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7.上野博物館 コンドル設計の旧本館開館

上野博物館遠景之図 J.コンドル筆 明治時代

町田久成は人文・自然史・産業の各部門と、動物園・植物園・図書館を備えた大博物館を構想していたが、そのための場所としては早くから上野を考えており、明治6年(1873)にはそのむねの建白書を提出している。

上野は東叡山寛永寺があったところであるが、戊辰戦争でその伽藍は灰塵に帰していた。明治元年東京府の管理地となり、2年には一般に開放し、6年には東京府公園に指定されている。ただ中堂や本坊の跡地などは兵部・文部両省の管理地であった。8年12月、中堂跡は博物館建設予定地として内務省に引き継がれ、ついで9年1月、上野公園は博物館の所管となった。さらにこの年12月には博物館建設予定地は中堂跡から本坊跡に変更された。こうして博物館の上野移転が本格化するが、それに拍車をかけたのが内国勧業博覧会の開催である。明治10年の第1回には閉会後の利用を目的として煉瓦造の美術館が建てられているし、14年の第2回にはコンドル設計の本館が完成し、一階が美術館として利用されている。コンドルの本館は明治11年3月着工、14年1月竣工。現在の本館とほぼ同位置に建てられた。煉瓦造、2階建、正面左右に小ドームの屋根飾りをつけている。付属館として第1回内国勧業博覧会の美術館がそのまま利用された。

明治14年4月、博物局は農商務省へ移管、併せて内山下町からの移転が進み、動物園の建設工事も着手された。翌15年3月20日、明治天皇が行幸、開館式が執り行われた。式終了後、新築博物館と付属の動物園は一般に公開された。やや遅れて9月20日からは浅草文庫より移された書籍が公開されている。歴史・美術・天産(自然史)・図書館・動物園を含む大博物館は完成し、年末年始と月曜日を除き毎日開館されるようになる。その後博物館は明治19年に宮内省に移管、明治21年に宮内省図書寮の付属になり、翌22年には帝国博物館となった。この時帝国奈良博物館・帝国京都博物館を同時に設置している。博物館創設以来関係の深かった博覧会の事務は農商務省総務局博覧会課に移されることになった。

 

 

帝室博物館正門写真 明治時代

完成時の上野博物館

帝国博物館建物位置図 明治22年(1889)

6.内国勧業博覧会       8.奉献美術館