世紀 10月16日(日)まで展示

 

作者と伝わる陳容(号所翁)は、13世紀、南宋時代末期に活躍した文人画家です。
現在の福建(ふっけん)省の出身で、特に龍を描くのを得意にしたと伝わります。

 


五龍図巻(巻頭部分)

 

龍は、雲を湧き起こして、雨を呼び、地上に水をもたらす神獣とされます。
このため中国では、決まった形をもたない雲霞と一体化させて、龍の変化の姿を表現することが重要であるとされてきました。
歴史書によれば、陳容はその変化の姿をとらえるため、酒を飲んで酔っ払い、服装にもかまわず、手に墨を塗りたくって制作にのぞんだといいます。
墨をはね散らかして雲を、口に含んだ墨を噴き出して霧を表現した、と伝わるその激しく自由な龍の図は、以後、龍を描く画家にとっての古典となりました。

 


五龍図巻(巻末部分)

 

「五龍図巻」は、龍に呼応して波立つ水面から始まり、雲や岩の間にからみあって見え隠れする5匹の龍、水量を増して激しく流れ落ちる滝を描きます。
明暗を強調した雨雲の広がり、迫力ある水の流れ、そしてそのような自然現象と一体化してうごめく龍の姿は、歴史書にいう陳容の龍の図を彷彿とさせます。

 

さて、近年の研究により、この「五龍図巻」と同じ図様を含む画巻が、アメリカのプリンストン大学美術館、メトロポリタン美術館、ボストン美術館に所蔵されていることが「発見!」されました。

プリンストン大学美術館の作品は、合計12匹の龍を描き、8メートルを超える長大な画面を誇ります。
この8匹目から12匹目の図様が「五龍図巻」と一致しているのです。
また、メトロポリタン美術館の作品はプリンストン美術館の3匹目から4匹目、ボストン美術館の作品は4匹目から7匹目と同じ図様です。

当館所蔵の「五龍図巻」を含む、以上4つの作品の前後関係は今後の研究課題ですが、12匹の龍の図様から複数の作品が派生していったことはまちがいなさそうです。
その意味では、これらの作品は兄弟ともいえるでしょう。

 

陳容の龍の図は、東アジアで広く人気を集めました。
今後、「五龍図巻」の新たな兄弟が「発見!」される可能性もあります。楽しみに待ちたいと思います。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡博物館でアジアの旅東京国立博物館創立150年

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2022年09月27日 (火)

 

博物館でアジアの旅―空想動物園― 魅力あふれる空想動物たち

「博物館でアジアの旅」(通称「アジ旅」)は、さながら時空を越えてアジア各地を旅するように、トーハク東洋館の各展示室を巡りながら、そこに散りばめられた様々な対象作品を探しつつご観覧いただく、という趣旨の企画です。

「空想動物」をテーマとした今年のアジ旅は、企画名称を「博物館でアジアの旅 空想動物園」(10月17日(日)まで)といたしました。近くの上野動物園に行くと、園外にも動物たちの鳴き声が聞こえてきます。大人も子供も入園前から心が躍り、普段は見られない多くの動物たちに実際に出会うと感激もひとしお。アジ旅での空想動物たちとの出会いも、ぜひ動物園のようにワクワクしながら楽しんでいただきたい、企画名称にはそのようなメッセ―ジも込められています。
企画をより楽しんでいただくために、今年はアジ旅専用の「調査ノート&シール」をご用意しました。イベントページをご参照のうえ、ぜひご利用いただけますと幸いです。

 

さて、前回のアジ旅ブログでは、主役級の空想動物「龍」と、龍とは異なる運命をたどった「饕餮」に注目して、それぞれの歴史的な歩みをご紹介しました。
今回は登場する残りの空想動物をできるだけ多くご紹介し、その魅力についてお伝えできればと思います。


 

鳳凰
龍と並ぶ主役級の空想動物として、真っ先に思い浮かぶのは鳳凰かもしれません。東アジアでは、慶事を告げる(象徴する)瑞鳥の総称として、鳳凰はさまざまな場面に登場します。
また中国や日本では、すぐれた人物のことをたとえて「龍鳳」とも言うように、古来、鳳凰は龍とともに尊い存在(イメージを共有できるという意味では、尊くも身近な存在)と考えられてきたのでしょう。
生活を彩る器物にあしらった模様は、当時の人びとにとって鳳凰が身近な存在であったことを想起させます。

 

 
 
五彩龍鳳文面盆 中国、景徳鎮窯「大明万暦年製」銘 明時代・万暦年間(1573~1620年) 横河民輔氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示

どこかシュッとした印象のこちらの鳳凰。白地に、下絵付の青と上絵具の赤・緑・黄によって、華麗な姿が浮かび上がります。陶磁器の色鮮やかな五彩の表現は、中国古代の字書『爾雅』の注釈書に「五彩(色)」と記される鳳凰の色味にピッタリの技法と言えそうです。
同書は鳳凰の形状について、鶏の頭と蛇の頸、燕の頷と亀の背、魚の尾をもつ、と記しますが、文献によって記述内容には異同があり、美術作品に表された形もまた然り。これは他の空想動物にも言えることで、多様な表現に人びとの想像の広がりを感じることができます。



青花鳳凰形皿 中国、景徳鎮窯 明時代・17世紀 横河民輔氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示

こちらは、天空を優雅に舞うかのような姿の鳳凰。つぶらな眼や丸みを帯びたシルエットは、愛嬌たっぷりです。お皿として実際に使用されているところを想像すると、食べ物を置いたそばから食べられちゃいそうな、、、躍動感ある表現です。



白玉鳳凰合子 中国 清時代・18~19世紀 神谷伝兵衛氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館9室にて通期展示

打って変わって、白い鳳凰には、どこか神聖な趣が漂います。古来、神聖視され珍重されてきた、美しい石の代表とも言うべき玉で作られています。鳳凰をかたどった、この白玉製の蓋付き容器に、清時代の人びとは何を収めたのでしょうか。


これらの器物から1500年以上遡った後漢時代。当時の画像石や揺銭樹にも鳳凰がみられます。


画像石 鳳凰 中国山東省孝堂山下石祠 後漢時代・1~2世紀 東京国立博物館蔵 東洋館6室にて通期展示

こちらの鳳凰は、故人が仙界に昇る手助けをするものと考えられており、当時の人びとにとって神聖な存在であったことが想像されます。




  
揺銭樹 中国四川省あるいはその周辺 後漢時代・1~2世紀 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示

仙人がまたがる羊をかたどった陶製台座の上に、青銅製の樹木がそびえ、そこに神仙や龍鳳、そしてたくさんの銅銭など、神聖でおめでたいものがあしらわれています。鳳凰は樹木の頂に。その姿は実に悠然としています。よくよく見ると、クチバシで玉のようなものをくわえ、めでたさ倍増の感があります。故人が死後の世界で豊かな暮らしを送れるようにとの祈りは、今も昔も変わらないようです。

 
 
飛び立つ四足獣
鳳凰のように、人びとは鳥の様々な特徴を、ときとして他の動物のそれと合わせて意匠化してきました。鳳凰の形状が鳥の要素が主体であるのに対して、グリフィンのように他の動物の要素が外見に強く表れた空想動物もいます。
 

グリフィン像飾板 イタリア、タラント出土 前4世紀 谷村敬介氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館3室にて通期展示

「五彩龍鳳文面盆」の鳳凰に負けず劣らず、シュッとした姿のグリフィンです。ライオンの体に、鷲の頭部と翼をもつグリフィンは、天地それぞれの王者をかけ合わせた最強の容貌で表されます。グリフィンは古代神話に登場し、アジアの広い地域でも人気を博したようです。


 
有翼ライオン文高坏 イタリア、キウージ(クルシウム)出土 前6世紀 イタリア国立東洋美術館寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館3室にて通期展示

こちらもライオンの体に翼をもつ空想動物。ですが、「グリフィン像飾板」とは対照的に、猫のような何とも愛らしい表情です。ケイタイの待ち受けにして和みたいなあ、と思わせる魅力たっぷりのゆるカワ表現です。


 
重要文化財 如来三尊仏龕 中国陝西省西安宝慶寺 唐時代・8世紀 東京国立博物館蔵 東洋館1室にて通期展示

こちらはグリフィンと馬の合成獣、ヒッポグリフ。仏様の両脇で、その上に顔を覗かせるインド神話の水棲怪物、マカラとともに侍従します。



有翼人物と人面をもつ鳥
鳥と合成されたのは、四足の獣たちだけではありません。鳥の翼をもつ人物や、人の顔をもつ鳥などのように、人の要素もまた鳥に合わせられ、空想動物の世界に広がりをもたらしています。

 
舎利容器 中国・伝スバシ 6~7世紀 大谷探検隊将来品 東京国立博物館蔵 東洋館3室にて通期展示

鳥の翼や虫の翅(はね)をそなえた人物が、宝飾を着けて楽器を演奏する様子が、舎利容器の蓋に描かれます。天使や妖精のような姿が、周囲の鮮やかな色彩とともに眼を奪います。この舎利容器は、現在の新疆ウイグル自治区の中央あたりに位置するクチャ市のスバシという寺院遺跡で出土したと伝えられます。



迦陵頻伽像 韓国、慶州出土 統一新羅時代・8世紀 小倉コレクション保存会寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館10室にて通期展示

人の顔をもつ鳥の代表格が、極楽浄土に住み、美しい声をもつという迦陵頻伽(かりょうびんが)です。こちらの像では、手にシンバルのような楽器を持ち、枝にとまるかのように足を曲げ、足先を丸めています。細かく彫りわけられた羽毛とともに、実にリアルな表現です。



ガネーシャ
人と四足獣が合わさったような空想動物、あるいは同じような容貌の神々もみられます。象の頭をもつガネーシャはその代表格。ヒンドゥー教ではシヴァ神の子とされます。富と知恵をつかさどるとして、インドを中心に広く信仰を集め、絶大な人気を誇る神様です。
 

ガネーシャ坐像 カンボジア、ブッダのテラス北側 アンコール時代・12~13世紀 フランス極東学院交換品 東京国立博物館蔵 東洋館11室にて通期展示

人びとの願いを受け入れ、幸せをもたらしてくれそうな、立派なお鼻とふくよかなお腹。その存在感と招福度は、アジ旅メンバー随一かもしれません。いや、存在感と言えば、もうお一方、、、



謎の生き物
文献や美術作品などには、様々な空想動物が登場しますが、なかには、はっきりとはわからない謎の生き物もみられます。アジ旅空想動物園では、あえてそのような作品もメンバーに加えました。


石彫怪獣 伝中国河南省安陽市殷墟出土 殷時代・前13~前11世紀 東京国立博物館蔵 東洋館4室にて通期展示

ずんぐりむっくりとした体に、まんまるの目玉が印象的なこの怪獣。正体は不明ですが、とても魅力的な容貌で、存在感の大きさは「ガネーシャ坐像」に匹敵します。中国、殷(商)の王墓で、建築装飾などに用いられた可能性があるようです。



空想動物は、形状などが一つに定まらなかったり、何を示しているのかよくわからなかったりすることが多々あります。このことは、それぞれの時代・地域で、人びとが様々に想いをめぐらし、形にしてきた証と言えるのかもしれません。空想動物園、その洋々たる世界をお楽しみいただけますと幸いです。
博物館でアジアの旅  空想動物園

編集・発行:東京国立博物館
定価:550円(税込)
全24ページ(オールカラー)

1089ブログでご紹介できなかった作品を含む、全出品作品55点の画像を掲載。
東博に集まった世界各地の多彩な空想動物について、くわしく解説したガイドブックです。

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 六人部克典(東洋室研究員) at 2021年10月06日 (水)

 

博物館でアジアの旅―空想動物園―龍と饕餮それぞれの歩み

熱い食べ物が苦手な人やその状態を「猫舌」と言いますが、これは猫という存在を知っていることが前提であって、猫を知らない人たちには伝わらない表現といえるでしょう。漢時代に司馬遷が記した歴史書『史記』には、孔子が老子との面会をおえて、「老子は龍のようなお方であった」と弟子たちに語る場面が採録されています。『史記』ではこの龍のくだりに関して注釈や補足をしていませんので、(孔子と老子が実際に面会したかはさておき)当時の人々にとって、龍は具体的に思い浮かべることのできるものであり、かつそれは共通のすがたであったことを示唆しています。

龍は、現代の生物学的な知識のうえでは、その実在は否定されるかもしれません。ところが、古代の記録や文物には、これでもかと龍が登場します。龍だけではありません。ありとあらゆる空想動物が隠れることもなく、むしろ堂々と至るところに表されているのです。そうした空想動物に焦点を当てた「博物館でアジアの旅 空想動物園」が、914日から東洋館で絶賛公開中です。「博物館でアジアの旅」とは、毎年ひとつのテーマのもとで東洋館をめぐっていただく企画で、今年で8回目を迎えます。


さて、いま私たちが思い浮かべる龍の姿とは、元時代の壺にあらわされた龍(図1)のようなものですね。ではこうした龍はいつ頃生まれたのでしょうか。漢時代の鏡にあらわされた四神のうちの青龍(図2)をご覧いただきますと、体は四足獣のそれを思わせますが、ツノがあることや面長で首が細く長いさまから、龍として申し分のない姿といえそうです。さらにさかのぼり、西周時代の玉器の龍(図3)をご覧いただきますと、面長で胸が蛇腹状になっている点などから龍ともいえそうですが、これを龍とすべきかは意見が割れそうです。この問題は、あたかも平地と山とを考えたときに、どこまでが平地でどこからが山なのか明確には判じがたいことに似て、曖昧な要素を多分に含んでいるのです。

青花龍濤文壺
(図1)青花龍濤文壺(部分) 中国、景徳鎮窯 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示


(図2)方格規矩四神鏡(部分) 中国 後漢時代・1世紀 横川民輔氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示


(図3)玉龍 中国 殷~西周時代・前13~前8世紀 東京国立博物館蔵 東洋館4室にて通期展示


龍がすがたを変えながらも古来一貫して存在し続けたのに対し、龍と同じくらい古くから存在する饕餮(とうてつ)は、それとは異なる運命をたどってきました。饕餮が青銅器などの器物に積極的にあらわされるのは今から3000年以上むかしの殷王朝(商王朝ともいいます)の頃。立派なツノ、ひときわ大きな瞳、鋭い牙をのぞかせた口が特徴で、真正面を向いた姿であらわされます(図4)。その後、西周そして春秋戦国、さらには漢へと時代がうつろいゆくなかで饕餮はしだいに影をひそめ、唐時代には絶滅したと思えるほどにその姿を確認することはできなくなります。ところが今から1000年ほど昔、唐のあとの宋の時代になって、饕餮は復活を遂げるのです。もう少し正確にいいますと、殷など古い時代の器物にあらわされたこの怪物を「饕餮」だとあらためて比定したのが、この宋時代の知識人たちだったのです。その一人、呂大臨という学者は、『呂氏春秋』という古典に記載された「周の鼎には饕餮をあらわす。頭があり身体はなく、人を食らう…」という一節に注目し、かのいにしえの青銅器にあらわされている怪物は饕餮という名前であると断定し、そのことを『考古図』という著作にのこしました。呂大臨が器物上の図像と古記録上の記載とを結びつけたことのインパクトは大きく、ここに饕餮はひとつのすがたを確立させるに至ります。それは顔だけの生き物で、口は大きく、人を食らうほど鋭い牙をもったすがたです。清時代の七宝でつくられた器物の饕餮(図5)などはまさにこうした北宋以降に形成された饕餮の概念を継承・発展させ、図像化したものといえるでしょう。現在、考古学的には青銅器にあらわされた怪物についてひとつの名前でもって示すことができず、単に獣面と呼ぶことが多く、その正体は天帝であるとか祖先神とか土地神であるとかいろいろな考えがなされています。ただわたくしは、「饕餮」というものをもう一度よくよく再検討してみてもよいのではと思っています。龍についてもしかり。このような機会に、もう一度龍についても考えを深めてみたいと思っています。


(図4)饕餮文鼎 中国 殷時代・前13~前11世紀 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示


(図5)饕餮七宝卣 中国 清時代・19世紀 神谷伝兵衛氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館9室にて通期展示


さて、このブログの前半で、山と平地を引き合いに出しました。国土地理院は、「山の始まりは、どこですか?」という質問に対し、まず「国土地理院では、山の定義はしていません」と強烈な先制パンチをくりだしたあとで、「もしあなたが、山の始まりはどこ? という興味をもったなら、その山の前に立って、この辺が山の始まりかなというところを感じて探してみてください。」と名回答をしています(国土地理院ウェブサイト「国土の情報に関するQ&A」)。私も「どこからが龍ですか?」と聞かれたら、「東洋館で龍とおぼしき作品と向き合って、この辺が龍の始まりかなというところを感じて探してみてください。」とお答えしたいと思います。

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 市元塁(東洋室長) at 2021年09月28日 (火)

 

セクメトのレジェンドを訪ねて

東洋館で開催中のイベント「博物館でアジアの旅」[9月8日(火)~10月11日(日)]も残すところ1週間を切りました。 今年のテーマは「アジアのレジェンド」です。東洋館1階インフォメーションで配布中のパスポートを片手に、関連作品を探しながら、コロナ禍で人の少ない(涙)東洋館を巡ってみてください。

この記事では、古代エジプトのセクメト女神像と、そのレジェンド(伝説)をご紹介いたします。

東洋館の2階に上がり、展示室(3室)の左奥に見えるのがセクメト像です。


(左右ともに)セクメト女神像 エジプト、テーベ出土 新王国時代(第18王朝アメンヘテプ3世治世)・前1388~前1350年頃
ライオンの頭をもった女性の姿で表現されたセクメト。


古代エジプトの神話には、セクメトは恐ろしい女神として登場します。
その昔、人間たちが、支配者である太陽神ラーに抗おうとしたとき、人間を罰するために遣わされた女神がセクメトでした。セクメトは、その強大な力をもって、人間たちを殺してまわりました。最後はラーが一計を案じ、セクメトをお酒で酔っ払わせることで、穏やかな女神に戻し、最終的に人々が救われた、という物語。今から4000年以上前にさかのぼる古い神話です。


頭にはかつらをかぶり、胸元にアクセサリーを着けています。ちなみに、目は赤く彩色されていたと考えられています。

古代エジプト人は、この強力で攻撃的な女神の一面を、雌ライオンの姿に重ねていたのでしょう。また、セクメトの力は正義と秩序を守るために行使されること、セクメトをなだめることで人々が救われたこと、この2点が物語のポイントです。つまり、セクメトをなだめることで、癒しと安定をもたらすことができると考え、古代エジプトの人々はセクメトを病気や怪我を癒す神様として信仰したのです。

セクメト像の左手を見ると、丸い持ち手のついた十字を握っています。これは生命の象徴である「アンク」で、人々の命と生命力を盛り立てる力を意味していると考えられます。セクメトは、人々を護り、病気や怪我を癒す神様でもあったのです。


セクメトが左手に握っているアンク。

さて、このセクメト像はどこから来たのでしょうか?
これらのセクメト像を作らせたのは、アメンヘテプ3世というファラオ。
有名なツタンカーメンの祖父にあたる人物で、繁栄の絶頂期にあったエジプトを40年近く統治した偉大な王でした。
強固な財政基盤を背景に、各地で神殿の建設や改修を進めたことが特筆されます。
現在のエジプト観光の目玉となっている建造物やモニュメントには、アメンヘテプ3世が手掛けたものが多く含まれます。

その一つに、「メムノンの巨像」と呼ばれる1対の石像があります。
高さが20メートル近くあるこの像は、アメンヘテプ3世の坐像で、壮大な葬祭神殿の入口に配されていたものです。


メムノンの巨像。巨像の後ろに、当時としては最大規模の神殿が広がっていました。現在、H・スルジアン博士が率いる遺跡整備プロジェクトによって、かつての神殿の様相が明らかになってきています。(写真:H・スルジアン博士提供)


アメンヘテプ3世の葬祭神殿の想定復元図。
(出典:馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ ―通史と10のテーマから
』2017年、六一書房、図11-16「アメンヘテプ3世葬祭殿」)

「メムノンの巨像」がある第一棟門を通り、さらに第二、第三の棟門を抜けると、無数の巨大な柱がそびえる建造物がありました。
この列柱建築に数百体ものセクメト像が並べられていたと考えられています。
近年のスルジアン博士のチームの発掘調査では、神殿内部に残っていたセクメト像が出土しており、博士によればその数は280体にも及んでいるそうです。


出土したセクメト像。学術的な発掘調査は葬祭神殿のどこにセクメト像が並べられていたのかを探る手掛かりになります。(写真:H・スルジアン博士提供)

古代エジプトの最大規模の神殿であったアメンヘテプ3世の葬祭神殿は、紀元前1200年頃の地震で倒壊したと考えられています。その後、瓦礫が石材を再利用するために持ち出され、いつしか、巨像だけが取り残されました。神殿内にあったセクメト像の多くは、神殿倒壊後に、同じ地域にあるムート女神の神殿に移設されたと考えられます。19世紀に、エジプトで美術品獲得のための発掘が始まると、ムート神殿にあった多くのセクメト像が持ち出され、現在、世界各地のミュージアムで所蔵されています。

東洋館3室に並ぶ2体のセクメト像。
一見して、狛犬の類かな?と感じる方が多いのですが、実は、エジプト史のレジェンド(偉人)ともいえるアメンヘテプ3世にまつわる彫像で、もとは数百体あったうちの2体なのです。
そして、古代エジプト人にとってのセクメトは「恐怖の女神様」であり、人々の病を回復させ、世の中に安らぎをもたらす「癒しの女神様」でもありました。
それでは、アメンヘテプ3世は何のために数多くのセクメト像を作らせ、自身の神殿に祀ったのでしょうか?
当時の中近東で度々流行った疫病を鎮めるためとも、自身の健康状態を回復させるためとも言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。

東洋館にお越しの際は、ぜひ、3室のセクメト像をご鑑賞いただき、恐ろしくも親しみのあるセクメトの神話や、壮大なアメンヘテプ3世の葬祭神殿に思いを寄せてみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古博物館でアジアの旅

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posted by 小野塚 拓造 at 2020年10月06日 (火)

 

インドの英雄クリシュナ

現在、東洋館では「博物館でアジアの旅 アジアのレジェンド」[9月8日(火)~10月11日(日)]を開催中です。レジェンドにまつわるアジア各地の作品を展示している本企画。館内の看板などには、インドの英雄クリシュナが登場しています。


東洋館の入口にも、クリシュナがずらり。

クリシュナはヒンドゥー教の神です。聖典にはクリシュナが無敵を誇る様子と人間臭い姿がともに描かれています。それゆえインドにおいて、クリシュナは、至高の神でありながら、人々から大変愛される英雄でもありました。
クリシュナという名は、本来、「黒い」「暗い」「濃い青の」「皆を引きつける」を意味するサンスクリット語の「クルシュナ」に由来します。またヒンドゥー教ではクリシュナを神ヴィシュヌの化身(アヴァターラ)と考えてきました。そのため、クリシュナの肌の色はしばしば黒や青に塗られてきたのです。

今回のブログではクリシュナを主題として描いた細密画3点から、クリシュナの誕生から青年へと成長するまでを読み解いていきたいと思います。


東洋館13室「インドの細密画」

クリシュナが生誕した場所は、インド北部のマトゥラーという都市です。実はマトゥラーはガンダーラと並んで仏像誕生の地としても知られています。当時、マトゥラーは小国家で、ヤーダヴァという部族が統治していました。

クリシュナの父はヴァスデーヴァ、母はデーヴァキーといいました。デーヴァキーはマトゥラー国の王であったカンサの妹です。
カンサは悪行を重ねていました。それを見かねた神々は、ヴィシュヌがデーヴァキーの胎内に宿り、クリシュナとして誕生するように定めたのでした。
しかしカンサもまたデーヴァキーの子供に殺されるというお告げを聞きます。そこでカンサはデーヴァキーの子供たちを皆殺しにするように企むのでした。

クリシュナが生まれると、ヴァスデーヴァはひそかに赤ん坊のクリシュナを抱いてヤムナー川を渡り、同じ年頃の赤ん坊と交換します。こうしてクリシュナはカンサの魔の手からひとまず逃げ落ちることができました。
クリシュナは、マトゥラー近くに住んでいたナンダとその妻ヤショーダの手によって育てられました。


幼少期のクリシュナにまつわるエピソードをひとつご紹介しましょう。
クリシュナがバターを盗み食いするお話です。「バターを盗もうとするクリシュナ(バーガヴァタ・プラーナ)」という細密画を見てみましょう。


バターを盗もうとするクリシュナ(バーガヴァタ・プラーナ) カンパニー派 インド 19世紀中頃 東京国立博物館蔵 東洋館13室にて通期展示

幼少期のクリシュナは普通の子どもと同じように腕白でした。牛飼いの家を訪ねては大好物のバターを盗み食いしていたのです。この絵の中でもクリシュナは召使いを踏み台にして、天井から吊した壺の中からバターを盗み食いしようとしています。


続いては青年期のクリシュナにまつわるエピソードをご紹介しましょう。クリシュナが山を持ち上げて、牛飼いたちを雨から守るお話です。「ゴーヴァルダナ山を持ち上げるクリシュナ」という細密画を見てみましょう。


ゴーヴァルダナ山を持ち上げるクリシュナ(部分) ビーカーネール派 インド 18世紀後半 東京国立博物館蔵 東洋館13室にて通期展示

牛飼いたちがインドラの祭祀を準備していると、クリシュナが現れて替わりに家畜や山岳を祭ることを牛飼いたちに勧めます。インドラはこれに怒って大雨を降らせますが、クリシュナはゴーヴァルダナ山を持ち上げると、指1本で軽々と山を支え、牛飼いたちを雨から守りました。


そして最後に「蓮の上に坐るクリシュナ」を見てみましょう。


蓮の上に坐るクリシュナ(部分) ビーカーネール派 インド 18世紀前半 東京国立博物館蔵 東洋館13室にて通期展示

精悍な青年へと成長したクリシュナが、右手にバーンスリーと呼ばれる横笛をもって蓮の花の上に坐っています。あたかも仏陀が蓮の上で化生しているかのようです。
しかもこの蓮の花はかつてクリシュナの父ヴァスデーヴァがカンサの魔の手から赤ん坊のクリシュナを守るために抱いて渡ったヤムナー川のほとりに咲いているのです。


クリシュナの誕生の秘密は、世界の秩序を維持するヴィシュヌが化身したものでした。幼少期のクリシュナはヴィシュヌの神性が覚醒する前の段階のようで、まだまだ人間の子供と変わりません。しかし青年期に至ると、その片鱗が見えてきます。

今回「博物館でアジアの旅 アジアのレジェンド」に展示されているインドの細密画からは、クリシュナがレジェンドへ成長する前段階をうかがい知ることができるのです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館でアジアの旅絵画

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posted by 勝木言一郎(東洋室長) at 2020年09月17日 (木)