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没後400年 特別展「長谷川等伯」

  • 『国宝 松林図屏風(右隻)長谷川等伯筆東京国立博物館蔵』の画像

    国宝 松林図屏風(右隻)
    長谷川等伯筆
    東京国立博物館蔵

    平成館 特別展示室
    2010年2月23日(火) ~ 2010年3月22日(月・祝)

     水墨画の最高峰 「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」、金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)の至宝「楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)」を描き、あの狩野永徳をも脅かした桃山絵画の巨匠、長谷川等伯(1539~1610)。能登七尾(石川県)に生を受けた等伯は、はじめ「信春(のぶはる)」と名乗り主に仏画を描きました。30代で上洛すると画題を肖像画、花鳥画 などにも拡げています。豊臣秀吉や、千利休らに重用され、一躍時代の寵児となりました。時に精緻に、時に豪放に描きわけられた作品群は、今もなお我々を魅了し続けます。

    本展は、長谷川等伯の幅広い画業を、ほぼ網羅する大回顧展です。郷里七尾で「信春」と名乗った初期の作品から上洛後「等伯」と号して大徳寺をはじめ京都の名刹に揮毫した名品を一挙公開いたします。国宝3件、重要文化財作品約30件、重要美術品1件を含む約80件の桃山の鼓動を伝える作品群と、それを創出した等伯の人間ドラマを没後400年の節目の年にご紹介いたします。

展示作品一覧へ
2010年3月10日(水) 入場者が10万人に達しました。
2010年3月17日(水) 入場者が20万人に達しました。

開催概要
会  期 2010年2月23日(火)~2010年3月22日(月・休)
会  場 東京国立博物館 平成館
開館時間 9:30~17:00 (入館は閉館の30分前まで)
(ただし会期中の金曜日は20:00まで、土・日・祝日は18:00まで開館)

※2010年3月19日(金)~3月22日(月・休)の4日間は、連日20:00まで開館いたします(入館は19:30まで)

QRコード ※展覧会ホームページおよび携帯専用公式サイトで混雑状況をご案内しております。
携帯専用公式サイトは右のQRコードを読み込むか、
URL(http://tohaku400th.jp/mobile/)を入力してご覧ください。

展覧会公式サイトは会期終了時をもって終了いたしました。
休館日 月曜日
※2010年3月22日(月・休)は開館
観覧料金 一般1500円(1300円/1200円)、大学生1200円(1000円/900円)、高校生900円(700円/600円)
中学生以下無料
( )内は前売/20名以上の団体料金
障害者とその介護者一名は無料です。入館の際に障害者手帳などをご提示ください。
前売券は、東京国立博物館 正門観覧券売場(開館日のみ、閉館の30分前まで)のほか、JR上野駅公園口イベント入場券売場(月曜休)、上野公園案内所、電子チケットぴあ(Pコード=688-894)、ローソンチケット(Lコード=37500)、イープラス、CNプレイガイド、セブンイレブン、サークルKサンクス、ファミリーマート、JTB、などの主要プレイガイド、および展覧会公式ホームページ上のオンラインチケットにて2010年2月22日(月)まで販売。前売り券の販売は終了しました。
ペア券(2000円)は、東京国立博物館 正門観覧券売場(開館日のみ、閉館の30分前まで)、JR上野駅公園口イベント入場券売場(月曜休)、上野公園案内所、東急電鉄TOKS、東京メトロ定期券売り場、主要プレイガイド[チケットぴあ(Pコード=688-895)、ローソンチケット(Lコード=37500)、イープラス、CNプレイガイド、セブンイレブン、サークルKサンクス、ファミリーマート、JTBほか]や展覧会公式ホームページ上のオンラインチケットサービスにて、2009年10月14日(水)~2009年12月23日(水・祝)まで販売。ペアチケットの販売は終了しました。
「東京・ミュージアムぐるっとパス」で、当日券一般1500円を1400円(100円割引)でお求めいただけます。正門観覧券売場(窓口)にてお申し出ください。ただし、2009年度版(2010年1月31日まで販売)は、2010年3月31日まで有効です。2010年度版は2010年4月1日より販売いたします。
東京国立博物館キャンパスメンバーズ会員の学生の方は、当日券を1000円(200円割引)でお求めいただけます。正門観覧券売場(窓口)にて、キャンパスメンバーズ会員の学生であることを申し出、学生証をご提示下さい。
特別展「長谷川等伯」会期終了後の2010年3月24日(水)~4月11日(日)まで、本特別展半券を当館正門観覧券売場にてご提示いただければ、当館平常展を半額の割引料金でご覧いただけます。
交  通 JR上野駅公園口・鶯谷駅より徒歩10分
東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分
主  催 東京国立博物館、毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション
後  援 文化庁
特別協賛 大塚家具
協  賛 JR東海、大成建設、日本写真印刷、みずほ銀行
カタログ・音声ガイド 展覧会カタログ(2500円)は、平成館2階会場内、および本館地下ミュージアムショップにて販売しています。音声ガイド(日本語のみ)は500円でご利用いただけます。
お問い合わせ 03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会ホームページ http://www.tohaku400th.jp/
展覧会公式サイトは会期終了時をもって終了いたしました。
関連事業
  記念講演会
第1回
平成館 大講堂 2010年2月27日(土) 13:30~16:00 受付終了
演題:「やまと絵師・長谷川等伯-信春時代の仏画から智積院障壁画へ」
講師:東京国立博物館特別展室長 松嶋 雅人
演題:「信春から等伯へ-新発見の金碧花鳥図屏風を中心に」
講師:京都国立博物館美術室長 山本 英男 氏
第2回
平成館 大講堂 2010年3月6日(土) 13:30~15:00 受付終了
演題:「長谷川等伯の新たな魅力-動物の感性を描く」
講師:出光美術館学芸部長 黒田 泰三 氏
ワークショップ「水墨画に挑戦!~長谷川等伯の筆使いを学ぶ~」
  平成館小講堂 2010年2月28日(日) (1)10:30~12:00 (2)14:00~15:30 受付終了
ワークショップ「屏風体験~松林図屏風を部屋に置いてみよう~」
  応挙館 2010年3月7日(日) (1)11:00~12:00 (2)13:00~14:00 (3)14:30~15:30  受付終了
「長谷川等伯」ジュニアガイド
  児童・生徒のみなさん向けの鑑賞の手引きとして、ジュニアガイドを制作しました。こちらのページからPDFをダウンロードし、プリントアウトしてご活用ください。
巡回予定
京都国立博物館 2010年4月10日(土)~5月9日(日)
* 国宝「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)、国宝「楓図壁貼付」、国宝「松に秋草図屏風」(京都・智積院蔵)は全期間展示。
 
展覧会のみどころ

主な展示作品でたどる等伯の人生
元亀2年(1571)頃
33歳頃
能登の絵仏師、京都へ
 等伯は、戦国大名畠山(はたけやま)家家臣奥村家の子として生まれましたが、染色業を営む長谷川家に養子に入りました。養祖父、養父に絵の手ほどきを受けた等伯は、信春(のぶはる)と名乗り、日蓮宗寺院に関わる仏画を多く描きました。戦乱の時代の中で、画業を続けることが困難となった等伯は、父母を亡くしたことを契機に、30代という決して若くはない年齢で、京都に新たな活躍の場を夢見て上洛しました。
三十番神図  日堯上人像 左: 重要文化財
三十番神図(さんじゅうばんじんず)

長谷川等伯(信春)筆
永禄9年(1566)
富山(高岡市)・大法寺(だいほうじ)蔵

信春時代に描いた仏画のなかでも、とりわけて華麗な色彩が施されています。
大法寺には本作品も含め3幅の仏画が伝わっています。どれも、丹念に細かく描写されており、信春時代の日蓮宗関連の画業の作風が色濃くうかがえます。


右: 重要文化財
日堯上人像(にちぎょうしょうにんぞう)

長谷川等伯(信春)筆
元亀3年(1572)
京都・本法寺(ほんぽうじ)蔵

本法寺の第8世日堯上人が説法する姿を描いています。この作品の署名によって等伯と信春という絵師が同一人物であると確認されました。
等伯は、生家の菩提寺の本山である本法寺の伝手(つて)によって上洛し、京都や堺で活動しました。

花鳥図屏風
花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ)
長谷川等伯(信春)筆
個人蔵

本展覧会にかかわる作品調査によって、等伯の作品であることがわかりました。金碧画(きんぺきが)の花鳥図で、松や藤の花、滝の流れなどが優美に描かれています。松の樹皮や枝ぶり、鳥の描写などから等伯が「信春」と名乗っていた40歳前後の作品とみることができます。智積院の金碧障壁画を描く前から金碧画制作の実績を積んでいたことを示す重要な作品です。
天正17年(1589)
51歳
狩野一門の牙城へ-金毛閣(きんもうかく)天井画
 40代の等伯の京都での活動がどんなものであったか、ほとんどわかっていません。「等伯」の名が最初にあらわれるのは、京都の名刹、大徳寺です。大徳寺では室町時代以来、狩野一族の多くの絵師が障壁画を制作しており、まさに狩野一門の牙城でした。
天正17年(1589)等伯51歳のとき、豊臣秀吉の茶頭・千利休は、大徳寺三門の増築部分を寄進します。その金毛閣二階の天井と柱に等伯は筆を揮ったのです。京都画壇に高らかに等伯の名を知らしめる第一歩でした。
一世一代の賭け-三玄院襖絵
 天正17年(1589)、等伯は大徳寺の塔頭(たっちゅう、歴代住職の隠居所となる子院)、三玄院の襖絵に山水図を揮毫(きごう)しました。実は、この襖絵揮毫には、驚嘆すべき等伯のエピソードが残っています。
等伯は、同院住職の春屋宗園(しゅんおくそうえん)に、法殿に襖絵を描くことを切望していたのですが許されませんでした。そこである日、住職が留守と知った等伯は無断で部屋に駆け上がり、一気呵成に見事な山水図を描ききってしまったといいます。  一見、無謀ともいえるこの行動が吉と出て、南禅寺、妙心寺など大寺院の障壁画制作につながっていきました。
山水図襖
重要文化財
山水図襖(さんすいずふすま)

長谷川等伯筆
天正17年(1589)
京都・圓徳院(えんとくいん)蔵

もとは大徳寺三玄院(さんげんいん)の室内を飾っていた障壁画です。等伯は同年に大徳寺三門-金毛閣(きんもうかく)の天井画、柱絵も手掛けています。等伯が京都画壇に確かな地盤を築きはじめたころの作品です。
中国名画に学び、自らのスタイルを模索しつつ描いた樹木や空気の描写には、後の代表作「松林図屏風」につながる水墨表現の萌芽がみられます。桐紋(きりもん)を散らした唐紙(からかみ)に描かれた珍しい水墨画です。
天正18年(1590)
52歳
永徳との対決-御所の障壁画
 狩野永徳は名門狩野家の長子に生まれ、幼くしてその才能を開花させました。等伯より4歳年少の画壇の覇者は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、さらに宮中の貴族にも密接にかかわって、さまざまな殿舎の障壁画に筆を揮(と)っていました。一方の等伯は、30代で遅咲きの上洛を果たし、大寺院の住職、町衆や武将など京都の有力者たちと交わり、画業の修養を積んでいました。
この二人が直接対決したのは、天正18年(1590)、御所造営に際して対屋(たいのや)の障壁画制作を巡ってのことでした。一度は等伯の運動が功を奏して襖絵揮毫の受注を得ましたが、永徳とその子、光信が宮中に申し出たことで阻止されてしまいます。等伯一派の勢力が狩野一門に伯仲(はくちゅう)しつつあった証となる事件でした。
この後、等伯は秀吉の子鶴松の菩提寺で、京都第一の寺といわれた祥雲寺(現在の智積院)の障壁画制作という一大事業を獲得しました。
楓図壁貼付

松に秋草図屏風
国宝
上:楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)
下:松に秋草図屏風(まつにあきくさずびょうぶ)

長谷川等伯筆
文禄元年(1592)頃
京都・智積院(ちしゃくいん)蔵

天正19年(1591)、3歳で夭折した豊臣秀吉の長男、鶴松(つるまつ)の菩提を弔うために建立された京都の祥雲禅寺に描かれた障壁画。70㎝を越える太い幹の楓は、両腕を広げるように、雄雄しい姿で描かれ、紅葉や木犀(もくせい)、鶏頭、萩、菊の草木は、幼くして亡くなった鶴松を包み込むように優しく画面を彩ります。
ライバル狩野永徳(かのうえいとく)が創り上げた画面から飛び出さんばかりに巨木などの対象を描く「大画様式(たいがようしき)」を意識しながら、狩野一門の作品にはみられない自然描写をみせ、なおかつ叙情性を備えた長谷川一門独自の美的特質が、みる者の目を奪います。
慶長4年(1599)
61歳
一族への祈り-大涅槃図
 京都・本法寺の日通上人と等伯との関係は、篤(あつ)く永きに渡るものでした。等伯は、よき理解者であった日通上人に強く信頼をよせ、慶長4年(1599)に大涅槃図(仏涅槃図)を寄進します。さら慶長10年(1605)には、本法寺の客殿、仁王門の建立施主となるほど、本法寺には多くのものを寄進しました。等伯は本法寺の大檀越(だいだんおつ)となり、京都の有力な町衆となりました。
大涅槃図の裏面には日蓮聖人以下の祖師たちの名、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の祖父母や養父母、そして将来の長谷川一門を担うべく期待をよせていた長男久蔵(きゅうぞう、26歳の若さで先立った)たちの供養銘が記されています。等伯の篤い信仰と一族への祈りが込められた作品といえます。
仏涅槃図 重要文化財
仏涅槃図(ぶつねはんず)

長谷川等伯筆
慶長4年(1599)
京都・本法寺蔵

釈迦(ブッタ)の入滅の様子を描いています。
華やかな描き表装を含めれば高さ10mにおよぶこの大涅槃図は、完成時に宮中で披露された後、等伯によって本法寺に寄進されました。首を上下左右にゆっくりと振らなければ全貌をみることはできません。その迫力はみる者を圧倒します。
自己主張-自雪舟五代(せっしゅうよりごだい)
 信春時代に等伯が描いた仏画には「長谷川信春筆」の署名が書き込まれています。この時代、寺院に注文された仏画に絵師が署名を入れることは、非常に稀なことでした。
また後年、等伯は室町時代に活躍した雪舟の正当な後継者として、自らの作品に「自雪舟五代 長谷川法眼等伯筆」と書き込んでいます。当時、大名たちに雪舟画が、たいへんもてはやされていたのです。
当時の絵師は、注文主の依頼のままに絵を描いていましたが、等伯は絵筆で自己表現することに加え、さらに強い自意識をサインの文字であらわしています。
仏涅槃図 重要文化財
日通上人像(にっつうしょうにんぞう)

長谷川等伯筆
慶長13年(1608)
京都・本法寺蔵

本法寺中興の祖といわれる第10世住職の日通上人の死に際し、等伯が70歳のときに描いた肖像画です。等伯とは長きにわたり交友がありました。控えめな色彩、力強い描線は、上人の清新な人柄までも写し取ったかのようです。画面からは、上人を失った等伯の悲しみを感じることができます。
慶長15年(1610)
72歳
新天地・江戸への旅
 豊臣の時代が去り、天下は徳川家康のものとなろうとしていました。等伯は新たなパトロンを獲得するため、高齢をおして二男の宗宅を伴い、江戸へ下向しましたが、途中で病をえて、江戸到着後、二日めに72歳で等伯は亡くなりました。その翌年に宗宅も亡くなり、画壇のなかでの長谷川一門の命脈は尽きてしまいました。
その魅力と謎
松林図屏風  松林図屏風

国宝 松林図屏風 長谷川等伯筆
東京国立博物館蔵
 みる人すべてを魅了する松林図屏風は、さまざまな謎に満ちた作品でもあります。その魅力とともに松林図がはらむいくつかの謎に迫ります。

【等伯の筆の技と構成力】
画面に近づくと後ずさりするような迫力の筆づかい。その荒々しい筆づかいが、遠くからみるとうっすらと浮かび上がる松林の情景を生み出しています。
四つほどの松林のグループが、緻密に計算されて配置されています。松が立ち並ぶ地面は、画面の外に伸びていき、ある位置に立つと、みる人が松林のなかにいるかのような感覚を得ることができます。
墨の濃淡と粗速の筆のタッチだけで、霞に包まれた松林の情景が表現されています。日本の水墨画の最高峰といわれる所以です。

【完成作か、下絵なのか】
通常屏風は、五枚位の紙を縦に継ぎ合せて一つの扇(屏風の折れ目と折れ目の間の面)の画面となります。その継ぎ目は、ふつう横一線に揃うように貼られていきます。しかし、松林図屏風では継ぎ目が乱れていることから、画面の紙は草稿用のものであり、この松林図は下絵ではないのかという意見が出されました。

【紙の質と墨の質】
紙はふつうの屏風絵のものより粗末であり、その点からも松林図屏風が下絵であるという仮説が補強されます。しかし、松を描く墨はつややかで、本画(完成作)に用いられるほどの最高級の質の墨が使われており、下絵と即断できません。

【どんな筆で描いたのか】
荒々しい松の葉を描いた道具がどのようなものであったか、よくわかっていません。連筆-筆を重ねたもの、藁をたばねて筆としたもの、あるいは筆先が固い蒔絵で使われる筆のようなもので描いたなど、さまざまな意見があります。

【どこを描いたのか】
等伯の故郷、能登半島の浜辺にある松林は、まさに松林図屏風の松林にみえます。等伯の心象風景が描かれたものなのでしょうか。しかしみる人によって、天橋立、三保の松原、さらにはその人自身の記憶の風景とリンクします。

【どこからみた風景なのか】
山頂に雪が積もる遠山の裾野からみた風景です。日本古来の松を描いた絵といえば浜松図で、画面の中央に水景色が広がるものが多いです。この絵に水辺はなく、つまり浜から松林をみた景色なのです。

【松林のある時間】
雪が積もる山が遠くに薄っすらと描かれている。季節は冬へと向かう晩秋でしょうか。それとも雪解けの春でしょうか。
朝靄がかかり、松林を流れる空気は冷たく感じられ、朝の情景のように感じられます。

【後から捺(お)された判子】
屏風に捺された印は、ほかの等伯の作品にみえるものとまったく違うものです。後代、誰かが画面に捺したものと考えられています。

【屏風の配置】
印が捺された位置を左右の隅に置くのが、屏風の一般的な配置方法であり、松林図屏風も通常、そのように展示されます。しかし、左右の屏風を入れ替えても、松林の情景は広がっていきます。