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国宝五重小塔出品ものがたり

日本国宝展」(2014年10月15日(水)~12月7日(日) 平成館)には、たくさんの方々にご来館いただき、ありがとうございます。
展示作品の中でも注目を集めている、「国宝 元興寺極楽坊五重小塔」(奈良・元興寺蔵)。今回の国宝展に出品される全119件のうち、唯一建造物の国宝です(他はすべて美術工芸品)。この巨大な小塔(というのも変な言い方ですが)が本展覧会に出品されるまでには、いくつかの超えるべきハードルがありました。いかにして五重小塔は東京国立博物館にやってきたのか。そのものがたりを、これからお話したいと思います。

その前に、少々こみいっていますが、五重小塔の国宝指定の歴史を振り返ってみましょう。
この五重小塔が初めて指定文化財となったのは、明治34年(1901)のことでした。同年8月2日付の官報告示には、「古社寺保存法」により「木造五重塔(伝元興寺塔雛形(ひながた))を「国宝ノ資格アルモノト定ム」としています。「古社寺保存法」は明治30年に施行された、文化財保護のための法律です。国宝、重要文化財の別はなく、指定区分はすべて国宝でした。いわゆる「旧国宝」と呼ばれる一群です。なおこの時の種別は建造物ではなく、絵画、彫刻、工芸など美術工芸品の中に列しており、種類は「建築雛形」となっています。旧国宝は昭和25年(1950)の「文化財保護法」により、いったんすべて「重要文化財」となり、その中からより価値高いものが、改めて「国宝」に指定されることとなりました。最初のころは「新国宝」とよばれることもあったそうです。そして五重小塔も昭和27年(1952)3月29日、改めて建造物として「元興寺極楽坊五重小塔」の名称で国宝に指定されることとなったのです。

昭和51年 京都国立博物館「日本国宝展」図録より
昭和51年  京都国立博物館
「日本国宝展」図録より

昨年2013年の春、日本国宝展ワーキンググループが、共催者をまじえ展示作品の検討を行っていた時のこと。グループの田良島(当館調査研究課長)が、「美術工芸品だけでなく、建造物の国宝というのはどうだろうか?」との言葉を発したのがきっかけとなり、元興寺の五重小塔が候補として浮かび上がります。しかし小塔とはいえ高さ5.5メートルの本格的な建築構造物。動かすことなどできるのか、その時点ではまったく半信半疑でした。調べを進めると、この五重小塔は明治40年~昭和40年(1907-65)までは奈良国立博物館に寄託展示されていたこと、昭和42年1月~43年9月までの21か月間で、国庫補助事業として本格解体修理が実施されたこと、昭和51年(1976)には、京都国立博物館の「日本国宝展」に出品されていたことなどが判明したのです。「これはいけるのでは?」ワーキングと共催者の間には、出品を前向きに進めていこうという機運が次第に高まっていきました。

 
辻村泰善ご住職
辻村泰善住職
(写真提供:元興寺文化財研究所)

とはいえ、当然のことながら所蔵者のご意向が最も重要です。夏まっ盛りの8月8日、共催者の方々とともに、元興寺の辻村泰善(つじむらたいぜん)住職を訪ねました。今回の日本国宝展が祈りと信仰をテーマとしていること、元興寺の五重小塔はそのテーマにふさわしく、また美術工芸品だけでなく本格的な建造物の国宝指定品を展示することで、展覧会の奥深さをお伝えしたいことなどをお話させていただきました。元興寺には「公益財団法人元興寺文化財研究所」があり、多くのスタッフによって、国宝や重要文化財を含む日本全国の文化財の保存修理や調査研究が行われています。辻村住職はその理事長を務めてもおられます。永い歴史を有し世界遺産「古都奈良の文化財」のひとつにも数えられる元興寺のご住職であるとともに、文化財の重要性と保存にも深く通じておられるからこそ、展覧会の趣旨とご出品の意義を積極的にご理解いただけたのだと思います。このことは私たちにとって、大きな幸運でありました。これ以降、文化財研究所の研究員の方と、具体的にどのように進めていくかの検討が繰り返されることとなりました。 

解体作業は、奈良や京都はもちろん全国の社寺の解体修理や建造を行っている(株)瀧川寺社建築にお願いするということになりました。ここに大きな幸運その2が。瀧川伸社長のお父上の昭雄氏は、なんと昭和42~43年の解体修理の際、奈良県教育委員会文化財保存事務所の技能員として関わっておられ、当時のことをよくご存じであったのです。


一方で国宝の建造物を展覧会に出品するということに対し、奈良市や奈良県の教育委員会の文化財保護担当、そして国(文化庁)の建造物担当にも、ご理解をいただかなければなりません。関係者と協議を進め、国に対して「国宝の現状変更」を申請するということになりました。小塔といえど建造物の国宝。建造物は美術工芸品と違って「不動産」であるため、展覧会に出品するという行為が現状変更に当たるという考え方です。担当者とのやりとりを繰り返し、解体、梱包、輸送、展示の計画書やタイムテーブル、画像などを揃えて書類を整え、元興寺から奈良市、奈良県を経由し文化庁に申請書類が提出されました。この案件が国の審議会に諮られ、今年3月15日文部科学大臣への答申で、日本国宝展の出品にかかる現状変更が許可されたのです。関係者一同ひとまずホッとするも、本当の仕事はこれからです。


瀧川寺社建築による解体
瀧川寺社建築による解体

展示に先立ち、今年の4月6日~11日の日程で、解体の予行演習を兼ねた状態調査と彩色の剥落止め処置が行われました。解体を行うのは、瀧川寺社建築の若き宮大工さんたち。私もかつて文化庁の調査官として、国宝や重要文化財の修理に関わり、いろんな技術者や職人の方をみてきましたが、宮大工さんとの仕事は初めてのこと。そのキビキビした動きや段取りのうまさに、舌を巻くといった感じ。しかもイケメンぞろいなのです!瀧川社長はたいへんに明るく、人を笑かそうとするサービス精神にあふれた方なのですが、職人を惹きつけ、名工に育てていく人徳と裁量を強く感じました。一方で彩色の剥落止めは、全国の文化財保存修復を手がける元興寺文化財研究所の、まさに本領発揮といったところ。湯せんでといたニカワを、彩色の浮いた部分に、筆で丁寧に差していきます。同時にホコリを払い、クリーニングを行いました。
 


彩色の剥落止め、クリーニング(元興寺文化財研究所)

昭和修理の際の修理報告書などによって、すでに予想されていたことではありますが、五重小塔は頂部の相輪(そうりん)、心柱(しんばしら)、5~1層と、大きく7つのパーツに解体でき、それらのパーツは釘などで緊結されていない(つまり置き重ねてあるだけ)ことが、改めて確認されました。これは奈良時代など古い建造物の特色でもあります。とはいえ「国宝」。常に張りつめた緊張の中、慎重の上にも慎重を期して、作業は行われました。

5層、4層
(左)5層、4層 (右)5層、4層を外したところ 中央に心柱が立つ

 

展覧会開幕を控えた9月末、ふたたび足場が組まれ、瀧川寺社建築のイケメン集団によって解体が始まります。解体された部材は厳重に梱包され、輸送トラックによって東京まで搬送されます。そしてここでも研究所の誇るハイテク文化財輸送専用車、「シバラ」1号、2号が大活躍です。文化財を安全に運ぶためには、温湿度管理や振動を抑える仕様の輸送車が不可欠。(ちなみにシバラとは、観音菩薩(観自在菩薩・観世音菩薩)のサンスクリット語、アバロキテシバラからとったもので、妙(たえ)なる観察 妙なる音声という意味)修理と輸送、元興寺文化財研究所の存在は、まことに大きな幸運その3でありました。

 
(左)元興寺収蔵庫で再び解体 左が瀧川伸社長 (右)平成館での組み上げ


輸送後、平成館の特別展会場には再び足場が組まれ、免震台の上に五重小塔が組まれていきます。足場の設置から解体に約4日、組み上げにまた4日。作品や資材の運搬、会場の養生、後かたづけを含め、元興寺での解体から平成館での設置に、ほぼ2週間を要したことになります。この会場で展示された作品としては、これまでで最大級のものの一つではないでしょうか。その威容に見とれてしまいます。


平成館での五重小塔展示作業の様子


国宝 元興寺極楽坊五重小塔を日本国宝展に展示するにあたっては、これまで見たように、いくつかの大きな幸運がありました。しかしやはり、元興寺様はじめ多くの方々のご理解とご協力の上に出品がかなったことを忘れてはなりません。会期を無事に終え、元興寺様にきちんとお返しするまで、気を抜かずに務めたいと思っています。


瀧川寺社建築のみなさんと
(後列中央より右に)瀧川伸社長、雨森久晃元興寺文化財研究所研究員、田中泉奈良県文化財保護課調整員、筆者
(前列左)金井裕子当館特別展室研究員

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2014年11月21日 (金)