特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」 第1部 明治の人と書
小学校の社会科でとりあげられる明治時代の人物をごぞんじでしょうか。
勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、明治天皇、福沢諭吉、大隈重信、板垣退助、伊藤博文、陸奥宗光、東郷平八郎、小村寿太郎、野口英世に、明治時代ではありませんが、近代へのきっかけを作った人物としてアメリカの海軍軍人ペリーをあわせて14人について、多くの小学校6年生が学習しています。
今回の特集「書と絵が語る明治」(2018年7月10日(火)~9月2日(日))では、このうち下線を引いた5人の筆跡を本館 特別1室で展示しています。
勝海舟は、江戸幕府の旗本の家に生まれ、青年時代にオランダ語(蘭学)を学んだことから幕府の中で頭角を現し、西洋式の海軍を創設しました。戊辰戦争では敗色濃厚な幕府の代表者として、江戸に迫る新政府軍との交渉にのぞみました。展示している詩は、その折の心のうちを詠んだもので、危機に対応できない幕府の役人に対する怒りと時代の流れにはさからえないというあきらめの気持ちがあらわれています。
この時、新政府軍を代表して勝と話し合い、江戸の開城を導いたのが西郷隆盛であることは、よく知られています。西郷は薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。開明的な藩主島津斉彬に仕えて、当時の世界情勢に目を開かれますが、斉彬が死去した後に藩の実権を握った島津久光に憎まれて、二度にわたり流刑の目にあいます。この時期の苦労も影響したのでしょう、体面を飾らず、私心のない西郷の人柄に心服する者は多く、後に西南戦争で敵味方となった政府軍の軍歌「抜刀隊」でさえ「我は官軍、我が敵は天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たる者は古今無双の英雄で」と歌うほどでした。
「敬天愛人」は西郷の思想を表わす言葉として有名で、西郷自身の筆跡もいくつか残されています。今回の展示品は昭和14年(1939)に西郷の甥(隆盛の弟従道の次男)である侯爵西郷従徳氏から東京帝室博物館に寄贈されたものです。
額字「敬天愛人」 西郷隆盛筆 明治時代・19世紀 西郷従徳氏寄贈
大久保利通は西郷より2歳年下ですが、鹿児島城下のとても近い場所で生まれました。幕末には西郷とは逆に、島津久光の下で京都や江戸の政治に関わり、新政府を立ち上げるのに大きな役割を果たしました。維新後は常に政権の中心にあって、出発したばかりの近代国家日本が当時の世界の中で生き延びてゆくための外交と、国を豊かにするための産業の振興に力を注ぎました。
展示している漢詩は、明治7年(1874)に起こった台湾での琉球人殺害事件とその後の日本から台湾への出兵をめぐる外交交渉で清国に派遣された大久保が、交渉が妥結した後に詠んだもので、中国製の紙に書かれています。新国家を興そうとして十年、隣国との友好と内政の安定を願う気持ちが述べられています。
七言絶句 大久保利通筆 江戸~明治時代・19世紀 馬嶌瑞園氏寄贈
明治4年冬、右大臣岩倉具視を正使(団長)とする外交使節団が横浜を出発してアメリカに向かいました。この時の副使として大久保、木戸孝允、伊藤博文が同行していました。全部で100名以上が参加したこの使節団は米国とヨーロッパ各国を巡り、最新の近代文明に大きな衝撃を受けて明治6年に帰国しました。
この時のメンバーたちの経験は、その後の日本の政治や経済、文化などに大きな影響を与え、後に「岩倉使節団」と呼ばれました。
蒸気船のスケッチが珍しい2枚の書。上は木戸孝允(桂小五郎)が、下は木戸と同郷の官僚で書家としても知られた杉孫七郎(聴雨)が書いたものです。木戸の漢詩は岩倉使節団の帰国の際、郷里の「馬関山」(関門海峡)を望んだ際に詠んだ作で、「火輪は矢の如く波を截りて還る」(蒸気船は矢のように波を切り裂いて国に帰ってきた)という一句が新しい時代を示しています。
伊藤博文は西郷、大久保、木戸といった第一世代の政治家たちが世を去った後、長い期間にわたって政府を支えました。伊藤は「春畝」という優雅な号を持ち、漢詩や和歌も上手でした。書は少し無骨なふんいきがありますが、個性的です。
展示作品は明治30年に金沢(横浜市)にあった別邸で詠んだ詩を書いたものです。現在、横浜市野島公園の中に建物が復元されています。
七言律詩 伊藤博文筆 明治時代・19世紀
ここに紹介した作品の画像は「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」から利用いただくことができます。特に手続きをとることなく使うことができますので、気に入った作品をSNSで拡散したり、印刷して夏休みの課題に使ったりと、ご自由に活用してください。
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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2018年07月19日 (木)