重要美術品 葡萄図(ぶどうず) 没倫紹等筆 室町時代・延徳3年(1491) |
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作者の没倫紹等(もつりんじょうとう)は、室町時代の著名な禅僧、一休宗純の弟子です。一休没後に、京都の大徳寺では、一休を開祖とする塔頭、真珠庵が再興されますが、没倫紹等はその初代住持となっています。 没倫は墨斎、止濼、拾堕などと号し、一休同様、水墨画にも絵筆を振るいました。今も真珠庵には、没倫が粗放な筆致で描いた「溌墨山水図」(重要文化財)が伝わっています。 没倫自ら本図に書き付けた賛によると、今年の秋は十日も風雨が続いたが、葡萄棚は傾くこともなく多くの実をつけたといいます。そこには、身近な題材を飾らない朴訥とした筆づかいで描く本図の、生活と密着した即興的な制作背景を読み取ることができます。また描かれた年は、賛の年記から没倫の没年の前年、真珠庵が再興された延徳3年であることがわかります。 墨で葡萄を描く「墨葡萄」は、中国で文人の墨戯として宋時代の末に始まり、日本には鎌倉時代に作品がもたらされていたようです。しかしながら、中世の作例は非常に少なく、本図はたいへん貴重な遺品となっています。 |
赤壁賦(せきへきのふ) 本阿弥光悦筆 江戸時代・17世紀 |
光悦は京都で刀剣の鑑定を家職とする本阿弥家に生まれました。能書として当時から高名で、近衛信尹・松花堂昭乗とともに近世初期を代表する書家です。後年には洛北・鷹ヶ峯に隠棲し、陶器や漆工の制作に専念しました。 |
蔬菜図(そさいず) 狩野秀頼筆 室町時代・16世紀 |
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作者の狩野秀頼は、狩野派の二代、元信の次男です。生没年は不詳ですが、永正16年(1519)以前に生まれ、天正4年(1576)頃まで存命したとみら れます。若いころ京都の東寺の仏画制作を担っていた本郷家の養子となりましたが、狩野本家に呼び戻されています。 秀頼は当館所蔵の国宝「観楓図屏風」で知られる画家ですが、遺品はきわめて少なく、8点ほどが知られています。その多くは濃彩の人物画です。 この作品は、秀頼の遺品としてはこれまでに知られていなかった水墨の花鳥図で、茄子とマメ科の植物が描かれています。疏菜図は、中国の宋時代に水墨の技法 で文人たちが、身近な題材である野菜を描き始めたことに始まる、文人画的な主題です。牧谿をはじめ、中国の画家による疏菜図が古くから日本にもたらされて いたようですが、室町時代の疏菜図の作例は少なく、その意味でも本図は貴重な遺品です。
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鶺鴒図(せきれいず) 室町時代・16世紀 |
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実をつけたタデの生える水辺で、遠くを見つめてたたずむ鶺鴒が描かれています。 |
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一休宗純墨蹟(いっきゅうそうじゅん ぼくせき) 七言絶句「峯松」 |
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「一休さん」として有名な禅僧一休宗純(1394~1481)の書です。 晩年に近い時期の筆と考えられます。 |
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著名な一休の頓知は後世の作り話ですが、歴史上の一休は、戦乱の拡大する室町時代後期の社会の中で、政治権力や宗教的権威を厳しい言葉で批判するとともに、奇行や破戒を通じて自らが権威となることをも拒絶した、独自の思想を持つ人物でした。 一休の行動が当時の人々に大変強い印象を与えたことは、さまざまな奇行を載せるその伝記や漢詩集『狂雲集』からも明らかです。その毒を含んだ鋭い言葉がよく取り上げられますが、この一幅は、壮大な春の自然の様子を率直に詠んだ一首を記し、一休のまた異なった側面を示しているようです。 |
平成21年度賛助会費については、4年ぶりに当館単独で企画・開催した特別展「染付―藍が彩るアジアの器」の運営等に必要な経費に使用しました。
特別展「染付―藍が彩るアジアの器」 | ||||||
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