平常展調整室の三笠です。
現在、東洋館5室にて特集「白磁の誕生と展開」(~4月21日(日))を開催中です。
これに関連して、1月12日(土)に展示企画・出品のご協力をいただきました常盤山文庫の佐藤サアラ氏(当館客員研究員)をお招きして、月例講演会を行ないました。
まだ新年明けて間もなく、とても寒い日だったにもかかわらず、沢山のお客様にお運びいただき、盛況な会となりました。ありがとうございました。
佐藤サアラ氏講演風景
ここで、「白磁」についておさらいをしておきましょう。
白磁とは、胎土(化粧をする場合もある)に灰を主成分とする釉をかけて高火度で焼きあげてできる白いやきものです。
美しく清潔で、しかも堅牢な白磁は、いまや世界中でひろく使用される器。
それは中国で生まれ、中国から世界へ広まったものです。
では、その始まりはどのような姿だったのでしょうか?
この問題にとり組んだ本特集は、佐藤氏のご研究に基づいています。
画期的な成果は、“白磁の始まり”に位置づけられる隋~初唐の資料を中国古墓発掘報告に基づき整理した結果、たとえば横河コレクションの「白磁杯」(TG-646)のように、かつて「唐白磁」と考えられた一部の作品の制作年代がさかのぼるなど、短命王朝であった隋とそれに続く初唐までの100年余のあいだに現れた白磁の初期的様相が把握できるようになったことです。
白磁杯 隋・7世紀 東京国立博物館 横河民輔氏寄贈
この作品は陶磁研究家の小山冨士夫(1900~75)も愛した逸品。薄づくりで精緻な形に魅了されます。今回の研究で、この形式の杯が隋末のごく限られた時期の、ごく限られた地域でしか出土していないことがわかりました。
白磁天鶏壺 隋・6~7世紀 常盤山文庫
4世紀頃、江南において青磁でつくられていたいわゆる天鶏壺ですが、隋になって華北地方において白磁でつくられるようになります。不思議な形をしたこの器の用途は、いまのところよくわかっていません。釉の青みが強く、青磁とも見える作例です。つまり、灰を主成分とする釉がかかった高火度焼成の青磁の土や釉から不純物を取り除くと白磁ができる。白磁が青磁生産の流れのなかで始まったことを教えてくれます。
重要文化財 白磁鳳首瓶 初唐・7世紀 TG-645 横河民輔氏寄贈
同上 蓋を外した姿
トーハク中国陶磁コレクションの顔ともいうべき名品。ガラスを写したのか、金属器を写したのか、はっきりとした祖形は現在のところ見いだせていません。その形の特殊性をじっくりとご覧いただくために、今回はあえて蓋を外して展示しています。
なぜ、隋において白磁がつくられたのか、その具体的な生産動機はよくわかっていません。しかし、隋の貴人墓の副葬品をみると「白」を強く志向している様子がみとめられます。
隋・開皇15年(595)没 河南省安陽張盛墓出土品(2009年河南省博物院にて筆者撮影)
ご記憶の方も多いと思いますが、一部が2010年の特別展「誕生!中国文明」に出品されました。なかには釉のかかっていない土製のものもありますが、俑やミニチュアの明器など多くが白磁でした。
このような不思議な隋~初唐の白磁はその後どのように姿を変えていったのでしょうか。
そして、白磁はその後どのように中国から世界へ羽ばたいていったのでしょうか。
つづきは、東洋館5室「中国の陶磁」のコーナーも合わせて、展示室でぜひご覧ください!
もっと詳しく知りたいという方は、常盤山文庫発行の『常盤山文庫中国陶磁研究会 会報7 初期白磁』をオススメいたします(東洋館ミュージアムショップで販売中)。
これであなたも白磁の世界にどっぷり浸かることができます。
ところで。
先日、今夏に東博で開催予定の特別展「三国志」(2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝))の報道発表が行われました。
日本でも大人気の三国志。
登場人物のなかでも欠かすことのできない英傑、曹操(155~220)の墓が近年河南省安陽で発見され、その副葬品に含まれていた「世界最古?」の白磁罐がやってくる、と大きなニュースになったことは皆さまのご記憶にも新しいところではないでしょうか。
え?世界最古?
三国時代の白磁?
うそでしょー、
あの写真、白く見えないし。
と思った方もたくさんいらっしゃったはず。
我々トーハクのスタッフのあいだでも、当初疑問の声が上がりました。
2016年に刊行された発掘報告書でも白磁(白瓷)とされていたものですが、昨年末に河南省文物考古研究院において調査を実施し、灰を主成分とする釉をかけて高火度で焼きあげた白いやきもの、つまり白磁であることを確認しました。
2018年12月の調査風景(河南省文物考古研究院にて潘偉斌先生、陳彦堂先生、市元研究員と)
この罐が3世紀頃につくられたであろうことは、当時普及していた耳付罐との器形の類似性からうかがうことができ、青磁を生産する技術に基づいて突発的に白磁ができても不思議ではないのですが、「三国時代に白磁が始まった」という確証には至っていません。
曹操が白いやきものを愛し、つくらせたのか…? と想像は膨らみますが、そうした背景を決定づけるものが魏の貴人墓からまだ見つかっていないうえ、これに続く三国時代以降の白磁は6世紀まで確認されていないのです。
曹操墓出土品の白磁罐は、まだ多くの謎に包まれています。
今後、三国時代の古墓の発掘がさらに進み、関連資料の発見が望まれるところです。
というわけで、夏を楽しみに待ちながら、まずは東洋館で白磁の誕生と展開について一緒に予習いたしましょう!
カテゴリ:特集・特別公開、2019年度の特別展
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posted by 三笠景子(平常展調整室主任研究員) at 2019年02月26日 (火)
こんにちは。
本館特別1室・特別2室で開催中の特集「上杉家伝来の能面・能装束」はご覧いただけましたか?
担当しました川岸です。
トーハクのある職員に、どうして能面の解説には「表現が形式化している」「迫力がない」などネガティブなことを書くのか、と聞かれたことがあります。
確かに、欠点をさがしている意地悪な解説に思えるかもしれませんね。
でも、じつはこれがとっても大切なポイントなんです。
能面には古い能面の特徴を、傷なども含めて写し取るという「写し」の文化があります。
きっと大名たちが欲しがったのでしょう。有名な能面はたくさんの写しが作られ、各地に伝来しています。
ところが似せようとした結果なのか、写しを写したためか、あるいはそのほうが使いやすいためか、元の能面にはあった自然な表情、彫りの鋭さなどの独創性が失われてしまうことが少なくありません。
その結果、形式化したり、迫力がかけたりしてしまうのです。
能面の系譜や作られた経緯、時代、作者などを考えるには重要なことで、ネガティブな解説もただ悪口を言っているのではないのです。
ということを踏まえたうえで、今日は上杉家伝来の能面と、東京国立博物館所蔵のほかの能面を比べることで見えることについてご紹介したいと思います。
まずはこちらのふたつの能面をご覧ください。
能面 天神 「福来作」銘 上杉家伝来 江戸時代・18世紀 (特集「上杉家伝来の能面・能装束」で展示中)
能面 天神 「出目洞水」焼印 江戸時代・17世紀 (こちらは展示していません)
どちらも菅原道真役、神の役などに用いる天神面。
顔かたち、耳の表現… よく似ていると思いませんか?
上が上杉家伝来の面で、裏に室町時代の面打(能面作家)福来の作だと書かれています。しかしこの銘は後世のものと思われます。同じ筆跡の銘がある能面が上杉家にはいくつかあるので、おそらく上杉家の所蔵となった後に書き加えられたのでしょう。
一方、下の裏には江戸時代中期の面打「出目洞水」の焼印があります。
多くの天神を作る中で、省略したり強調したりすべき点を整理した「型」があって、それに基づいて作られたように見えます。
作者は同じか、近い人物なのかもしれません。
一方、こちらの天神面はどうでしょうか。
重要文化財 能面 大天神 金春家伝来 室町時代・15世紀 (こちらは展示していません)
金春家に伝来した大天神。室町時代15世紀の作
上杉家伝来の能面とは似ていませんね。
同じ天神の面でも異なる系統のものがあることがわかります。
頬の盛り上がり、眉間の皺など、今にも動き出しそうな、触ったら柔らかいかもしれないと思わせるような表現で、耳の彫り方もよりリアル。
「型」をもとに作ったのではなく、「型」ができる前の自由な造形に見えます。
この金春家伝来面と比べると、上杉家伝来面、洞水の焼印のある面は、室町時代の作とは言い難いのです。
こんな風に比べながら、考えながら、能面と向き合っています。
この特集でご覧いただいただけるのは能面だけではありません。
展示室でも目を引く豪華な金唐織は、4代藩主綱憲、8代藩主重定が誂えさせたのでしょう。
彼らはそれぞれに能に傾倒して財を投じ、それは藩の財政を悪化させる一因でもあったといいます。
困窮する米沢藩。その裏で藩主たちが収集し、大切に受け継いできた能面・能装束。
じっくり見てみると、比べてみるとわかることがまだまだあります。
ぜひ展示室で向き合ってみてください。皆さんにはどんな風に見えるでしょうか。
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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2019年02月16日 (土)
世界の国からこんにちは―北米・欧州ミュージアム日本美術専門家連携・交流事業レポート
調査研究課の今井です。去る1月15日から19日まで開催された「北米・欧州ミュージアム日本美術専門家連携・交流事業」をレポートします。
当事業はアメリカ、カナダおよびヨーロッパのミュージアムの日本美術専門家を日本にお招きし、各館が抱える課題の共有と情報交換、そして人的ネットワークの構築を目的とするもので、今年で5回目になります。
初日は東京国立博物館にてまず、反物に見立てた細長い和紙をきものの形に仕立て、きものの構造を学ぶワークショップ、そしてきものの畳み方、桐箱の扱い方の実習をしたのち、東京文化財研究所にて同研究所の歴史と役割について学びました。
2日目と3日目は、金沢へエクスカーションです。
石川県立美術館の文化財修理所の見学、金沢能楽美術館での能楽体験、加賀友禅の工房の見学など盛りだくさんです。
もちろん兼六園も訪れました。
4日目は再び東京に戻り、国際シンポジウム「世界の中の日本美術―オリエンタリズム・オクシデンタリズムを超えた日本理解―」です。
ずいぶん難解なテーマですね(私が考えたのですが)。
平たく言えば、誤解や偏見、あるいは単なる自己賛美に陥らずに、どのように日本美術を伝えるかということです。
海外から4名、そして私が発表し、パネルディスカッションが行われました。
内容は大変刺激的なものでした。
たとえば、「トランスカルチャー研究」という概念が提示されました。
これは、従来形の異文化研究「インターカルチャー」では、異文化間の勢力の構図を克服できないという反省にたち、異文化との遭遇を通して対話と解釈を継続的に行うことにより、複数の文化の間で共有される経験と価値観に着目する視点です。
最終日は専門家会議とフィードバックセッションです。
午前中の専門家会議では、外国人来館者の増加に対応するための多言語での解説パネルのあり方などについて討議されました。
午後のフィードバックセッションでは、「もっと多くの人に発言の機会を与えるべきだ」「アジアのミュージアムの代表も加えるべきだ」といった、前向きの発言が多く聞かれました。
本事業の参加者の間で、所蔵する日本美術作品の共同調査の計画もさっそく持ち上がっていると聞いています。
国外の日本美術研究者との交流が深まり、また日本人自身が日本美術について深く考える機会となった有意義な5日間でした。
カテゴリ:news
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posted by 今井敦(調査研究課長) at 2019年02月15日 (金)
着物を着かえて 帯しめて
今日は私も 晴れ姿
春の弥生の このよき日
なにより嬉しい ひな祭り
都内は寒さ厳しい日々が続いておりますが、トーハクでは一足早く恒例の特集「おひなさまと日本の人形」(本館14室、~2019年3月17日(日))が始まりました。
おひなさまやその御道具を眺める心地は、華やかで楽しいものですが、トーハクでお人形を担当する私としては、毎年展示に苦労する季節でもあります。
企画展示の陳列作業は、だいたい午前中に撤収があり、午後から新しい展示の陳列作業が行われます。
こまごました人形や御道具は、どれも一つ一つ丁寧に包んで収蔵庫に納められていますが、午後の1時から陳列をはじめて、休憩を入れつつ5時には空箱の返却も含め全ての作業が終了していなければなりません。
とても壊れやすい作品を安全に扱いつつ、時間内に終えることができるのか・・・。陳列に携わるスタッフ一同の大変な思いは、おひなさまを展示している全国の美術館・博物館において、担当者共通の思いでしょう。
さて、こうして出来上がった今年の展示は、江戸を代表する金物商であった三谷家(みたにけ)伝来の雛飾りを中心として、御所人形の名品も一堂に集めました。
三谷家の雛飾りの中心は、豪華な御殿に収められた雛人形。牙首雛(げくびびな)というもので、頭部をはじめ、手足など肌を表す部分を象牙で作っています。全国的にも類例が少ないなかで、特にその代表作と言える貴重なお人形です。
牙首雛(内裏雛) 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈
この牙首雛の表情は雛人形には珍しいほど個性的。特に仕丁(しちょう)という役目で庭を掃除しているお爺さんは、顔のシワや手の指の節だった様子などが、わずか身長10センチ程のなかで精緻に表現されており、驚異的とも言える出来映えです。
牙首雛(仕丁) 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈
お雛さまの御殿は、京都御所の正殿である紫宸殿(ししんでん)に倣った造り。
正面の軒下には「紫震殿」の額が掲げられています(「震」の字を使ったのは天皇の住まいを指す「宸」の字に遠慮したからでしょうか)。
紫宸殿(雛用御殿) 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈
江戸時代、京都を中心に関西地方ではこうした紫宸殿に倣う雛御殿が飾られていましたが、江戸の地においては、飾ること自体遠慮されるものだったようです。
それというのも、高価な雛道具が競って作られた江戸後期、安永八年(1779年)に日本橋の十軒店(じっけんだな)に店を開いて以来、江戸一番の売れっ子職人だった初代・原舟月(はら しゅうげつ)は見せしめの意味もあったのか捕らえられ、江戸の地から追放されます。
その時の罪状の一つが紫宸殿に倣った御殿を作ったのが不敬にあたるというものでした。
本質的には関西の雛御殿に倣った飾りを江戸でも売り出したというだけの話で、全くの言い掛かりですが、その後江戸では紫宸殿型の雛御殿は見られないようになります。
しかし、三谷家の雛飾りにあっては、堂々と御殿に「紫震殿」と掲げられています。そこには三谷家の持った社会的力の強さが表れているのではないでしょうか。
展示室中央の独立ケースには、三谷家伝来の紫檀象牙細工蒔絵雛道具(したんぞうげざいくまきえひなどうぐ)を展示しています。高価な材料を駆使して緻密に造り上げた作品であり、トーハクの雛人形コレクションを代表する雛道具です。
紫檀象牙細工蒔絵雛道具 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈
金物を表す部分は象牙で出来ているのですが、長持の四隅の部分など、丸みのある形に添うようピシッと収められており、さすがの出来映えと感心します。
今回は箪笥の扉を開いた状態で展示しましたので、中の引き出しに施された蒔絵にもご注目ください。そこには婚礼を象徴するは蝶々が舞い遊ぶという華やかさで、粋な遊び心を見ることができます。
また今回は、日本の人形文化を代表する作品として、御所人形(ごしょにんぎょう)を展示しました。
御所人形は京都の御所を中心として、公家(くげ)や大名家(だいみょうけ)などの間で好まれた人形です。宮中では、ご下賜(かし)をはじめとした贈答に用いられたため、お土産人形とも呼ばれています。まるまると肥えた男の幼児を表しており、胡粉(ごふん)を塗って作られた肌は白く艶やかに輝いています。
枕草子に「ちごどもなどは、肥えたるよし」とあるように、健康的に育つ赤ん坊の姿はめでたさに溢れています。こうした吉祥性を高めるため、御所人形にはさまざまな意味を持つ見立てが行われました。
その代表が能の見立てで、今回は「羽衣」に取材した天女の姿と思われる御所人形と、「鶴亀」の御所人形を展示しています。
どちらも高さが70センチ程もある超大型のお人形で、大名家の雛飾りなどでも、こうした人形が活躍しました。
御所人形 見立て鶴亀 江戸時代・19世紀
※この写真はトーハクにある九条館の床の間で撮影したものです。
「鶴亀」は、春を迎えた唐の宮廷で、皇帝の長寿を祈って鶴と亀が舞い踊り、これに感じ入った帝も踊りだすというお目出度い演目です。
見立て鶴亀の御所人形は、手足を動かしてポーズをとらせることが出来るので、今回の展示では、実際に踊っているような姿にしましたのでご注目ください。
日本は諸外国では全く例を見ないほど、人形制作を芸術に高める文化が発達しました。
本来子供の遊び相手である人形の制作に大変な手間隙をかけ、気品高く可愛さを表現してきた歴史は、今日国際的にも用いられる「カワイイ」という美的価値観の源流をなすものでしょう。
おひなさま巡りが盛んとなるこれからの季節、是非トーハクにも江戸時代の「カワイイ」に会いに来てください。
特集 おひなさまと日本の人形 本館 14室 2019年2月5日(火) ~ 2019年3月17日(日) |
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posted by 三田覚之(工芸室研究員) at 2019年02月13日 (水)
年明けに始まった特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」も、気がつくといつのまにか折り返し地点を過ぎていました。連日多くのお客様にお越しいただいておりまして、関係者一同、心より御礼を申し上げる次第です。
開幕前は、「顔真卿って、誰っ!?」という状態で、はたしてどれくらいの人が展覧会を観に来てくださるのだろうかと、不安でいっぱいでした。
もちろん、展覧会の構成は顔真卿だけでなく、中国の書の歴史そのものを概観しつつ、顔真卿が生きた唐時代の書をたっぷりと紹介し、さらに唐時代の書が日本や後世に与えた影響も考えてみようという、壮大なスケールで準備をしてきました。
書は基本的に紙の白と墨の黒のモノトーンで繰り広げられる二次元の地味な世界です。そのハンディを克服すべく、本展は、書の歴史上もっとも華やかな唐時代に重きを置き、展示作品数も唐時代の書を充実させました(選んだ作品が多すぎてケースに入りきれず、泣く泣くあきらめたものも多々ありましたが…)。
今回のブログでは、展覧会のキモである唐時代の書のなかから、チラシやホームページにはない、かくれたみどころをご紹介しようと思います。
王羲之の字姿のデパート
集王聖教序-孔氏嶽雪楼本- 王羲之筆
唐時代・咸亨3年(672) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)
唐時代の書は、太宗皇帝による王羲之崇拝と深い関係があります。
集王聖教序は、懐仁という弘福寺の僧が太宗より命じられ、宮中に所蔵される王羲之の真筆から文字を集めてつくった石碑です。王羲之の字姿を豊富に見ることができるので、手本としても尊ばれました。
本作は、清時代の収蔵家である孔広陶(1832~1890)の旧蔵品で、宋時代の貴重な拓本です。
香港中文大学文物館には、北山堂の堂名で知られる利栄森(1915~2007)の膨大なコレクションが収蔵されており、拓本だけでも2000件以上にのぼります。その中から特に優品10件を精選して「北山十宝」と名付けました。
今回、香港中文大学文物館よりお借りした4件は全て「北山十宝」の名品であり、もちろん、どれも初来日です!
ようこそ、日本へ!
九成宮醴泉銘-汪氏孝経堂本- 欧陽詢筆
唐時代・貞観6年(632) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)
李思訓碑-呉栄光蔵本- 李邕筆
唐時代・開元28年(740) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)
麻姑仙壇記-何紹基蔵本- 顔真卿筆
唐時代・大暦6年(771) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)
褚遂良の美のツボをおさえてます
金剛般若波羅蜜経残巻
唐時代・7世紀 三井記念美術館(2月13日より展示)
中国書道史は、100年ほど前まで拓本や模本を中心に編まれてきました。しかし20世紀初頭、敦煌莫高窟の第17窟から5~10世紀に至る肉筆の写本が大量に発見されたことで、隷書や楷書の変遷がつぶさに観察できるようになりました。
今回注目すべき唐時代の書のウリの一つがこの肉筆写本であり、美しい楷書の姿には本当に心を奪われます。
本作は、671年から677年頃の唐高宗の時代に、宮中の優秀なエリート写経生らによって書写された「長安宮廷写経」とよばれる経巻です。「長安宮廷写経」は、世に30点余りしか現存しません。
筆致や書風はもちろん、紙や墨にいたるまで、あらゆる点において最高の出来栄えを誇ります。書風は麗しく雅であり、張りのある線質で、晩年における褚遂良の艶やかな書の影響がうかがえます。
王羲之たちのゴシップあります
国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽-
唐時代・7世紀 東京国立博物館(2月13日より展示)
唐時代は、敦煌莫高窟で発見された写本のほかに、遣唐使らによって日本に将来された写本があります。端正で美しく、力強い筆致で書かれた本作は、『世説新語』の名で知られる書物で、後漢時代の末から東晋時代にかけて活躍した名士のゴシップを集めたものです(今でいう週刊誌ネタのようなもの)。中には王羲之やその一族たちがやり玉に挙げられている内容も収録されています。いつの時代も有名人は苦労が絶えません…。
紙背には、平安時代末期の『金剛頂蓮花部心念誦儀軌』が書写されています。
日本への伝来の古さを物語っていると同時に、本作がいつしか日本でリサイクル紙として使われたことがわかります。平安時代の貴重な筆跡とともに、世説新書の残巻は我が国で大切に保存されてきました。
受験生の諸君、健闘をいのる
干禄字書 顔真卿筆
唐時代・大暦9年(774) 台東区立書道博物館
受験シーズン、まっさかり。受験生のみなさんは、毎日重圧に耐えながら一生懸命勉強をされていることと思います。
中国でも、官僚になるためには科挙という大変難しい試験を受けなければなりませんでした。
この干禄字書は、科挙の答案に用いるべき正しい字形を示した字書であり、受験生の必須アイテムでした。干禄とは、禄をもとめる、つまり官に仕えるという意味です。
顔真卿の叔父である顔元孫が著し、顔真卿が66歳の時に書写しました。字書の内容はもちろんのこと、顔法で書かれた楷書もまた後世に大きな影響を与えました。
さすがに科挙の受験バイブルとあって、石碑の拓本をとる人たちがあとを絶たず、この拓本からも碑面の文字が摩滅している状態がよくわかります。
さて、ほんの少しだけ唐時代の書をご紹介いたしましたが、まだまだみどころは語り尽くせません。
今回の展示総数177件のうち、唐時代の書は106件あります。海外からは8件お借りし、国内の所蔵作品は98件展示されています。
百聞は一見にしかず。ぜひ会場で、唐時代の書の魅力を感じてみてください!
関連展示
特別展「王羲之書法の残影ー唐時代への道程ー」2019年3月3日(日)まで
東京国立博物館東洋館8室、台東区立書道博物館にて絶賛開催中!
カテゴリ:研究員のイチオシ、中国の絵画・書跡、2018年度の特別展
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2019年02月12日 (火)