書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第12回です。
いま、本館2階の展示室に、3点の「柿本人麻呂像(かきのもとのひとまろぞう)」が展示されています。
まずは2点、本館3室「宮廷の美術」にあります。
(左右ともに)柿本人麻呂像 鎌倉時代・13世紀 (右)松永安左エ門氏寄贈
(~2012年4月22日(日)展示)
柿本人麻呂(650頃~710頃)は、三十六歌仙のひとり。
『万葉集』や『古今和歌集』に人麻呂の和歌が見られます。
そして、本館8室「書画の展開」にも1点、展示されています。
柿本人麿自画賛 近衛信尹筆 安土桃山時代・17世紀
(~2012年5月6日(日)展示)
先に紹介した人麻呂像と姿は似ていますが、なにか少し違うと思いませんか?
これは、文字絵になっています。
文字絵、
私は小さい頃、「へのへのもへじ」で顔を描いていましたが、
みなさんも経験ありませんか?
この文字絵は、
顔のあたりの上半身が「柿」の字になっていて、
右手が「本」をくずして、筆を持っている様子。
右ひざが「人」、左ひざが「丸」のようです。
柿本人麻呂は、人丸とも呼ばれ、
歌聖として尊ばれ、「人丸影供」(ひとまるえいく[えいぐ、とも])という
人麻呂像を掲げた歌の会が開かれていました。
この文字絵を描いたのは、近衞信尹(このえのぶただ、1565~1614)、
「寛永の三筆」と呼ばれる能書です。
(寛永年間<1624~45>には生きていませんが…)
信尹は、何枚もこの文字絵を描いていて、
近衞家の資料を収める陽明文庫にも同じような文字絵が
伝来しています。
信尹の豪快で豊潤な筆遣いが、よくわかりますよね。
信尹はほかにも文字絵を描いています。
渡唐天神自画賛 近衛信尹筆 安土桃山時代・17世紀
(2013年02月26日(火)~4月7日(日)展示予定)
「天神」という文字で、「渡唐天神像(ととうてんじんぞう)」を表現しています。
文字絵は、
「葦手」(あしで)という、平安時代にはじまり、
硯箱などの装飾として鎌倉時代以降も続いたものもあります。
江戸時代に、文字絵は流行しました。
新しい文字絵、考えてみましょうか。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年04月14日 (土)
書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第11回です。
今回は、「砂子切(兼輔集)(すなごぎれ(かねすけしゅう))」から、お話を始めます。
「砂子切(兼輔集)」は、本館3室「宮廷の美術」で展示中です。
さっそく、エンピツで写しました。
(左)砂子切(兼輔集) 藤原定信筆 平安時代・12世紀(~2012年4月22日(日)展示)
(右)エンピツの画像
料紙に、金銀の砂子が散らされているため、「砂子切」と呼ばれますが、
地味な作品だな~と思われるかもしれません。
でも!
注目したいのは、その筆者、藤原定信(ふじわらのさだのぶ、1088~1154‐?)です!
定信は、
藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)を祖とする能書の家系、
世尊寺家(せそんじけ)の第五代目です。
「書を楽しむ」シリーズブログ第9回で紹介した、国宝「白氏詩巻(はくししかん)」を書いたのが、藤原行成。
さらに、第5回で紹介した、国宝「古今和歌集(元永本)」を書いたのが、
定信のお父さん、藤原定実(ふじわらのさだざね、?‐1077~1119‐?)です。
すごい家系だというのを、頭の片隅で覚えておいてくださいね。
定信の作品は、国宝「本願寺本三十六人家集」の「順集(したごうしゅう)」ほか、たくさん残されています。
「本願寺本三十六人家集」の時は、父の定実も書いています。
だから、定信の若い頃の筆跡とわかります。
「砂子切」も、「本願寺本三十六人家集」と同じ頃の作品です。
定信は、行成の国宝「白氏詩巻」に跋語(ばつご)を書いていて、面白いです。
国宝 白氏詩巻(部分) 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018)
(左半分が、定信の跋語。展示予定は未定)
これによると、定信は、物売りの女から、二巻購入しました。
値段は黒く消してありますが、買ったのは、この「白氏詩巻」と「屏風土代(びょうぶどだい)」。
「屏風土代」は、小野道風の筆跡で、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵しています。
定信の写経を見てみましょう。
右肩上がりで、とてもスピーディに見えます。
法華経巻第四 断簡(戸隠切) 藤原定信筆 平安時代・12世紀
(2012年11月20日(火)~12月24日(月)、本館3室「仏教の美術」にて展示予定)
有名なのは、定信が、一切経約5000巻をひとりで全部写したことです!
42歳から始めて23年間で書き終えました。
一筆一切経といいますが、それができたのは、定信ともう一人しかいません。
スピーディに書けたからできたのか、それとも
一切経を書いたからスピーディな書風になったのか。
一筆一切経を成し遂げた人物として、定信の書風がもてはやされました。
右肩上がりの書風は、「定信様」(さだのぶよう)と呼ばれ、
よく似た書が、「平家納経」(国宝、厳島神社所蔵)などに見られます。
さだのぶ。
今年度はほかにも展示する予定です。
探してみてください。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年03月30日 (金)
東京国立博物館の展示室で書をごらんになった皆さん、「博物館の書は展示室で見るもの」と思っておられませんか。実は建物の外にも書はあるのです。
まず、正門。門標の「東京国立博物館」(画像1)は見過ごしてしまいますが、これも書です。筆者は明記されていませんが、おそらく館名が「国立博物館」から「東京国立博物館」に変更された昭和27年(1952)当時の館長であった浅野長武(1895-1969)の筆になるものではないかと考えられます。浅野は広島藩主の家に生まれ、大戦前から美術史家として著名で、逝去まで18年にわたって館長を務めました。
正門の門標(画像1)
表慶館の階段右側の植え込みには中世の板碑が立っています(画像2)。建武元年(1334)の年号があります。大ぶりでそれほど上手とは言えませんが、約670年前に書かれた無名の筆者の文字です。
表慶館の階段右側の植え込みにある中世の板碑(画像2)
平成館の玄関前には「平成館(舘)」という標石があります(画像3)。これまた「あるのは当然」みたいに思ってしまいますが、実はこれもただの文字ではありません。裏側へ回ってみてください。由来が書いてあります。当館所蔵の国宝「元暦校本万葉集 巻十八」の中から「平」「成」「舘」の文字を抜き出してきたものです。このような作業を「集字」と呼び、書籍の表紙に題名を付けるときなどにも行われます。最近はコンピュータによる検索で便利になりましたが、昔の集字は、長大なテキストから目当ての文字を探すめんどうな仕事でした。
平成館の玄関前の標石「平成館(舘)」(画像3)
2012年3月10日(土)~4月15日(日)まで「春の庭園開放」で、本館裏手の庭園を散策いただけます。道すがら、石碑が2基、目につくでしょう。一つは回遊路沿いにやや小ぶりなものが立っており、もう一つは茶室「春草蘆」の前に高くそびえています。「第二回内国勧業博覧会碑」(画像4、5)と「町田石谷君碑」(画像6、7)です。
「内国勧業博覧会碑」は博物館が上野に移転してきた明治14年(1881)に開催された産業振興のための博覧会を記念し、その経緯を述べたものです。「撰文」つまり文章を考えたのは「正七位内藤恥叟」、「書」すなわちその文章を揮毫したのが「成瀬温」と、文末に記されています。内藤恥叟は水戸の人で名を正直と言い、漢学者として知られ、帝国大学教授も務めました。成瀬温は号を大域、賜硯堂と称し、書家として明治前期に活躍した人です。その時代、当時の清(中国)から、六朝時代の碑文の拓本が多くもたらされ、書の潮流が大きく変わり始めていました。大域はそのような流れに抗して、唐の顔真卿の書風を守ろうとしました。「博覧会碑」はいわば政府による公式の記念碑ですから、奇をてらうことなく、初唐風の鋭く謹厳な書体で一貫しています。
第二回内国勧業博覧会碑 (右)左画像の拡大部分(画像4、5)
「町田石谷君碑」は、当館の初代館長に当たる博物局長を務めた町田久成(1838~97)をしのんで明治43年(1911)に建てられました。町田は薩摩藩の高級武士の家に生まれ、幕末に藩の留学生として英国に渡りました。維新後は博物館の創設を主導し、英国で見た「ミュージアム」を日本に作ることに半生を捧げました。碑の建設は時期から見て十三回忌にちなんだものでしょう。上部の篆書の題は井上馨、碑文は撰が重野安繹、書は杉孫七郎という顔ぶれです。井上馨は長州藩士として幕末に活躍し、維新後は外務卿などを歴任した政治家として著名です。重野は町田と同じ薩摩藩出身の学者で近代日本の歴史学の基礎を築いた人物です。杉孫七郎は長州出身で長く官僚を務めた人ですが書家としても知られ、長三州、野村素軒とともに「長州の三筆」と称されました。井上も杉も欧州留学の経験があり、それぞれ町田とは縁があったのでしょう。
町田石谷君碑 (右)左画像の拡大部分(画像6、7)
最後に、もし子ども図書館や寛永寺、谷中方面に足を延ばされる機会があれば、観覧のお客様が通られることの少ない「東京国立博物館西門」の門額(画像8)に目をとめてください。現副館長の島谷弘幸が揮毫したものです。
「東京国立博物館西門」(画像8)
当然のことですが、書があるのは博物館の敷地の中だけではありません。街中を歩けばあちこちに書を見つけることができます。実は、書はそれくらい、私たちのくらしの中に溶け込んでいます。その昔、寺山修司は「書を捨てよ、町へ出よう」と宣言しましたが、「書をさがしに、町へ出る」のもまた楽しいものです。機会があればそちらもご紹介したいと思います。
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posted by 田良島哲(書籍・歴史室長、調査研究課長) at 2012年03月11日 (日)
書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第9回です。
今回は、国宝「白氏詩巻」です!
トーハクの総合文化展、本館2室「国宝室」に、
「白氏詩巻」が展示されています!!(~2012年3月18日(日)展示)
国宝 白氏詩巻(部分) 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018)
じつは、私がいちばん好きな作品です。
その理由は単純で、「こんな字が書きたい!」です。
というわけで、写してみます。
展示室で写すときは、作品の保護のために、エンピツを使ってくださいね。
私が字を写すときの道具一式です。
エンピツ版「白氏詩巻」、いかがですか?
エンピツで写した白氏詩巻 (右)左画像の部分拡大
形はがんばって似せてみました。
でも、一番左の行は字が大きくなってしまい、さいごの文字まで書けませんでした。
普段はエンピツで写すだけですが、今回は、毛筆でも写してみました。
(注)展示室では毛筆は使えませんので、自分の机で写真を見て写しました。
(左)毛筆で写した白氏詩巻
(右)該当部分の白氏詩巻(冒頭に掲載の画像、国宝「白紙詩巻」の部分拡大)
この箇所は、とくに好きな部分です。
さらっとくずした字もあって、バランスがとてもいいです。
でも、
難しいのは筆の弾力。
形と筆の動き、この調和がなにより大切。
この調和こそが、書く楽しみでもあり、鑑賞する楽しみです。
「白氏詩巻」は、藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)が寛仁2年(1018)に書きました。
当時の宮廷貴族のあいだで、中国・唐時代の白楽天(白居易)の詩集『白氏文集』が
流行して、筆写されました。
この作品も、『白氏文集』を書いているため「白氏詩巻」と呼ばれています。
藤原行成は、能書として歴史的に評価の高い「三跡」のひとり。
同じく「三跡」の小野道風や、中国の王羲之を学んだと言われています。
重要なのは、藤原行成が、「和様(わよう)の書」を確立したことです!
「和様の書」とは、日本風の書、と言ったらいいでしょうか。
それまで書かれていた中国風の書にくらべて、
やわらかく、なだらかな線が特徴です。
その行成の力量がいかんなく発揮されているのが、この「白氏詩巻」です!
さらに、この「白氏詩巻」には……
言いたいことが山ほどありますが、今回はこのへんで。
書にとって写すことはとても大切なことです。
好きな作品を見つけたら、写してみてください。
私の大好きな「白氏詩巻」、全部展示していますので、
ぜったいに見てくださいね!
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年02月24日 (金)
書を楽しむ 第8回「九条家本『延喜式』の紙背文書の料紙について」
紙のリサイクルはいつごろからはじまったのでしょうか。実は、日本で紙が本格的に使われるようになった奈良時代には、すでに一度使われた紙の余白や裏を利用して文字を書くことが行われていました。当時、紙はとても貴重だったので、文字を書く余白がなくなるまで、大切に使われていたのです。
日本では、江戸時代に活字本が普及するまでは、読みたい本がある場合、人から本を借りて、自分で書き写したものを読むのがごく普通のことでした。
本館3室の宮廷の美術で2012年3月18日(日)まで展示されている、九条家本『延喜式』は、平安時代の後期に、政治・文化の中心にいた摂関家が、関係する機関に命じて、使用済みの紙を集め、摂関家の周辺にいる文字の上手な人々に書き写させた本であると考えられています。
『延喜式』が書かれた紙の裏側には、10世紀から11世紀のころの役所の文書や、手紙などさまざまな内容のものがたくさん残っています。このように、紙の裏側に書かれている文書などを紙背文書とよんでいます。
以降掲載の画像は左右組で下記のとおり
(左)国宝 延喜式 紙背文書(部分) 平安時代・10~11世紀 28巻のうち(透過光による撮影)
(右)左画像の作品の×100の顕微鏡写真(1目盛りが0.01mm)
(~2012年3月18日(日)展示。画像の部分は展示されていません。)
左の画像は紙の裏からライトの光をあてた様子です。虫喰いのあとの様子もよくわかります。墨が混じっているので、漉き返した紙のようです。
紙背文書のなかには、書くのを途中でやめてしまった手紙なども含まれているため、内容がわかりにくいのです。
ほとんどの文書は、紙が虫に食べられてしまい、全体に裏打ちがされています。これも紙背文書の解読を困難にしています。
そのようなときは、裏からライトの光を当てると透けて読めることもあります。でも、後に書かれた文字も一緒にみえるため、今度は裏と表と交互にみながら、どの部分が解読しようとする文字であるかを判断しなければなりません。
犯罪者を捕まえたりする検非違使(けびいし)庁の役人の文書です。薄手ですが、上質の紙が支給されていたようです。
同じ時期のいろいろな内容の文書などがまとまっていることは、奇跡といってもよいでしょう。
しかも、紙を調べてみると、当時の人々が、書く手紙の内容によって、紙の種類を使い分けていたことなどもわかります。
こちらの文書は、法律に関する質問状のようです。紙は、楮(こうぞ)を原料とした紙です。
繊維の間に白いつぶつぶがみえるのは、紙を白くするためにお米の粉を混ぜています。
白米を一晩水に浸けておき、柔らかくなったものを、石臼(いしうす)で細かく摺りつぶしたものを混ぜて漉いた紙と思われます。
昔も、目上の人や役所に出す手紙には気をつかったことがわかります。
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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2012年02月09日 (木)