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3.書籍館と浅草文庫 博物館蔵書の基礎

浅草文庫

明治5年(1872)8月、湯島旧聖堂内の大講堂において現在の図書館にあたる書籍館(しょじゃくかん)が開館する。草創期の博物館は、動物園・植物園を含む総合博物館の一環として書籍館の建設を計画した。

明治2年、政府は徳川幕府の開成所・昌平坂学問所・医学館などの文教施設を併合して大学校を設立した。それと同時に、紅葉山文庫をはじめとする旧幕府の書籍類を接収して、紅葉山文庫本は太政官へ、昌平坂学問所本は大学へ、医学館本は大学東校へ、蕃書調所本は大学南校へとそれぞれ引き継いだ。博物館の開館にともない各官庁に継承された書籍類を1ヵ所に集め一般公開するため文部省は書籍館を設けた。これがわが国における近代図書館の始まりである。開館時の書籍館は、東西10間(約18メートル)、南北8間(約14.4メートル)の建物の2階に閲覧所が設けられていた。蔵書は、約1万3千部、約13万冊を超えていたと伝えられている。開館日の8月1日の記事には「コノ日ヨリ借覧人来ル」とあって一般の関心も高かったようだ。

明治7年、政府は地方官会議の会議所として大講堂を利用するため、書籍館を浅草蔵前にあった八番米倉へ移転することを決めた。書籍館は、ここに浅草文庫と改称し、書庫2棟と書籍借覧所、事務所を兼ねた1棟の新築工事にとりかかることになった。工事は翌年5月に完成し、浅草文庫が開館する。浅草文庫は、年末年始を除く連日、午前8時より午後4時まで開館し、最盛期には年間8,056人(公用4,071人、私用3,985人)の利用者をかぞえている。蔵書は約14万の古典籍のほかに博物館の古書画を保管し、観覧および模写も許可した。明治14年、浅草文庫は上野公園に新築された博物館構内の書籍借覧場に移転した。書籍館とこれを引き継いだ浅草文庫の開館は、明治初期における日本の文化・教育史上重要な出来事であった。書籍館・浅草文庫の蔵書は、その後一部を内務省・宮内省に移管したものの、大部分は現在にまで引き継がれ博物館蔵書の基礎となっている。

 

 

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