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2.ウィーン万国博覧会 近代博物館発展の源流

日本列品所

明治6年(1873)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の冶世25周年を記念して、ウィーン万国博覧会が開催された。

明治4年、万国博覧会への公式参加要請を受けた日本政府は、博覧会事務局を設置し、大隈重信・佐野常民を中心に陳列品収集などの準備を開始した。佐野常民の提唱した万国博覧会参加の目的には、日本国土の豊かさと優れた伝統技術を海外に紹介し、出品した産物や工芸品などの輸出増加をめざすこと、これに対して西洋の近代文化を学び、機械技術を伝承するための技術を養成することのほかに、博物館を創設し博覧会を開催するといった、草創期の博物館の大きな目標がかかげられている。出品物の収集は、各府県の物産調書の作成からはじまり、特産物などをそれぞれについて2点ずつ準備し、ひとつは万国博覧会に、ひとつは博物館の常備陳列品とした。

ウィーン万国博覧会は、5月1日から11月2日までの約半年間、市内を流れるドナウ河畔のプラーター公園で開催された。日本からは、官員・通訳41名、建築庭園関係者など25名、外国人6名、合計72名のほかに、西洋の優れた機械技術伝習のために24名の技術者がウィーンへ派遣された。日本列品場には、陶器・七宝・漆器・織物などの伝統的工芸品や巨大物品として金鯱、鎌倉大仏の紙の張抜、谷中天王寺五重塔雛形も展示された。さらに、陳列とは別に神社を配した日本庭園を造成し、折からの日本ブームによって入場者の好評を博したと伝えられる。ウィーンの万国博覧会は、会期中の総入場者数約722万5千人、要した費用は当時の金額で2,340万円にのぼる、わが国がはじめて公式参加した世紀の祭典であった。

明治8年、佐野常民は16部96巻に及ぶウィーン万国博覧会報告書を政府に提出した。報告書の中の博物館部ではゴットフリート・ワグネルに「東京博物館創立の報告」「芸術百工上美術博物館ニ付イテノ報告」を作成させ、日本における近代博物館の建設の必要性を強く訴えている。ウィーン万国博覧会への参加は、本格的な博覧会建設や内国勧業博覧会開催の実現にむけて、大きな展開を遂げる契機となったのである。

 

 

日本列品所全図

日本館

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