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6.内国勧業博覧会 殖産興業と博物館

第一回内国勧業博覧会美術館図 明治10年(1877)

内務卿大久保利通は「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもとに内政を第一とした積極的な近代化政策をすすめたが、その勧業政策の一環として博覧会を開催することを提唱している。これが内国勧業博覧会である。初期の博物館は博覧会と深い関わりをもっていた。内国勧業博覧会は第1回が明治10年(1877)、上野公園で開催され、以後、5年ごとに開かれることが決められた。

第1回内国勧業博覧会は寛永寺本坊跡に建てられた煉瓦造の美術館を中心に、左右対称に東本館と西本館が設けられ、機械館・園芸館・農業館など6地区に分けられた。博覧会の中心的建築物となった美術館は「美術館」の名称を使った最初の建物としても記念すべきものである。出品者1万6千人余、会期102日で入場者は45万人を越えたという。蒸気機関車が出品されたほか臥雲辰致のガラ紡機が人気を呼んだ。なお、このときの会場案内図には美術館の裏に博物局の出品である茶室・六窓庵が示されている。

第2回は明治14年。やはり上野公園を会場として、新築成ったばかりのコンドル設計の博物館本館が一部利用された。会期122日で、入場者は82万人であった。ガス灯が人気を呼んだという。

第3回は明治18年の予定が23年に延期された。上野公園が会場で、会場内を電車が走った。このとき参考館として建てられた煉瓦造2階建の建物が終了後博物館に譲渡され、第3号館として利用されるほか、竹の台の建物2棟も譲りうけ、竹の台陳列館として美術団体などへの貸し会場として利用した。内国勧業博覧会はこの後、第4回が明治28年に京都、第5回が明治36年大阪で開催されて終了する。博物館も第4回以降は内国勧業博覧会との関わりを排し、殖産興業政策とは別の、独自の方向をとりはじめる。

 

 

第二回内国勧業博覧会内美術館噴水 小林清親筆 明治14年(1881)

内国勧業博覧会美術館之図 歌川広重筆 明治時代

第二回内国勧業博覧会出品海産動物 明治14年(1881)

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