特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ…) 1
現在開催中の特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」(2013年10月29日(火)~2014年3月9日(日)、平成館考古展示室)の展示の構成と見どころをご紹介します。
展示風景(冒頭から)・館内案内サイン
今回の展示は、本州最西端に位置する響灘沿岸の山口県下関市・綾羅木郷遺跡が舞台です。
弥生時代前期を中心として、2~3重の環濠に囲まれた大規模な集落遺跡で、南北を梶栗川と綾羅木川の沖積地に挟まれた台地上に拡がっています。
明治時代から知られた遺跡でしたが、九州北西部地方の前期弥生文化と同様な大型袋状土坑が約1000基近くも発見されたことでも注目されました。
1956年以降に度重なる発掘調査が行われ、1969年の遺跡破壊事件をきっかけに国の史跡に指定されました。
事態を重くみた文化庁がわずか4日間(休日を挟む…)で史跡指定の手続きを完了するという、ドラマチックな経緯で保存された遺跡としても有名です。
市民の保存運動や調査研究・行政担当者など、多くの関係者の努力によって守られた遺跡です。
1995年にオープンした下関市立考古博物館は、このような経緯で生まれた我が国を代表するサイトミュージアム(史跡博物館)の一つです。
本特集陳列は平成25年度文化庁考古資料相互活用事業によって、同博物館所蔵の出土品で特色ある綾羅木郷遺跡の弥生文化をご紹介するものです。
左:綾羅木郷遺跡 遺構分布図(西部:石仏・岡地区)、右:下関市立考古博物館 入口外観
約1万2千年以前から約1万年ほど続いた縄文文化は、南北に長く連なる日本列島の四季とそれぞれの土地柄を活かした日本列島独自の新石器文化でした。
地方毎に、実に多様な生活が展開していたと考えられています。
一方、弥生時代は日本列島で本格的な農耕文化が根づいた時代です。
稲作を中心とする農耕技術が朝鮮半島を経てもたらされ、人々が一年の相当な期間、特定の土地(水田や畑)で農作業に従事することが必要となりました。
日々の生活がそれまでに経験したことがないリズム…に大きく転換し、人々の生活全体が激しく変化した時代といえます。
中学や高校の教科書にも必ず登場する一般的な弥生時代像は、静岡県登呂遺跡や畿内地方の大集落遺跡など、中期~後期の遺跡から復原された景観がほとんどです。
安定した時代は、規模も資料も多くイメージし易いものですが、このような時代の転換期に人々はどのように立ち向かい、また激しい生活の変化を受け入れていったのでしょうか?
そこには人々が農耕を始めるにあたって、多くの試行錯誤やさまざまな葛藤があったのに違いありません。
今回の展示は、激動の弥生時代前期の綾羅木郷遺跡の人々の生活ぶりを中心に、つぎのような大きく2つの部分[1・2+3]と、4つのコーナー[(1)~(4)]で構成しています。
1、響灘の弥生文化(ガイダンス)
2、綾羅木郷遺跡の交流と展開
1)綾羅木I式土器(前期後半)
2)綾羅木II式土器(前期後半)と、(1)弥生農耕・(2)狩猟漁撈(生業具)
3)綾羅木III式土器(前期末 )と、(3)海の幸(海産物)
4)綾羅木IV式土器(中期初頭)と、(4)山の幸(陸産物)
3、信仰と生活
左:1響灘の弥生文化[後列:甕・壺(綾羅木III式土器)、前列左:土笛、同中:武器形磨製石器、同右:装身具(玉類)]
右:土笛
1は、ガイダンス部分で、綾羅木郷遺跡の象徴する部分(エッセンス…)を集めたコーナーです。
遺跡がもっとも拡大・発展した時期の綾羅木III式土器(壺・甕)と、響灘から日本海側沿岸の弥生文化に特有な土笛、西日本の前期弥生文化に特徴的な武器形磨製石器と、特異な石材の玉類(装身具)を展示しています。
土器がもっとも大型化した(雄大な…)姿が印象的です。
次の2では、綾羅木郷遺跡の集落の展開を、時期ごとに展示しています。
まず、1)は集落が形成しはじめる綾羅木I式土器です。
九州北西部地方のいわゆる遠賀川式土器(弥生時代前期)とよく似た土器も多く、文化の共通性が高いことがわかります(しかしすでに多くの壺には文様が…)。
2)は、壺の文様が美しい綾羅木II式土器で、この地方独特のスタイルが確立しつつあることが窺われます。貝殻を使って描いた綾杉文や山形重弧文を中心とした文様のバラエティがなかなかオシャレな感じですね。
2綾羅木郷遺跡の交流と展開[左:綾羅木I式土器(壺・鉢・台付鉢)、右:綾羅木III式土器(壺・無頸壺・甕・鉢・蓋・無文土器)]
さらに、もっとも集落が発達した3)の綾羅木III式期では、土器が多様化し、主要な器種は大型化して、壺形土器の独特なソロバン玉形の形態が目を惹きます。
もちろん、文様はさらに発達して密に施されています。
ところが、4)の綾羅木IV式土器では文様がほとんど失われ、器種も減少して大きさも小ぶりになってしまいます。
そして、なぜか集落も衰えて消滅してゆきますが、この急速な変化の謎については、機会を改めて考えてみたいと思います。
綾羅木式土器 文様コレクション[上左・上中:I式、上右・下左:II式、下中・下右:III式]
それぞれどの土器か、是非探してみてください
次に、(これらの土器群の間に・・・)綾羅木郷人の生活ぶりを4つのコーナーに分けて展示しています。
(1)・(2)は、農耕やその他の食料獲得に用いた道具と収穫物を展示し、綾羅木郷遺跡の農耕とその他の生業活動の特徴をご覧いただきます。
(1)の石包丁は、東アジアの初期農耕文化に共通の収穫具で、炭化米・籾の圧痕なども稲作農耕社会の成立を感じさせるものです。ところが、炭化物にはシイの実(?!…)が含まれることが注目されます。
一方、(2)石鏃・ヤスは鳥類や小動物を捕らえていたことを示しています。また、土錘・アワビオコシは魚類だけでなく、浅海に生息する魚介類も盛んに獲っていたことが判ります。
しかし・・・そういえばこのような道具は、縄文文化にポピュラーな道具として知られているものを多く含んでいます。
ひょっとして、縄文文化とのつながりはどうなのでしょうか?。
上:(1)稲作農耕[左:石包丁、中・右:炭化物(米粒・シイの実)、奥:籾圧痕土器(壺底部)]、
下:(2)収穫具と漁撈具[打製石器(1石鎌・2石鏃)と漁撈具(1土錘・2アワビオコシ・3ヤス)]
また、次の(3)・(4)に見られる綾羅木郷の人々が食べた動物の骨など(いわゆる食べカスですが…)は、実に多様(で縄文的?)です。
イノシシにシカ・サル、ウニ・カニ・アワビやマダイにクジラなどなど、まさに「海の幸・山の幸(!)」をふんだんに利用している人々の姿が浮かび上がってきます(ずいぶんとグルメですね…)。
実は、同様な食料そのものや収穫具・狩猟漁撈具を出土する遺跡は、弥生時代前期の西日本には広く分布していることに注意する必要があります。
とくに、九州南部から瀬戸内・日本海側や東海地方には貝塚も多くみられます。
なかでも、(2)の石鎌は九州から東海地方に分布する弥生文化に特有な道具ですが、そのうちの約8割が九州北岸部、それも響灘沿岸部に集中しています。
石包丁は主に稲などの穀物の収穫具ですので…、そのほかの雑穀を収穫する道具とも考えられています。
もしかすると、稲作で学んだ新しい生活のサイクルを応用して、新しい植物栽培に挑戦していたのかもしれません。
このように綾羅木郷遺跡は海・山の資源を積極的に利用し、さらに稲作以外の農耕も行なっていた弥生文化の中心でもあったようです。
大陸からの渡来人の“仕業”とは思えない活動ぶりで、綾羅木郷弥生人のルーツをうかがわせるものと言えそうです。
そのもう一つの“証拠”は、次の「3.信仰と生活」で展示しているスタンダードな「弥生文化の道具(鉄器・磨製石器・紡織具など)」に混じるさまざまな“見慣れない”道具でしょう。
3信仰と生活(石製工具・鉄製工具・紡織具・玉砥石・シンボル石など)
その意味は、稲作が日本列島でもっとも早く定着したことで知られる九州西北部(玄界灘沿岸)地方にはない「土笛」の存在とも併せて、改めて考えてみたいと思います。
ところで(その前に…)、
綾羅木郷遺跡が多くの関係者の努力によって、遺跡の内容が明らかにされ保存されたことは、冒頭でご紹介しました。
このたび、発掘当初から発掘調査・研究と保存活動の中心的な役割を果たされたお二人の先生にお話を伺う特別講演会を予定しています。
金関先生は戦後の弥生時代研究を常にリードされてきた研究者としても著名ですね。
綾羅木郷遺跡の(歴史的意義も含めて)“全貌”をわかりやすくご紹介して頂く内容になると思います。
まずは、発掘調査担当者のお話(=マサに第1次資料!ですね)をじっくりお聴きする貴重な機会ですので、是非ご来場ください。
東京国立博物館・日本考古学会共催特別講演会
日時 2013年12月14日(土)13:30~15:00(一般公開・入場無料)
会場 東京国立博物館 平成館大講堂
講師 元下関市教育委員会 文化課主幹 伊東照雄氏
大阪府立弥生文化博物館 名誉館長 金関 恕氏
演題 (講演・対談)「山口県綾羅木郷遺跡の保存と活用 -弥生時代前期における歴史的意義を巡って-」
| 記事URL |
posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年12月11日 (水)
本館14室で「特集陳列 日本の仮面 能面 是閑と河内」(2014年2月16日(日)まで)を行なっています。
11月26日の川岸さんのブログで紹介されたとおり、是閑(?~1616)と河内(?~1657?)は安土桃山時代から江戸時代初期に能面を作った面打(めんうち、能面の作者)です。是閑は、能と茶の湯に熱中した豊臣秀吉から文禄4年(1595)に「天下一」の称号を与えられた人です。河内は徳川将軍家の注文も受けたらしく、目利きから「無類最上の名人」と評されました。
この特集陳列では27面を展示していますが、実は是閑と河内の作品と確定できるものはありません。是閑と河内の焼印がある能面の特集です。焼印は本来、自分の作であることを示すために押したものと考えられますが、後世の面打が是閑と河内の作を写した時に焼印まで写して自分の作品に押すことがあったので、印を根拠に作者を断定することができないのです。
(左)是閑の焼印、(右)河内の焼印
もう一つ、面打が自分の作であることを示す方法として、面裏を削った部分に固有の刀の跡を刻む、知らせ鉋(がんな)と呼ばれるものがあります。是閑は、鼻の下に3つの刀跡、
是閑の知らせ鉋
河内は鼻孔の間に2つの刀跡と右上隅に菊の花のように放射状にそろえた刀跡があります。
河内の知らせ鉋
しかし、これも後世の面打が写すことがあるので作者確定の根拠になりません。
また、焼印や知らせ鉋がないものは2人の作ではない、とも言えません。
では今回展示した27面もどれが真作でどれが写しか全く不明か、というとそうでもありません。能面は木を彫って作ったものですから、精密に写しても造形に差が出ます。さらに塗りにも個性が出ます(11月26日ブログ参照)。
能面 平太 「天下一是閑」焼印 安土桃山~江戸時代・16~17世紀
是閑印のある平太です。武将の亡霊の役に用います。
眉の稜線が目立ち、その下方は落ち窪んでいながら眼球の丸みが強く、上瞼が盛り上がっていて、くっきり強い印象の顔です。頬骨も出て雄々しいですね。塗りはなめらかで光沢があります。
重要文化財 能面 泥眼 「天下一河内」焼印 奈良・金春家伝来 江戸時代・17世紀
河内の印のある泥眼です。白目の部分に金泥を塗ってあります。「葵上」の六条御息所など抑えきれない情念、怨みに苦しむ役に用います。額が丸みを帯び、眉の稜線はなく、目の窪みも上瞼のふくらみも、なだらかです。しかしゆるやかな起伏はあって、それはこめかみの窪み、頬骨のわずかな張りも同様です。
上記2点は彫刻作品として優れており、それぞれ是閑と河内の作と見て良さそうです。
こうした微妙な造形を展示ケース越しに見極めるのは容易ではありませんが、さまざまな角度からじっくりご覧ください。
カテゴリ:研究員のイチオシ
| 記事URL |
posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2013年12月09日 (月)
本館16室で開催中の特集陳列「江戸城」(12月23日(月・祝)まで 本館16室)、もうご覧になりましたか?
260年の長きにわたって天下を治めた徳川将軍家の居城、江戸城。
外堀の総延長は14キロメートルに及び、天高くそびえる天守を備えた広大かつ壮麗な建築でした。
現在も牛込―赤坂間に残る外堀や、田安門、清水門、外桜田門(いずれも重要文化財)など、皇居周辺の門と櫓(やぐら)などに往時の姿をしのぶことができます。
この特集では、江戸城の建築指図や上棟式に関わる資料、明治初期に撮影された写真、さらに近年発掘された遺物を合わせてご覧いただき、江戸城の威容を振り返ります。
東京都教育委員会・千代田区教育委員会・東京都立中央図書館・東京都江戸東京博物館所蔵の資料もまじえ、たいへん充実した展示になりました。
まずは、江戸城本丸御殿松の廊下をのぞいてみましょう。
そう、あの忠臣蔵の刃傷事件で有名な「松の廊下」です。
江戸城障壁画 本丸松廊下 伺下絵 狩野探淵・住吉弘貫筆 江戸時代・弘化2年(1845)
といっても、もちろん本物は残っていません。
こちらは、襖絵の下書きです。幕府御用絵師の狩野晴川院養信らが描いたもの。
実際に襖に描く前に図案を示してこれでよいかどうか伺いをたてたものです。時代劇でよくみる大松ではなく、なんだか上品な小ぶりな松が描かれていたのですね。
気になるのは、なんといっても大奥です。
きっと、贅を尽した意匠が凝らされていたことでしょう。
こちらは、その一端を伝える貴重な資料。
御本丸大奥御畳方御用雛形帳 江戸時代・文化10年(1813)~文政5年(1822)
江戸幕府に代々仕えた御用畳師 伊阿弥家に伝わる資料です。
江戸城はじめ日光、久能山などの他、御三家の畳御用をつとめた際の記録で、実際に使用した畳縁(たたみべり)の小裂を貼付けた仕様記録です。
江戸城は、家康・秀忠・家光の徳川三代にわたる天下普請によって、空前絶後の規模をもつ城郭となりますが、その後、何度も火災によって焼失します。そして、そのたびに再建されました。
そんな再建の際の資料から、弘化元年(1844)の普請の際の上棟式の様子をご覧いただきましょう。
江戸城本丸上棟式図 江戸時代・19世紀
華やかな儀式の様子を今に伝えます。
そして、江戸城本丸の上棟式の際に使われた装飾的な大工道具。
江戸幕府の大工棟梁柏木家に伝わったものです。
上棟式道具 墨壺 江戸時代・19世紀 柏木貨一郎氏寄贈
江戸城は大火に見舞われることもありました。
こちらは、三葉葵文をあしらった鬼瓦。
三葉葵鬼瓦 江戸時代・17世紀 汐見多聞櫓台跡遺跡出土 千代田区教育委員会蔵
表面が焼けて赤くなっているところから、明暦の大火(1657年)で焼け、廃棄されたものと推定されています。
このほか、明暦の大火によって焼け、廃棄されたとみられる陶磁器も発掘されています。
それらは、江戸城本丸御殿で使用されていたものと考えられますが、なかには明代の青花磁器や肥前産の色絵など高級品が多く含まれています。今回の展示では、青磁の花瓶の破片を展示しています。
当館の資料のなかから注目していただきたいのは、「旧江戸城写真帖」(重要文化財)です。
明治4年(1871)に太政官少史・蜷川式胤が、写真師・横山松三郎に江戸城を撮影させたもので、すべての写真にあの「鮭(重要文化財、東京藝術大学蔵)」でおなじみの高橋由一が彩色を施しています。
重要文化財 旧江戸城写真帖 蜷川式胤編、横山松三郎撮影、高橋由一着色 明治4年(1871)
右の建物は、天守台の西の番所。中央が旧金蔵、左は乾の二重櫓。
江戸城開城からたった数年で、すでに荒れ果てている様がわかります。
見返しに付されていた文書には、「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置」ことは「後世ニ至リ亦博覧ノ一種」になるとあります。朽ちてゆく文化遺産を写真で記録にとどめようという意図が明確にあったことがわかります。このあと江戸城は、明治6年に焼失しました。
今週末7日(土)には講演会「江戸城築城400年-発掘成果にみる江戸城の姿-」も開催されます。
13:30~15:00 平成館大講堂
講師:
後藤宏樹(千代田区図書・文化資源担当課文化財主査)
冨坂賢(九州国立博物館学芸部文化財課長)
東洋館ミュージアムシアターで関連プログラムVR作品「よみがえる江戸城─本丸御殿・松の廊下から天守閣へ─」を上演中
カテゴリ:研究員のイチオシ
| 記事URL |
posted by 小林牧(広報室長) at 2013年12月05日 (木)
あの感動から約二年……、お待たせしました。東博本「清明上河図巻」が東洋館で公開中です!
東博本「清明上河図」 張択端(款)筆 明時代・17世紀 1巻 絹本着色
(2013年12月3日(火)~23日(月・祝)まで東洋館8室にて展示)
東博本「清明上河図巻」は、北京・故宮博物院に所蔵される張択端「清明上河図巻」を祖本に、明代に多く描かれた「清明上河図巻」の一つです。
郊外の風景から始まり、川の流れに沿って人々が街へと向かい、繁栄する都市の様子が描かれています。
輿に乗る女性
人々が物資を運ぶ先には大都市があります
曲芸の様子も多く描かれています。これは綱渡りの女の子
橋の上にもお店がいっぱい!
コッチン、コッチン。一生懸命な鍛冶屋さん
大人も子どもも人形劇に夢中!
勉強も大事ですね
色鮮やかな反物が染め上がっています
反物をご購入の方はこちらへどうぞ
本屋さんと傘売り
ところが、この作品の魅力は、細やかな人物描写だけではないようです。
画巻の後ろには、明時代の宰相・李東陽、蘇州文壇の首領・文徴明、その友人・彭年、王寵、呉寛など、錚々たる蘇州文化人の跋が続いています。しかしよくみてみると、全部が同じ人が書いたもののようです。
(左)李東陽の跋
(右)彭年の跋
書風は変えていますが、明らかに同じ一人が書いていることがわかります。
(左)翰林画院張択端製(偽款)
(右)巻頭の「宣和」印(北宋徽宗の収蔵印)も偽物です。
これを見ると「ニセモノを展示するとはけしからん」と、怒られる方もいるかもしれません。しかしこれは、11世紀作品の17世紀におけるとても高い質を持った複製で、当時の古画や美術のあり方を考える非常に重要な史料なのです。この「清明上河図巻」のなかには非常に大切な場面が描かれています。
店頭で書画を買う人。
赤い官服を着ているので身分の高い官僚でしょう。
日本の表具にしか残っていない風帯(表具の上のヒラヒラ)も描かれています。
宋元時代の書画は、主に親しい友人に贈られるために描かれましたから、金銭を仲介に市場に流通することは比較的稀でした。しかし、明時代になり社会が発展すると、書画を楽しむ階層が爆発的に増大します。それまでの支配者層であった士大夫官僚のみならず、商人たちも豪華な屋敷を構え、壁には書画が飾られました。
しかし古い名画には限りがありますから、その複製が行われることになります。この時代、蘇州で作られた名画の複製品は美しいことで大変有名で、それを「蘇州片(そしゅうへん)」とよび、東博本「清明上河図巻」もそのうちの一つです。当時このような書画屋さんで売り買いされ、富裕層に楽しまれていったのでしょう。
(左)文徴明の印(偽印)
(右)王寵の印(偽印)
よく見れば印朱の色が同じ。制作者が工房で手元にあった印を押したことがわかります。
ここでは、当時の蘇州片の作者たちが、同時代の文人たちの書風を完全にマスターしていたこと、また彼らの工房には、有名な文人たちのみならず、徽宗皇帝の印章までもが用意されており、江南の富裕層はそのような伝来のしっかりした書画を欲しがっていたことがわかります。北京故宮の「清明上河図巻」を知っている後世の私たちは、それを偽物と一蹴してしまいがちですが、当時は違った価値を持ち、人々に愛されていたのです。蘇州片の専門の研究もあるぐらいで、蘇州片の歴史を知ることは、本物を知るぐらい非常に重要なことと言えるでしょう。
中国文化史における書画の複製の誕生は非常に早いのが特徴です。それは、美術の受容者、すなわちそれを楽しむ人が、世界に先駆けて爆発的に増大したという、社会の発展を示しています。この背景には、16世紀以降、江南経済都市の繁栄がありました。
石濤、龔賢の巨幅も見所です。この石濤の作品は昭和の南画の大家・小室翠雲の旧蔵品でした。
今回の明本「清明上河図」と明清の絵画(2013年12月3日(火)~23日(月・祝)、東洋館8室)では、
東博本「清明上河図巻」を生んだ蘇州のほかに、福建、杭州、揚州、南京の個性的な四つの江南都市の絵画を紹介しています。爛熟した都市の文化をお楽しみ下さい。
カテゴリ:研究員のイチオシ
| 記事URL |
posted by 塚本麿充(東洋室研究員) at 2013年12月03日 (火)
「清時代の書-碑学派-」のブログも、いよいよ最終回となりました。
初回のブログ「清時代の書-碑学派- 勃興期@トーハク」でもお伝えした通り、このたびの連携企画では、10月29日にリニューアルオープンした台東区立朝倉彫塑館を加え、3館で碑学派の書人の代表作を紹介しています。
今回のブログでは、朝倉彫塑館で展示されている作品についてお話ししようと思います。その前に、朝倉彫塑館についてちょっと一言。
朝倉彫塑館は、彫刻家・朝倉文夫(1883~1964)が自ら設計してつくった自宅兼アトリエを、美術館として公開している施設です。朝倉がかつて生活していた空間で、朝倉自身の作品や、朝倉が収集した書画を楽しめるという、本当に贅沢なひとときを味わえる場所で、まさに都会のオアシス!!トーハクのK課長も、学生の頃によく朝倉彫塑館を訪れては、畳の部屋で瞑想にふけっていたとか…。
さて、そんな素敵な朝倉彫塑館では、碑学派の掉尾を飾る呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)の作品が部屋のあちこちに展示されています。なぜ、ここに呉昌碩の作品があるのでしょう?それは、朝倉文夫が呉昌碩の像を制作したことに由来します。
朝倉は、生涯において400点ほどの肖像彫刻を制作しています。若い頃から名声を博していた朝倉は、大隈重信、犬養毅、渋沢栄一、市川団十郎、尾上菊五郎など、日本の著名な政治家や実業家、役者など、著名人の像を数多く制作していますが、その中で2点だけ中国人の像があります。呉昌碩と、京劇の大スター梅蘭芳(メイランファン)です。2人の像は大正10 年(1921)に制作され、東京の上野竹の台陳列館にて開かれた東台彫塑会第1回展に出品されました。
東台彫塑会 第1回展(右から3番目が呉昌碩像)
朝倉が呉昌碩の像をつくることになったきっかけは、ある日本人の仲介により、呉昌碩と朝倉文夫との間で作品交換の話が持ち上がったことからでした。これには呉昌碩も大いに乗り気になって、まず呉昌碩から「老松図(ろうしょうず)」(図1)と「臨石鼓文(りんせっこぶん)」(図2)を朝倉に贈ります。2点とも呉昌碩77歳の近作で、特に画に関しては多数の作品から選んだ自信作だったようです。
図1 老松図軸 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国13年(1924) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間終了)
図2 臨石鼓文額 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国9年(1920) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
さて今度は、朝倉が呉昌碩に作品を贈る番です。朝倉は肖像彫刻を制作する際、対象となる人物に直接会うことを心掛けていますが、海のむこうにいる呉昌碩との対面は叶いませんでした。
そこで朝倉は、先方に写真を送ってもらうことにします。写真の依頼を受けた呉昌碩は、前・後・左・右から撮影した4枚の写真を朝倉に送りました。朝倉は、その写真を見て呉昌碩の姿かたちを可能な限り再現し、また書画作品から感じた呉昌碩の印象なども加味しつつ、像を仕上げていったと想像できます。
完成した呉昌碩像は、展覧会の出品後、船便で本人のもとに届けられました。像を受け取った呉昌碩の感激ぶりは、めりはりのきいた流麗な行草体で自身の思いを綿々と綴った書簡からも十分に伝わってきますね(図3)。
図3 朝倉文夫宛書簡 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
書簡の最後には、作品2点を一緒に送ったことが書かれています。その書画が、朝倉への為書きがある「竹石図(ちくせきず)」(図4)と「篆書神在箇中(てんしょしんざいこちゅう)」(図5)です。
落款の年号を見ると、像を受け取るや否や、すぐさま返礼の意を込めてこの2作を制作したことがわかります。
図4 竹石図軸 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間終了)
図5 篆書神在箇中額 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
呉昌碩は、初代社長をつとめた篆刻の研究機関である杭州の西泠印社(せいれいいんしゃ)に朝倉制作の像を置きました。弟子たちとともに西泠印社を散策するとき、呉昌碩はこの像の鋳造技術の高さを称え、弟子たちにも習練を積むことの大切さを諭していたそうです。
しかしその後、1966年に始まった文化大革命で、この像は惜しくも亡佚してしまいます。朝倉のもとには石膏原型がありましたが、これも関東大震災で壊れ、現在はその破損部分が収蔵されています(図6)。
図6 呉昌碩像原型(破損像残部) 朝倉文夫作 日本 大正10 年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
朝倉は、呉昌碩像の制作のやりとりで呉昌碩の書画を4点手に入れていますが、これを機にファンになり、以後自ら呉昌碩作品を収集しています。また朝倉は、呉昌碩の流れを汲むものとして、王一亭(おういってい、1867~1938)の作品(図7)や、孫松(そんしょう、1882~1962)の作品(図8)なども収集し、中国書画コレクションのより一層の充実化を図っています。
図7 書画扇面額 王一亭筆 中国 中華民国時代
画は民国17年(1928)、書は民国18年(1929) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:11月19日(火)~12月8日(日)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
図8 墨梅図 孫松筆 中国 中華民国時代・民国15年(1926) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:12月10日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
朝倉の自宅の各部屋には、呉昌碩の作品がいくつも飾られていました。呉昌碩が朝倉制作の像を見せ、弟子たちを励ましていたように、朝倉もまた呉昌碩の書画を生活のなかに溶け込ませることで、自らの創作意欲を刺激しようとしていたのかもしれません。とまれ、呉昌碩書画に対する傾倒が、朝倉の彫刻家としての営為に少なからぬ影響を与えていたことだけは間違いなさそうです。
特集陳列「清時代の書 ―碑学派―」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、平成館企画展示室)
特別展「清時代の書― 碑学派 ― 鄧石如生誕270年記念」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、台東区立書道博物館)
リニューアルオープン記念展示「第Ⅰ期:朝倉文夫 交流の書画」 (2013年10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館)
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
| 記事URL |
posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2013年11月28日 (木)