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1089ブログ

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 4

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))も、あと残すところ半月足らずとなりました。

これまで、祭祀遺跡の移り変わりから「当時の人々の神々に対する観念が次第に豊かになっていった過程」がうかがえることをお話しました。
なかでも、三輪山西麓の山ノ神祭祀遺跡(4~5世紀)出土の土製模造品を採り上げ、有名な奈良県三輪山神の性格が酒造りと深く関係しているとみられることをご紹介しました。
また前回は、自然に対する当時の人々の姿勢(意識)を映し出していると考えられる奈良時代の“証言”(伝承)から、その背景に意識の変化が垣間見えることもご紹介しました。

一方、祭祀遺物と古墳の副葬品の間に、著しい共通性が認められることは大きな“謎”でした。
この問題のヒントを探るには、やはり出土した当時の人々が使用した祭祀遺物そのものを見つめるほかはなさそうです。


最初に、ほかにも本特集陳列にかかわりが深い常設展示品をご紹介します(第2図C・D)。
 
考古展示室配置図(第2図) (右)左画像の赤枠で囲った部分の拡大部分

一つ目は、岡山県楯築遺跡(2~3世紀)にあった旧楯築神社の御神体・旋帯文石(模造品:D)です。単独で配置され、ひときわ存在感を放つオリジナルの低いケースに展示されています。
 
模造 旋帯文石(左:左側面、右:正面) 原品=岡山県倉敷市 楯築神社 伝世、弥生時代(後期)・2~3世紀 (通年展示) 

楯築遺跡は全長80mを越える弥生時代終末頃の最大の墳丘墓で、同じ頃、九州から関東地方の各地でも、大規模な墳丘をもったさまざまな形の墳丘墓が発達します。これらは古墳時代の前方後円墳の源流と考えられています。
楯築遺跡の発掘調査によって、大変よく似た文様を施した小形旋帯文石が出土したことから、この旋帯文石も楯築遺跡にあったと考えられています。

扁平な略直方体の一方にぼんやりと顔のような表現があり、その他は規則的で立体的な複雑な帯状の文様で埋め尽くされ、ずいぶんと窮屈な印象を与えています。
あたかも内側の存在を封じ込めるような造形で、内に秘めた大変なパワーを感じさせます。人間からみた超自然的な存在を表現したものとも考えられていて、“得体の知れない”存在を縛りつけているかのようです。
あの奈良時代の伝承に語られていたような、人々が逃げ惑い畏怖の対象としていた「荒ぶる神」の姿を想い起させますが、如何でしょうか?。


二つ目は、「宝器と玉生産の展開」(テーマ展示C)の群馬県上細井稲荷山古墳(5世紀)から出土した滑石製機織具です。

滑石製機織具 前橋市上細井町字南新田1146-1 群馬県上細井稲荷山古墳出土 古墳時代・5世紀 (通年展示)

機織技術は弥生時代に大陸から伝来し、この滑石製機織具は織り手と一体となった地機を写した造形とみられます。
実は、本特集陳列の解説パネルでご紹介している福岡県沖ノ島祭祀遺跡群(4~7世紀)でも、多くの模造の機織具が出土していて注目されています。                       


沖ノ島は記紀にも登場し、宗像大社の沖津宮(オキツミヤ)として、大島の中津宮(ナカツミヤ)と辺津宮(ヘツミヤ)の宗像大社と併せて、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)神・田心姫(タゴリヒメ)神・湍津姫(タギツヒメ)神の三女神を祀っています。
出土した祭祀遺物は、これらの女神の性格を表していると考えられています。
    『日本書紀』神代上第6段一書二
    「すでにして天照大神、[中略]吹き出つる気噴(イブ)きの中に化生(ナ)る神を、市杵嶋姫神と号(ナ)づく。
      是(コ)は遠宮(沖津宮)に居します神なり。
      [中略]田心姫神と号(ナ)づく。是(コ)は中宮(中津宮)に居します神なり。
      [中略]湍津姫神と号(ナ)づく。是(コ)は海濱(辺津宮)に居します神なり。」

また、誰もがご存知の三重県伊勢神宮も女神の天照(アマテラス)大神を祀っており、記紀神話で語られる(暴れん坊の)弟神のスサノオとのトラブルが高天原の斎服(イミハタ=忌機)殿で起こった事件であることは有名です。
平安時代の記録では、伊勢神宮の御神宝には鏡・武具・楽器などと並んで、多くの機織具が用いられています。

沖ノ島祭祀遺跡や伊勢神宮の機織具の祭祀具が姫神である女神の性格を反映しているという見解は、多くの研究者が指摘するところです。
三輪山の山ノ神祭祀遺跡では酒造具、沖ノ島祭祀遺跡では機織具と、祀られる神さまの性格によって、5世紀頃からはやはり(神さまの性格に合わせて・・・)神マツリの道具の“使い分け”が始まっていたようです。


最後に注目して頂きたいのは、今回の特集陳列の中央部分と、「宝器と玉生産の展開」(テーマ展示C)で展示している古墳時代中期(5世紀)の履物形の滑石製模造品です。


滑石製下駄 京都市西京区大原野 鏡山古墳出土 古墳時代・5世紀 (通年展示)
鼻緒の孔も開けられ、ちゃんと左右共に専用に造られた精巧なつくりです。東京都野毛大塚古墳と京都府鏡山古墳出土品は、共に下駄形模造品を含む滑石製模造品の代表的なものです。

いずれも下面に下駄の歯の突起が付けられていて、近年、古墳時代に遡る木製下駄の発掘が相次いでいます。
出土遺跡は水を濾過する沈殿槽のような装置と祭祀遺物を伴い、何らかの儀礼の場で使用されたとみられる例が多いことが特徴です。まだ解釈には諸説(せっかく得られた清水を汚さない為?など)がありますが、水を使った儀礼の場で使用された履物である可能性が高いようです。

(あくまでも憶測の一つですが・・・)木製下駄は水を用いた儀礼の場において中心的な人物が使用した道具と考えられますので、機織具や酒造具も儀礼を行った人間の道具であった可能性が高いと言えそうです。
こう考えれば、これらの石製模造品は使用者側の道具を写したものということになり、古墳の副葬品が生前の被葬者の性格を表しているという通説とも整合的ですね。

そういえば、伊勢神宮の天照大神も、元の名前(本名・・・)は大日靈貴(オオヒルメノムチ)と呼ばれていて、太陽神を祀った巫女(日女:ヒルメ)が神格化されていった過程が反映しているという説が有力です。
    『日本書紀』神代上第4段一書十
    「[前略]是(ココ)に、日の神を生みまつります。大日靈貴と号(マウ)す。一書に云はく、天照大神といふ。」

ギリシャ神話のディオニッソス(ローマ神話ではバッカス)もそうですが、やはり神さまは酒造りを司る(のと召し上がる?)のが“専門”ですので、自分で造って自分で賞味し(飲んだくれ?)ているのは、人間だけかもしれません・・・。


これまで見てきましたように、古墳時代の祭祀遺物には、我々祖先の神に対する畏怖の気持ちや自然に立ち向かっていった汗と努力の痕が遺されているように思えます。
その道筋には、4~5世紀頃に大陸伝来の“ハイテク”技術を身に付けて「先史文化」を急速に “近代化”させていった古代国家成立前夜に、次第に神マツリを変貌させていった我々の祖先の姿が浮かび上がります。

展示全景(左から:古墳時代前期・中期・後期の祭祀遺物)

しかし、前回ご紹介した奈良時代の伝承の中で、(あろうことか…)ついには神さまを追い払うという“暴挙”に出た壬生連(ムラジ)麿の「言挙(コトアゲ)」は、少々行き過ぎであったようです。
それは、1300年以上後の現代に暮らす我々自身が、決して自然を克服できていないことからも明らかです。
第2次世界大戦後の日本の高度経済成長期にも、どこか通ずるものを感じますが如何でしょうか。

今回の展示を通して、遠い過去に生きた我々の祖先が大自然の中に神の姿を見つめた視線に想いを馳せて頂くと、(現在のエコを考える上でも・・・)一味違った「見方」でもう一度自然を見つめ直すことができるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年03月02日 (金)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 3

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))の展示についてご紹介する「「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 」は今回で3回目となります。
2月14日(火)には、本展示についての列品解説を行います。

さて、前回のブログでご紹介した三輪山神(大物主神)は酒神としての性格のほかに、祟り神としても知られていたことに触れました。
三輪山神のもう一つの“正体”は、実はその直前の記事に語られています。

『日本書紀』崇神天皇五年条
     「国内に疾疫(エノヤマヒ)多くして、民(オオミタカラ)死亡(マカ)れる者有りて、且大半(ナカバニス)ぎなむとす。」

三輪山神は疫病の流行をもたらした畏(オソ)ろしい祟り神として登場し、過半の人々が病に倒れるという大変な惨禍がです。このような自然の猛威は、人間の歴史の中で幾度となく訪れたことでしょう。
あの大田田根子(オオタタネコ)は、この苦境を神マツリの力で打開した“救世主”であった訳です。
 
土製模造品(左: 臼・杵、右: 坩・柄杓(ヒシャク)と案(ツクエ)) 奈良県桜井市三輪馬場  山ノ神遺跡出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵・通年展示

それにしても、三輪山神の“豹変”ぶりは、穏やかな雰囲気(?)のお酒の神さまのイメージとはだいぶかけ離れていて、戸惑いを覚えます。
もしかして・・・、神さまの二重人格(イヤ“神格”)?。
ところが8世紀の文献には、古代以前における祟り神の猛威ぶりが頻繁に登場します。

『筑後国風土記』逸文 筑後國號の条
     「[前略]昔、この堺の上に麁猛(アラブル)神あり、往來(ユキキ)の人、半ば生き、半ば死にき。[中略]因りて命盡(ツクシ)神と曰ひき。時に筑紫君肥君占へて、筑紫君等が 祖甕依姫(ミカヨリヒメ)を祝(ハフリ)と為して祭らしめき。それより路行く人、神に害(ソコナ)はれず。[後略]」

福岡(筑紫国)県の熊本県境の峠にすむ命盡神という荒ぶる神が人々を苦しめていたので、占い(神意)によって筑紫君が先祖甕依比女という人物に祀らせたところ、鎮めることに成功したという内容です。
手荒で暴力的な峠の荒ぶる神に、路行く人々が畏(オソ)れ慄(オノノ)いていた様子が目に浮かぶようです。

しかし・・・「半ば生き、半ば死にき。」、どこかで聴いたような表現ですね。
そう、三輪山神が人々を苦しめたときの表現と大変よく似ていて、話の筋立ても大田田根子の話とそっくりです。

前期の祭祀遺物(上段: 石釧残欠・石製紡錘車他、下段: 土製模造品・土錘他)
長野市石川条里遺跡出土 古墳時代・4世紀 長野県歴史博物館蔵

(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

ほかに、こんな説話もあります。
『肥前国風土記』佐嘉郡条
     「[前略]この川上に荒ぶる神ありて、往來(ユキキ)の人、半ば生かし、半ば殺しき。ここに縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり、[中略]下田の土を取りて人形・馬形を作りて、この神を祭祀らば必ず應和(ヤワラ)ぎなむ、といひき。[中略]神、この祭を(受)けて、遂に應和(ヤワラ)ぎき。[後略]」

佐賀(肥前国)県の有力者・大荒田の先祖が地元女性(首長?)のアドバイスで、土で人・馬形を作って荒ぶる神を鎮めたという内容です。このとき、川上の荒ぶる神に相応しい(望む?と考えた)土製祭具、つまり土製模造品を使った神マツリが行われていて注目されます。

これらの説話には、語りの表現や登場人物の性格に大変共通点が目立ちます。
つまり、同じ話型をもつ説話といえ、同じような背景があったと考えることができるようです。

平安時代の『土佐日記』にも、紀貫之が京へ帰還する船旅の途中、荒天時に海神に旅の安全を祈った記事があります。
このときは、海中に鏡を投入して平穏を取り戻しましたが、これも類似した話型をもつ説話といえます。

中期の祭祀遺物(前列左から :子持勾玉・滑石製斧・滑石製鎌・滑石製勾玉他)大阪府カトンボ山古墳出土 古墳時代・5世紀 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらは日本の古代祭祀では、和魂・荒魂という二つの側面で呼ばれるカミは、人間にとってプラスとマイナスの性格を併せもつという観念があったのとよく似ています。
マツリの力によって、神さまの性格をマイナスからプラスに「転換」して(機嫌を直して?)頂く。そのような“手続き”(儀礼)が神マツリであったという訳です。
日本古代における祭祀の本質をうかがう上で、大変興味深い伝承といえます。


ところが『風土記』には、人間と神の関係の移り変わりを如実に示す、次のような有名な説話があります。
『常陸国風土記』行方(ナメカタ)郡 提賀(テガ)里条
     A「[前略]箭括(ヤハズ)の氏の麻多智(マタチ)、郡より西の谷の葦原を截(キリハラ)ひ、墾闢(ヒラ)きて新たに田を治(ハ)りき。この時、夜刀(ヤト)の神、相群れ引率て、ことごとに到来(キ)たり。[中略]吾、神の祝(ハフリ)と爲りて、永代に敬ひ祭らむ。冀(ネガワ)くは、な祟りそ、な恨みそといひて、社を設けて初めて祭りき、といへり。」
     B「[前略]壬生連麿、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。[中略]麿、声を擧げて大言(オタケ)びけらく、[中略]役(エダチ)の民に令(オホ)せていひけらく、目に見る雑の物、魚虫の類は、憚(ハバカ)り懼(オソ)るるところなく、ことごとに打殺せ。言ひ了(オハ)はる應時(ソノトキ)、神(アヤ)しき蛇避け隠りき。」

Aは、継体朝(6世紀)に水田開発に際して、蛇身の夜刀神と対峙した箭括氏麻多智が神と人間の棲分けの代償として、祝(ハフリ=祭主)となって夜刀神を祀るという内容です。
続くBは、孝徳朝(7世紀)になると、壬生連麿が池造成の谷開発で、(ナント!)神を追い払ったというものです。


これまでの逃げ惑うような姿に比べると、一転してずいぶんと“強気”な姿勢に少々びっくりです。
人間の方がまるで二重人格のよう・・・ですね。

後期の祭祀遺物(須恵器 壺 ・土製模造品・土製勾玉他)千葉県館山市出野尾猿田遺跡他出土 古墳時代・6世紀  千葉・館山市立博物館蔵 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらはいずれも、神マツリを介して自然に立ち向かう人間と神の間のさまざまな葛藤を物語る伝承とみられます。
あの三輪山神の大田田根子伝承も、一般に5世紀頃に伝来した須恵器の起源を語る説話と考えられています。
少なくとも8世紀頃の人々は、過去の時代には人間と神の関係にはかなりの「変化」があった、と捉えていたフシがあります。

これらの諸伝承から、時代を経るにしたがって、神マツリの背景にある人間の自然に対する姿勢が次第に“進化”していった様子が窺えそうです。
Ⅰ:荒ぶる神を避けるだけの一方的な段階  → Ⅱ:特別な能力の人物を祝として鎮めさせる段階
                                                        → Ⅲ:自ら祝として鎮める段階  → Ⅳ:荒ぶる神を駆逐(!?)する段階

もちろん、地域や社会階層が違えば、微妙にズレや差があったということは想像に難くありません。
しかし8世紀の伝承に、このような人間側の世界観(気分?)の変遷がうかがえることが重要です。
古墳時代における神マツリのあり方は、ずいぶんと“進化”を遂げていたに違いありません。

やはり、それぞれの時期の祭祀遺物に映し出された神々の「性格」を、もう一度確かめてみる必要がありそうです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月11日 (土)

 

考古展示「飛鳥時代の古墳」コーナー新設・記念講演会

以前の1089ブログでもご紹介した考古展示室(平成館1階)の「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナー(2011年12月13日(火)~)の新設にちなみ、記念講演会が開催されることになりました。

日時・場所は2月18日(土)の13時30分~15時(平成館1階大講堂)で、講師は奈良県明日香村教育委員会の主任技師 西光慎治さんです。
発掘調査を担当された奈良県牽牛子塚(けんごしづか)古墳・越塚御門(こしつかごもん)古墳の最新の成果をご紹介頂きます。また、大阪府塚廻(つかまり)古墳の意義についてもお話し頂く予定です。

「飛鳥時代の古墳」コーナーの主役・塚廻古墳は、大阪府南河内地方の平石谷にあり、7世紀代の横口式石槨をもつ大型方墳3~4基が集中する平石古墳群で、最後に築かれたと考えられている古墳です。
一方、巨大な横口式石槨をもつ牽牛子塚古墳は、2010年の発掘調査で7世紀後半の天皇陵にだけ許されたと考えられる八角形墳であることが確認され、被葬者は斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬説が有力です。
さらに、隣接する横口式石槨をもつ越塚御門古墳の存在が明らかにされ、被葬者は『日本書紀』の記述から斉明天皇の孫大田皇女説が有力視されています。


越塚御門古墳発掘現場(後方は牽牛子塚古墳)
明日香村教育委員会文化財課許可済


この越塚御門古墳の“発見”には、ひとつのエピソードがあります(産経新聞2010年12月9日付)。
牽牛子塚古墳周辺の発掘終了後、現場を埋め戻していた時のことです。西光さんと補助調査員の学生さんが東南方向約20メートルに埋まっていた約1mの大石に、人為的な痕跡があることに気づきました。
そこで周辺を拡張して発掘したところ、(ナント)新たにまったく知られていなかった古墳が発見されたのです。

地下に眠る過去の痕跡を探り当てる、まさに考古学者の“動物的カン”です。
日頃から担当範囲に隈なく注意を向ける、そのような姿勢が『日本書紀』の記述を裏付けるような重要遺跡を発見した訳です。
昨年、西光さんは若手考古学者の代表格として朝日新聞の第3回朝日21関西スクエア賞を授賞されました。
当日は臨場感のある興味深いお話を聴くことが出来ると思いますので、大変楽しみです。


さて、講演会の前に、「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナーの説明を若干補足しておきたいと思います。
これらの古墳がある奈良県飛鳥地方と大阪府南河内地方は、飛鳥(遠つ飛鳥)・近つ飛鳥と呼ばれ、「二つの飛鳥」として7世紀のヤマト王権にとって最重要地域として知られています。


畿内地方主要終末期古墳分布図(大阪府付近つ飛鳥・奈良県飛鳥)

奈良県飛鳥地方は、宮都伝承地・古代寺院跡とともに、野口王墓(天武・持統合葬陵)古墳をはじめ、多くの天皇陵古墳が営まれた飛鳥時代の中枢地域です。
一方、大阪府南河内地方は、河内飛鳥(近つ飛鳥)とも呼ばれ、やはり6~7世紀の推古天皇陵・用明天皇陵などを含む有力古墳が築造されたことで有名です。
この「二つの飛鳥」には、考古学的にさまざまな共通点があり、展示品の中では前回のブログでご紹介した副葬品の他に、横口式石槨に使われた石材にその特徴がよく表れています。


大阪府塚廻古墳復元図(奈良文化財研究所 原図)

前室床面に敷き詰められた敷石は、奈良県三輪山東方の宇陀郡榛原地方に分布する火成岩で、板状に剥離する特徴があり、榛原(はいばら)石または室生(むろお)石などとも呼ばれます。将棋の駒に似た用途不明の“謎”の台石も榛原石製です。

 
(左)敷石 (右)扉石残片(手前)・台石(奥)
(左右ともに)大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


この榛原石は両地域の終末期古墳でしばしば使用されますが、奈良県飛鳥寺の西金堂基壇をはじめ、6世紀末以降の飛鳥地方の宮殿や寺院建築に多用されていることが重要です。
墳丘の版築工法や石槨の漆喰の使用に加えて、当時の最先端であった寺院建築の技術をいち早く古墳の築造に応用したものと考えられます。
なお、扉石は前室と奥室の間を仕切る壁ですが、二上山西方産の通称寺山の青石と呼ばれる石英安山製で、平石古墳群で多用される石材でできています。

一方、多量に出土した漆塗籠棺・夾紵棺片は、横口式石槨墳に特有の可搬性のある漆塗棺が使用されたことを物語ります。

夾紵棺残片(奥)・漆塗籠棺残片(手前)
大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


弥生時代以来、日本列島の有力者の墓には、長大で大型の木棺・石棺・陶棺などが納められました。
いずれも、とても簡単に“運ぶにはゆかない”代物です。
しかし、7世紀の畿内地方ではこのような軽量の漆塗棺を使用し、持ち運ぶために各種の豪華な把手なども取り付けられます。


金銅製環・座金具(上段)、銀装鉄鋲(下段)
奈良県高取町大字松山字呑谷 松山古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀


このような変化は、それまでの墳墓を舞台にした葬送儀礼の伝統が途切れ、終末期古墳は各種の儀礼の後に被葬者が運ばれて永い眠りにつく、最期の安住の場に変わったことを意味します。
その背景には、弥生時代以来の倭人社会の世界観が大きく転換しつつあったことが垣間見え、古代国家成立前夜に相応しい「改革」であった可能性が高いのです。

ところが展示パネルにもあるように、そのほかの地方では、畿内地方のような横口式石槨をもつ終末期古墳はきわめて稀です。本コーナーのテーマのもう一つの柱は、リアルタイムの地方の状況です。
実はここに、いわゆる飛鳥時代を古墳時代の一部と区分している考古学の立場があります。

同じ頃、地方の終末期古墳には、陶棺に付属させた小型鴟尾や寺院の瓦当文様や屋根形を採り入れた陶棺など、伝統的な棺形式に寺院建築のデザインを採り入れた例がしばしばみられます。

 
(左)陶棺鴟尾
岡山県勝田郡勝央町平 五反逧所在古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 国政小市氏寄贈
(右)展示パネルより「終末期古墳(横口式石槨墳)分布図」


今回、久し振りに展示にお目見えした岡山県平福出土の陶棺は、屋根形の蓋とともに棺身の妻側側面に人物と馬・蓮華の蕾(つぼみ)とみられる表現があり、明治時代から注目されてきました。
あの和辻哲郎も絶賛した、愛らしい稀有な造形です。

『日本古代文化』岩波書店、和辻哲郎1920年
「(前略)上代造形美術を顧みないでいた自分の心に、かつて強い驚嘆の情を呼び起こした。(中略) 女も馬も植物も一つの柔らかさに融け入り、そこに平和な、静かな、調和に充ちた気分を造り出しているのである。」
 

 
上段:陶棺(上段右は側面部分) 岡山県美作市平福出土 古墳(飛鳥)時代・6~7世紀
下段:上段の陶棺の簡略図(左:黒川・若林1897、右:若林1898『考古学会雑誌』)


しかし、仏教文化の影響は窺えても、既存の伝統的な葬送儀礼が転換した様子はほとんど見られないですね。
いわば小規模な“改造”にすぎず、本質的な転換ではありません。
このように各地方では、独自に伝統的な葬送儀礼に仏教的要素を融合させるさまざまな「工夫」が行われますが、飛鳥時代の畿内と地方には急速に“格差”が拡大していた様子が窺えます。

このような事実は、日本列島の古代国家成立前夜の実態を示しているといえます。
なぜ、奈良盆地を中心に都宮・古代寺院の建設が続き、694年に藤原京、710年には平城京という壮大な都が築かれたのか。
それを考える上で、これらの遺跡は双方を比較するために欠くことが出来ない重要な存在です。

今回の講演と展示を通して、激動の日本古代国家の成立前夜に想いを馳せて頂くと、より一層この国のはじまりのかたちが見えてくるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月05日 (日)

 

「赤」に込められた人びとの想い

考古資料相互活用促進事業の一環として行われている特集陳列「信濃の赤い土器」。
2012年2月12日(日)までと会期終了間近です。

「赤」は太古の昔より、洋の東西を問わず、血の色、火の色、太陽の色、そして復活の色として、いわば人びとの力のシンボルとして生活の中に溶け込んできました。
一方、歴史的にみると「赤」は邪悪なものを追い払い、人びとに安寧の生活をもたらす役割も果たしてきました。
実は教科書でおなじみの弥生土器にも、鮮やかな赤い色を塗ったものがあることをご存知でしょうか。
赤い土器は日本各地で発掘されていますが、その赤には重要な意味があったはずです。
そこには夭逝した子どもたちの復活、愛するものたちの復活、万物に宿る精霊たちの復活、そして子孫の繁栄、ムラの繁栄を祈るといった、さまざまな人びとの純粋な想いが込められていたに違いありません。



ベンガラ塗土器棺 長野市 篠ノ井遺跡群出土 弥生時代(後期)・1~3世紀 長野県立歴史館蔵

この写真にある3つの土器は、実は1セットで、ひとつの棺(土器棺)を構成していたものです。
発見された時には、胴部がぽっかりと開いた右の大型の土器に左の小型の土器が入れ子状に納まり、いまは修復され完全な形になっていますが、この中央の大型土器の破片がその全体を覆っていました。
そして小型の土器の中からは幼児骨や管玉・炭化物などが発見されました。
赤い土器に包まれ埋葬されていたのは、どうやら子どもだったようです。
おそらくは、大切なわが子を失った親がその子の復活を祈り、丁寧に埋葬したのでしょう。
こうした事例は、人間の営みがおよそ2千年の時を経ても変わらないことを私たちに静かに教えてくれています。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 井上洋一(学芸企画課長) at 2012年02月02日 (木)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 2

前回のブログでは、古墳時代の神マツリの特色として、中心となる奉献品がおおよそ「前期:実物 → 中期:石製模造品 → 後期:土製模造品」と、次第に移り変ってゆくことをご紹介しました。
今回の展示では、古墳時代前期~後期に分けて展示した祭祀遺物を比較して、順を追ってご覧頂けるように配置してあります。

しかし、今年度相互貸借による借用品(長野県立歴史館・館山市立博物館所蔵品)を中心とした今回の展示内容だけでは、やはり資料が不足気味です。
そこで、今回の特集陳列に関わる常設の考古展示室の構成にすでに取り入れられている「テーマ展示」は、それぞれまとまりがあるために実は“温存”してあります。
今回の特集陳列と併せて、是非ご覧頂きたい部分という所以です。

 
(左)第1図 実際の展示の配置図
(右)「特集陳列(右)とテーマ展示A・B(左)」展示室の様子

これらは今回の特集陳列に合わせて、特集陳列のケースと向かい合わせに配置を変更していますので、ご確認ください(第1図)。なお、詳細は当館HPのA「古墳時代の祭祀」・B「古墳時代の葬送儀礼」で作品リストもご覧頂けます。


さて、2つのテーマ展示と今回の特集陳列の関係をお話したいと思います。
中期の祭祀遺物については、今回の借用品にはあまり含まれていないことや展示スペースの問題から、当館収蔵品の優品を中心にコンパクトに展示を構成しています。


「古墳時代中期の石製模造品」 

東京都野毛大塚古墳と京都府鏡山古墳出土品は、共に履物形石製模造品を含む代表的なものです。
大阪府カトンボ山古墳出土品は、最古の子持勾玉と各種石製模造品を大量に出土した古墳で、いずれも中期に発達する石製模造品を中心に副葬する古墳として有名です。

しかし中期には、後期に盛行する各種の土製模造品も現れはじめています。
その典型が、A「古墳時代の祭祀」で展示している奈良県桜井市の山ノ神遺跡出土品です。


「テーマA(古墳時代中期の土製模造品):右から、櫛・箕・竪杵・竪臼・案・坩(ツボ)・柄杓・高坏形」

大正7(1918)年、奈良県三輪山山麓の開墾中に、巨石と河原石の敷石周囲から多量の遺物が発見されました。須恵器・土師器をはじめ、多量の石製・土製模造品、小型素文鏡・鉄片、子持勾玉などが出土したことで有名になりました。
とくに土製模造品には、箕(ミ)・竪臼・竪杵・柄杓(ヒシャク)・坩・高坏や櫛や案(ツクエ)を象ったものがあります。
杵・臼で脱穀した米を箕でふるい、柄杓で汲んだ清水を加えて坩(ツボ)で醸す。そんな酒造りの道具を表しているという説が有力で、平安時代『延喜式』の祭祀用具の記載との類似が注目されています。

『延喜式』(巻40)酒造司 酒造雑器
        「中取案八脚、木臼一腰、杵二枚、箕廿枚、槽六隻。甕木蓋二百枚、橧(コシキ)三口、水樽十口、水麻笥廿口、
         小麻笥廿口、筌百口、匏十口〈已上供奉酒料〉、篩料絹五尺、(中略)
                右造酒料支度、及年料節料雑器、並申省請受。」

また、8世紀に成立した『日本書紀』には、河内国の大田田根子(オオタタネコ)という人物に祀らせた祟り神である三輪山の神(大物主神)が酒神として知られていた様子が窺え、『万葉集』にも謡われています。

『日本書紀』崇神天皇八年 十二月丙申朔乙卯条
        「天皇(スメラミコト)、大田田根子を以て、大神(オホミワノカミ)を祭(イハヒマツ)らしむ。(中略)
                この神酒(ミキ)は我が神酒ならず、倭為す大物主の醸(カモ)し神酒、幾久(イクヒサ)、幾久」

『万葉集』巻4、712番、丹波大女娘子
        「味酒(ウマサケ)を 三輪の祝(ハフリ)が 忌(イハフ)杉 手触れし罪か 君に遇難(逢ヒカタ)き」

これらは、8世紀に、三輪山神が酒神として有名であったことを伝えているもので、その起源が古墳時代に遡る可能性を示唆しています。
そういえば、現在でも三輪山はお酒の神様として知られており、大神(オオミワ)神社から造(ツクリ)酒屋に授けられる杉玉(酒林(サカバヤシ))は有名です。 思いのほか、古代とは身近なところでつながっている部分がありそうです。


それから、もう一つ重要なのが、古墳の副葬品にみられる石製模造品です。


「テーマB(古墳時代後期の滑石製石枕・石製模造品ほか)」

実は前期から中期の祭祀遺物は、古墳の副葬品と共通している部分が多いのです。
B「古墳時代の葬送儀礼」は、中~後期の東関東地方に集中する滑石製石枕と石製模造品のセットなどを展示していますが、後期には中小古墳にも石製模造品が副葬されることを示しています。

ひょっとして、古墳の葬送儀礼と祭祀遺跡の神マツリは同じ内容だったのでしょうか?。
古墳被葬者とカミの同一視。重要な仮説の一つで、学会でも長年論争が続けられてきましたが、決着はついていません。

2つのテーマ展示部分は、実は神マツリとは何かという、祭祀遺跡を考える上で(おそらくもっとも)重要な祭祀対象(祭神?・・・)の性格という問題を孕んでいます。
三輪山の酒の神と、地域の首長(リーダー)である古墳被葬者の性格・・・。
一生飲んで暮らしてゆけるのなら…♪、マサに“特権階級”ですので古代国家成立前夜に相応しい?? (楽しそうですが…)。

う~む。やはり、これらをまったく同一視することは、そう簡単にはゆかないような気もしますね。
今一度、最初に立ち戻って、古墳時代の神マツリの変遷から考えてみる必要がありそうです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年01月16日 (月)