このページの本文へ移動

1089ブログ

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」にみる人間模様

 「やまと絵」という言葉は、平安時代のなかばから使われており、古くは一条天皇の後宮に藤原彰子(ふじわらのしょうし)が入内(じゅだい)する際にやまと絵の屛風を用意したという記録があります。彰子は、藤原道長(みちなが)の娘であり、紫式部(むらさきしきぶ)が仕えた女主人として知られています。

重要文化財 紫式部日記絵巻断簡(むらさきしきぶにっきえまきだんかん)(部分)
鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵
藤原彰子が一条天皇の皇子(のちの後一条天皇)を出産して、その誕生五十日目を祝う場面。画面の右方で、背中を向けている女性が彰子。画面の下方の男性は、彰子の父である藤原道長。画面の左方には、道長の妻で、彰子の母である源倫子(みなもとのりんし)が皇子を抱いています。
 
紫式部が執筆した『源氏物語』は、彼女特有の深い洞察力と豊かな美意識によって、平安時代の貴族たちの上質な生活感がみごとに描写されており、登場人物たちは欠点すらも優雅すぎて感情移入しにくいところもあります。
これは時代の違いとばかりも言いきれず、平安時代の文学少女として知られる『更級日記(さらしなにっき)』の筆者は、子どものころ「大きくなったら、光源氏(ひかるげんじ)に愛された夕顔(ゆうがお)や、薫(かおる)に愛された浮舟(うきふね)のようになるんだ」と信じていたようですが(あとから思い返して恥ずかしがるのが良い)、これは現実感がないくらいハイスペックな紫の上や明石の君たちに比べると、自分自身を投影しやすくて魅力的なキャラクターだったのでしょう。
 
『源氏物語』には理想的な人物ばかりでなく、ちょいちょいと息抜きのように現実的な人々が登場します。いつの時代にもいそうで親しみをおぼえるのは夕霧(ゆうぎり)と雲居の雁(くもいのかり)のカップルです。
光源氏の息子である夕霧は、幼なじみの雲居の雁と結ばれるために、はやく一人前として認められるように努力を重ねました。念願がかなって雲居の雁と結ばれ、たくさんの子供に恵まれたところで、親友の柏木(かしわぎ)が亡くなり、あとに残された落葉の宮(おちばのみや)のもとに通ううちに、しだいに宮に心を奪われてゆきます。なかなか落葉の宮に心を許してもらえないうちに、2人の関係を誤解した宮の母君から夕霧にあてて、娘を粗略に扱うことをなじる手紙が届きます。夕霧がその手紙を読もうとしたところ、雲居の雁がこれを落葉の宮からの手紙であると勘違いして、夕霧の背後から忍び寄って手紙を奪い取ります。その後、とうとう雲居の雁は子供を連れて実家に戻ってしまいますが、いつの間にか仲直りしたらしく、のちには夫婦で息子の縁談について気をもむような場面がでてきます。

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」の展示風景

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」の展示風景
 
国宝 源氏物語絵巻 夕霧(げんじものがたりえまき ゆうぎり)
平安時代・12世紀 東京・五島美術館蔵
展示期間:11月21日(火)~12月3日(日)
落葉の宮の母君から届いた手紙を読もうとする夕霧の背後から、妻である雲居の雁が手紙を奪おうと近づく緊迫の瞬間。恋する男、嫉妬する女、不安に見守る端女(はしため)たち。みな同じような引目鉤鼻(ひきめかぎはな)の顔立ちですが、見る者の想像力によって、各人の表情が見えてきます。
 
『源氏物語』の本質は「もののあはれ」だという、分かるような分からないような評言があります。その意味するところはさておき、『源氏物語』にはさまざまな人生や感情が描かれており、人間というのは昔も今も変わらないことを思わされます。きっと未来も変わらないでしょう。
 
国宝「源氏物語絵巻 夕霧」や重要文化財「紫式部日記絵巻断簡」をご覧いただける、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」は12月3日(日)まで。
ぜひ、足をお運びください。
 
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」の会場入口

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2023年11月24日 (金)

 

「柿本宮曼荼羅」の秘密

特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では仏画も展示されています。

やまと絵と仏画はつながりがなさそうですが、平安時代から鎌倉時代の初めころには、やまと絵を描いていた宮廷絵師と、仏画を描く絵仏師が、天皇が企画した絵画制作プロジェクトに一緒に参加していたことが記録に残されていて、互いの持つ技術を披露し合いながら絵を描いていたことが推測されます。その成果の一つが仏画に見られる自然景で、やまと絵の自然景と大差ありません。
こうした自然景の描写に重点が置かれた作例に、神社の境内を描いた宮曼荼羅(みやまんだら)があります。奈良・春日大社を描いた「春日宮曼荼羅」は有名です。
 
今回取りあげる作品は重要文化財「柿本宮曼荼羅」(奈良・大和文華館蔵 以下、本図と呼びます)です。
自然描写だけではない、本図とやまと絵との関わりについてご紹介します。
 
重要文化財 柿本宮曼荼羅(かきのもとみやまんだら)
鎌倉時代・13世紀 奈良・大和文華館蔵
展示期間:11月7日(火)~12月3日(日)
 
「柿本宮」といってもそういう名前の神社はなく、本図は奈良県天理市に所在する「和爾下神社」(わにしたじんじゃ)が舞台です。
画面上部に社殿を描き、上方に表された祭神の本地仏(神の姿を仏の姿を借りて表したもの)や、山が重なる構図は、「春日宮曼荼羅」と共通します。社殿は正面から堂々と捉えられていますので、祈るために制作された仏画と考えられます。建物の入口に当たる楼門の扉は開け放たれ、そこから延びる石段を下りると、十二社・弁才天社があり、本地仏の十二神将が描かれます。この十二神将、フィギュアのような姿かたちをしていてとても愛らしく、しかも描写は緻密で、本図の見所の一つです。
 

 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央右)。十二神将が緻密に描かれています。 

さて、石段を下りたあたりから左に目を向けると、柱を支える礎石が整然と並ぶ空地があります。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央左)
 
その右手にはこんもりとした墳丘が描かれます。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央)
 
さりげなく描かれていますが、実はこの二つのモチーフは、本図にとって重要です。
墳丘は「歌塚」(うたづか)とよばれる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の墓、空地は人麻呂を祀る寺院の跡です。柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人で、のちに歌聖と崇められました。ただ、人麻呂とのつながりを示す二つのモチーフは、理想化されたものではなく、荒れた土地として描かれています。ここに本図を読み解く秘密が隠されています。
 
平安時代末から鎌倉時代前半に活躍した歌人、鴨長明(かものちょうめい)は、人麻呂の墓のありかを訪ねてもあたりに知っている人はいない、と記しています(『無名抄』(むみょうしょう))。つまり、12世紀前半には実際に本図のように荒廃していたと思われます。寺跡と墳丘は、すでに忘れ去られてしまった人麻呂ゆかりの二つの遺跡を、ありのままに描いたものだったのです。
 
和歌に詠まれた名所や景物から、名所絵や四季絵、月次絵が描かれるなど、やまと絵にとって和歌はとても重要です。ですから、本図は自然描写だけでなく、人麻呂ひいては和歌のイメージを読み取ることが可能な点も、やまと絵との関わりがある作例です。
 
ところで、本図が描かれたとみられる13世紀後半、京極為兼(きょうごくためかね 1254~1332)という歌人が活躍しました。為兼は京極派と呼ばれる、景物や心情をありのままに言葉に表すという、当時としては新しい歌風を確立しました。本図は歌聖である人麻呂ゆかりの土地を描きながらも、理想化することなく荒廃した様子を素直に描いていました。
こうした描写が京極派の歌風と通じると思うのですがいかがでしょうか。
さらに、本図が祈るために制作された仏画である点を踏まえると、為兼の父である為教(ためのり)が亡くなった弘安二年(1279)を制作の契機としたいところです。
 
人麻呂ゆかりの遺跡を手掛かりに、色々と想像(妄想?)を巡らせてみました。
実は筆者の前職は奈良県の大和文華館で、本図は思い入れのある作品の一つです。
本図は宮曼荼羅のなかでも大きな作例であり、自然景も濃彩でたいへん美しい作例です。宮曼荼羅には参詣の代用という機能がありました。

「柿本宮曼荼羅」は第一会場出口付近に展示しています。 
桜満開で緑も美しい境内、会場で絵の中を散策してみてください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 古川攝一(教育普及室) at 2023年11月10日 (金)

 

近世やまと絵を楽しむ

「近世のやまと絵」と聞いた時、どのような作品が思い浮かぶでしょうか?
「あれ、やまと絵といえば、平安時代のきらびやかな作品なのでは?」と思われる方も多いのではないかと思います。
しかしやまと絵は、日本絵画を代表するジャンルの一つとして、近世、江戸時代になっても輝きを放ち続けていました。

現在、平成館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」に合わせ、本館7室、8-2室、特別2室で開催している特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」において、「近世やまと絵」に関する作品を展示しています。


本館8-2室の展示風景

すでに特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」を御覧いただいた方はご存知かもしれませんが、室町時代後期、それまで200年近くやまと絵の仕事の多くを担っていた土佐家の当主が戦死し、土佐家の工房が京都から堺へと拠点を移すことになりました。そして土佐家の京都不在を機に、他の多くの絵師たちがやまと絵を手がけるようになったのです。それは、中世のやまと絵を継承しつつも、やまと絵が大きく変容していくことを意味していました。
今回特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、大きく3つのテーマを設けて展示しています。

まず本館7室では、「やまと絵の系譜―四季の景物、名所の情景―」と題し、やまと絵の大きな主題でもある四季や名所をテーマとする優品を展示しています。


桜山吹図屛風(さくらやまぶきずびょうぶ)
伝俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 田沢房太郎氏寄贈



桜山吹図屛風(さくらやまぶきずびょうぶ)
伝俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 田沢房太郎氏寄贈

桜と山吹が咲きほこる春の風景です。緑の土坡で大胆に画面が区切られ、金銀泥や砂子などで装飾された季節の草花の上に和歌が記された色紙が貼り交ぜられています。
宗達(そうたつ)が活躍したのは、安土桃山~江戸初期という変革期の京都。王朝文化に対する憧れから古典復興の気運が高まっていました。
宗達は、金銀を多用し鮮やかな色彩を用いて宮廷や京都の上層町衆の需要に応えていました。本作にみえるリズミカルで意匠美豊かな画風は、宗達が中世のやまと絵を継承しつつ、時代の要請に合わせて大胆に変容させた、近世やまと絵の画風の一端を示すものといえます。

続く本館8-2室では、「近世やまと絵の担い手たち」と題し、やまと絵本流である土佐派、住吉派、板谷派に加え、狩野派、岩佐派、長谷川派、さらには琳派、復古やまと絵の諸派など、画派ごとのやまと絵表現の流れをご覧いただきます。


粟穂鶉図屛風(あわほうずらずびょうぶ)
土佐光起筆 江戸時代・17世紀



粟穂鶉図屛風(あわほうずらずびょうぶ)
土佐光起筆 江戸時代・17世紀

堺に拠点を移した土佐派を一世紀ぶりに京都画壇に復帰させたのが土佐光起です。以降、土佐派はやまと絵を担う重要な画派として、幕末に至るまで活躍してゆくことになります。
鶉(うずら)は光起が得意とした画題の一つで、その後の土佐派の絵師たちにも受け継がれる代表的なモチーフとなりました。


秋郊鳴鶉図(しゅうこうめいじゅんず)
土佐光起、土佐光成筆 江戸時代・17世紀

今回は、光起の屏風と、息子である光成との合作の掛軸を並べて展示しています。
羽毛のふわふわ感を楽しんでいただければと思います。


粟穂鶉図屛風(あわほうずらずびょうぶ)(部分)
土佐光起筆 江戸時代・17世紀




年中行事図屛風(ねんじゅうぎょうじずびょうぶ) 左隻
住吉如慶筆 江戸時代・17世紀


ここでぜひこの機会にご覧いただきたい作品をご紹介しましょう。住吉如慶(すみよしじょけい)の屛風です。
如慶は土佐光吉(とさみつよし)、もしくは光則(みつのり)の門弟とされる絵師で、鎌倉時代以来途絶えていた住吉家を復興した人物として知られています。
なぜこの作品に注目かといいますと、ちょうど平成館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」で、如慶らが後水尾天皇の命で模写した「年中行事絵巻(住吉本)」が半世紀ぶりに(!)公開されているからなのです。
「年中行事絵巻」は、もともと平安時代後期に後白河天皇の命で制作された絵巻で、宮中や都の儀式や行事、儀礼などが描かれた年中行事の集大成だったのですが、原本は火災で焼失してしまい、模本のみが現存しています。そうした貴重な模本の中でも、住吉本は描写も正確であり、重要視されてきました。
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では、住吉本四巻の展示のうち、巻第五が展示されていますが(展示期間:11月7日(火)~19日(日))、この屛風には、ちょうど巻第五と同じ場面、「内宴」の様子、中でも内教坊(ないきょうぼう)の妓女(ぎじょ)たちが舞を披露するところが描かれているのです。
もちろん、絵巻から屛風へと拡大して描いていますので、構図も整理されていますし、そっくりそのまま形を踏襲しているわけではありません。
しかし、貴重な原本を模写した経験があるからこそ、如慶は、こうした屛風を描くことができたのです。この機会にぜひ、両作品を見比べるという経験もしてみていただけたら幸いです。


源氏物語図屛風(絵合・胡蝶)(げんじものがたりずびょうぶ えあわせ・こちょう)
狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・19世紀



源氏物語図屛風(絵合・胡蝶)(げんじものがたりずびょうぶ えあわせ・こちょう)
狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・19世紀

『源氏物語』はやまと絵において最も多く絵画化された主題だと思いますが、本作も、右隻は『源氏物語』の「絵合(えあわせ)」から、女御たちが冷泉帝の御前で絵を競う場面を、左隻は「胡蝶」から、秋好中宮(梅壺女御)が春の仏事を行う様子を描いています。(特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、現在「源氏物語図屛風(胡蝶)」を展示中)。
狩野派の絵師たちは、すでに室町時代からやまと絵の画法を取り入れた作品を制作していましたが、やまと絵学習という点において最も特筆すべき存在は、本作の筆者である木挽町(こびきちょう)狩野家九代目当主の養信(おさのぶ)です。
当館には木挽町狩野家に伝来したとされる模本類が5,000件近く収蔵されていますが、その模本からは、養信がすでに10歳で狩野探幽の作品を的確に模写し、14歳の段階でやまと絵の絵巻模写にも挑戦していることがわかります。


法然上人行状絵傳(模本)(ほうねんしょうにんぎょうじょうえでん)(部分)
狩野養信等模(原本:土佐吉光) 江戸時代・文化六年(1809)
(注)展示の予定はありません


養信はその後も膨大な数の古画の模写を続け、学習を深めていきました。
「源氏物語図屛風」は養信のやまと絵学習の成果がいかんなく発揮された優品です。保存状態も良いので、発色のよい絵具や精緻な描写など、ぜひお近くで御覧ください。


四季花鳥図巻(しきかちょうずかん) 巻下(部分)
酒井抱一筆 江戸時代・文化15年(1818)


酒井抱一(さかいほういつ)は、姫路藩主の弟として文雅をたしなむ風流人を多く輩出した家柄に生まれ、若くして俳諧や狂歌、能など諸芸をたしなみました。
そして江戸の地で尾形光琳を顕彰しながら、俳人ならではの感性で瀟洒(しょうしゃ)な作品を制作し、彼を取り巻く江戸後期の文芸サロンの交遊の中で、自らの画業を展開していきました。
「四季花鳥図巻」は、春夏で1巻、秋冬で1巻、計2巻にわたり月々の花と鳥たちが描き連ねられ四季がめぐってゆく画巻です(特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、現在下巻を展示中)。
左へと巻き広げる巻物の形態を最大限に生かした構図が特徴です。 幹や枝、蔓(つる)の配置とともに、鳥や虫たちも、左へと続く次の季節へとリズミカルに私たちの視線を誘導させていきます。 極上の絵具により描かれた本作は、抱一の琳派学習や江戸後期の中国絵画に対する嗜好、博物図譜の流行など、さまざまな要素を取り入れ紡ぎだされた、抒情性(じょじょうせい)あふれる抱一花鳥画の代表作の一つです。
近世の江戸における新たなやまと絵の表現をお楽しみください。


後嵯峨帝聖運開之図(ごさがていしょううんひらくのず)
冷泉為恭筆 江戸時代・19世紀 岡田かつ子氏寄贈


次にご紹介するのは、平安・鎌倉時代のやまと絵に立ち戻ることを作画理念とした復古やまと絵の作品です。
中でも最も著名な冷泉為恭(れいぜいためちか)の作品をご紹介しましょう。
「後嵯峨帝聖運開之図」には付属の書付があり、それによると、後嵯峨天皇がまだ即位する前、百姓から献じられた米を近習の男女が洗って折敷(おしき)・土器に盛ったところ、亀が現れて寿いだという話を絵画化しているようです。

為恭もまた、多くの古画を模写しやまと絵学習に励んだ人物でした。特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」で10月24日(火)~ 11月5日(日)まで展示していた「伝源頼朝像」(京都・神護寺像)を為恭が模写した作品が、当館に2点残されています。

伝源頼朝像(模本)(でんみなもとのよりともぞう もほん)
冷泉為恭模 江戸時代・19世紀
(注)展示の予定はありません
伝源頼朝像(模本)(でんみなもとのよりともぞう もほん)
冷泉為恭模 江戸時代・19世紀
(注)展示の予定はありません


為恭はまた、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」で展示している、奈良・春日大社に祀られる神々の霊験を描いた「春日権現験記絵巻(かすがごんげんけんきえまき)」(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の模写も制作しているのですが、「後嵯峨帝聖運開之図」にも絵巻からの影響が指摘されており、そうした古画学習の成果が発揮された精緻(せいち)な装束も見どころです。
また、画面をじっくり見てみると、2匹の可愛らしい亀も見つかるはずです。ぜひ会場で探してみてください。


後嵯峨帝聖運開之図(ごさがていしょううんひらくのず)(部分)
冷泉為恭筆 江戸時代・19世紀 岡田かつ子氏寄贈


そして最後の特別2室では、「近世やまと絵と宮廷」と題し、宮廷文化と深くかかわる作品や、京都御所ゆかりのやまと絵を展示しています。


四季草花図屛風(しきそうかずびょうぶ)
「伊年」印 江戸時代・17世紀



四季草花図屛風(しきそうかずびょうぶ)
「伊年」印 江戸時代・17世紀

「伊年」の印は、俵屋宗達の工房「俵屋」の商品に捺された商標的な印章です。宗達だけでなく、俵屋工房の他の画家の作品にも捺されていて、一種のブランドマークとして使われていたと考えられています。
伊年印の草花図屛風は、江戸初期の宮廷における園芸愛好も手伝い、多数の作品が現存しており、「四季草花図屛風」もその一つです(特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、現在右隻を展示中)。六曲一双の屛風に、四季折々の草花が絵具の濃淡を変えて華やかに描かれています。
宮内省の中でも宮中調度に関することなどを司った主殿寮(とのもりょう)から引き継いだ作品です。


耕作図屛風(こうさくずびょうぶ)
円山応瑞筆 江戸時代・19世紀


応瑞(おうずい)は、円山派の祖として近代日本画にまで多大な影響を与えた円山応挙(まるやまおうきょ)の長男です。
耕作図は重要な年中行事のひとつとして多く絵画化された画題で、本作でも、金砂子を撒いた画面の中、生き生きと農作業に勤しむ人々の姿が描かれています。
こちらも「四季草花図屛風」と同様、主殿寮(とのもりょう)から引き継いだ作品です。

応瑞の父である応挙は、多大な庇護を受けた円満院祐常(えんまんいんゆうじょう)をはじめとする宮中や公家のサークルとも深く関わっていました。
天皇の住まいである禁裏御所の七度目の造営(寛政度内裏造営)では、京都の町絵師が参加する中、多くの絵師を輩出したのも円山応挙率いる一門でした。
応瑞も父とともに参加し、その後も宮中との関係を築いていきます。
孫の応震(おうしん)が宮廷の依頼を受けて描いた下絵も当館に所蔵されています。


禁中花御殿障壁画下絵(きんちゅうはなごてんしょうへきがしたえ)(部分)
円山応震筆 江戸時代・天保5年(1834)
(注)展示の予定はありません



大嘗会屛風のうち悠紀屛風 嘉永元年度九月・十月帖(だいじょうえびょうぶのうちゆきびょうぶ かえいがんねんど くがつじゅうがつちょう)
土佐光孚筆 江戸時代・嘉永元年(1848)


最後にご紹介するのは、天皇が即位した際に行なわれる大嘗会の際に制作される大嘗会屛風です。京都から東の悠紀国、西の主基(すき)国からそれぞれ一国が選ばれ、その名所を詠んだ和歌と景色を描いたものです。
令和度は、悠紀は栃木県、主基は京都府だったことは記憶に新しいところですが、この屛風は嘉永元年、孝明天皇が即位した際の悠紀国(近江国)の屛風です。
頻繁に展示される作品ではないため、この機会にぜひ御覧いただければと思います。

以上、駆け足で展示作品をご紹介してきましたが、近世やまと絵の魅力はまだまだ語りつくすことはできません。
今回の特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」で出品している作品は、一般に知られる名品からあまり展示されることのない逸品まで、さまざまな作品を厳選しています。
ぜひ会場で各流派の画家たちが描く近世やまと絵の多様さを体感いただければと思います。
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」と合わせて、中世から近世への900年に及ぶやまと絵の歴史とその変化を一気にご堪能いただけたら幸いです。
主要作品を載せたリーフレットも、本館インフォメーションにて好評配布中です。
また、今回の出品作品が多く掲載された『東京国立博物館所蔵 近世やまと絵50選 江戸絵画の名品』(吉川弘文館、2023年)も好評発売中です。
合わせてぜひ御覧ください。

 

カテゴリ:絵画「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 大橋美織(保存修復室主任研究員) at 2023年11月07日 (火)

 

やまと絵展 「本物」を見るということ 

現在開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」。多くのお客様にお越しいただいています。展示されている作品はどれもこれも超有名作品ばかり。貸出をお許し下さったご所蔵者の皆様に改めて御礼申し上げます。

さて、お客様からは「教科書で見たことがあるけれど、「本物」を初めて見た」といったお声を多くいただいています。ですが、教科書や本で見るのと「本物」を見るのは大違い。ここでは、教科書や本などで見た印象が「本物」を前にした時に覆るいくつかの事例をご紹介したいと思います。

 

ケース1.思ったよりも大きい

「「本物」を初めて見た」に続く感想として、「これ、こんなに大きかったのを知らなかった」という声が多く聞かれました。例えば、教科書でも登場することの多い四大絵巻のうちの「信貴山縁起絵巻」や「鳥獣戯画」は、「意外に大きい」という感想を中学校の生徒さんから聞きました。
 


国宝 信貴山縁起絵巻 飛倉巻(しぎさんえんぎえまき とびくらのまき)
平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺蔵
展示期間:10月11日(水)~11月5日(日)

大きさ参考:展覧会オリジナルグッズ 百鬼夜行キーチェーン 990円(税込)
特別展会場特設ショップで販売中の「百鬼夜行キーチェーン」は約8センチメートル。
国宝「信貴山縁起絵巻 飛倉巻」と比較すると、作品の大きさがわかります。



国宝 鳥獣戯画 乙巻(ちょうじゅうぎが おつかん)
平安~鎌倉時代・12~13世紀 京都・高山寺蔵
展示期間:10月24日(火)~11月5日(日)

本展出品作のうち、この「思ったよりも大きかった」作品の最たるものが、「神護寺三像」(展示期間:10月24日(火)~11月5日(日))ではないでしょうか。なかでも「伝源頼朝像」は、「教科書で見たことがある」歴史上の人物のなかでも、最も有名な肖像かもしれません。教科書に載る画像はせいぜい履歴書の写真くらいの大きさで、「本物」のサイズ感は伝わりません。展覧会のチラシでも、「横幅1メートルを超す一枚絹に描かれた、ほぼ等身大の巨大人物像」と記しています。この文字情報からは「へー、大きいんだー」くらいの感想しか浮かばないと思います(このテキストを書いたのは私なので、そのスケール感をきちんと伝えられていないのはひとえに私の責任です)。


(左から)国宝 伝源頼朝像(でんみなもとのよりともぞう)国宝 伝平重盛像(でんたいらのしげもりぞう)、国宝 伝藤原光能像(でんふじわらのみつよしぞう)
鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺蔵
展示期間:10月24日(火)~11月5日(日)

 

ただ実際の作品の前に立ってみると、その大きさに圧倒されます。今年の春に開催していた特別展「東福寺」では、会場に大きな肖像画がたくさん並んでいました。ですがこれらは僧侶の肖像画であり、さらに「伝源頼朝像」ほど大きくありません。「伝源頼朝像」は肖像画としては破格の大きさと言えるのです。「神護寺三像」のうち、「一つを家に持って帰ってもいいよ」と言われても、ちょっと大きすぎて遠慮したいほどの大きさでしょう。一般家庭の床の間にとうてい掛かる大きさではありません。
 

この画像については、像主の問題などさまざまに議論されていますが、これだけ大きな画像を作るには何か特別な理由があったはずです。またこの大きさの画像を掛ける場所も問題です。神護寺ではどこにこの巨大な三像を掛けていたのか。この「破格の大きさ」こそ、神護寺三像の謎を解くヒントになりそうですが、それはまたの機会に。ともかくこの三像はとにかく大きい。まずは教科書では分からない「大きさ」を会場で実感していただきたいと思います。
 


ケース2.思ったよりも小さい

これに対して「あれ、意外に小さいな」というのは「紫式部日記絵巻断簡」でしょう。通常の絵巻が縦約30センチメートルなのに対し、20センチメートルほどしかありません。でも実物を見ると以外に小ささを感じさせないのは表具に秘密があります。
 


重要文化財 紫式部日記絵巻断簡(むらさきしきぶにっきえまきだんかん)
鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵

通常掛軸は本紙の上下に一文字(いちもんじ)と呼ばれる裂(きれ)があり、その外側に中縁(ちゅうべり。中廻しとも)と呼ばれる別の裂が付いています。「紫式部日記絵巻断簡」は一文字がなく、本紙の外側にすぐ金襴(きんらん)の中縁があるのですが、これが華やかな画面と一体化して絵巻を大きく見せる視覚的な錯覚を起こしているのです。これはこの絵巻が巻物から掛幅へ改装された際の工夫と言えるでしょう。
 

ただ、この20センチほどの「小ささ」には、一つ秘密があります。会場を見回してみると、これとほぼ同じサイズの絵巻を見つけることができます。それが国宝「源氏物語絵巻」(愛知・徳川美術館蔵、東京・五島美術館蔵)です。さらに同じような大きさの絵巻を探してみると「伊勢物語下絵梵字経」、「尹大納言絵巻」の縦も20センチちょっと、「寝覚物語絵巻」「葉月物語絵巻」「伊勢物語絵巻」「隆房卿艶詞」はこれよりもやや大きいですが、通常絵巻よりは小さなサイズです。
 


重要美術品 尹大納言絵巻(いんだいなごんえまき)
[詞書]伝花山院師賢筆 南北朝時代・14世紀 福岡市美術館蔵
(注)会期中、展示替えあり


重要文化財「隆房卿艶詞」(たかふさきょうつやことば)(左)と比べると「尹大納言絵巻」(右)のほうが小さいです。

おそらくは、平安時代から鎌倉時代、王朝物語系の作品を絵画化する際の規範としてこのサイズが選ばれていたのだと推測されます。室町時代後期になると、「硯破草紙」「うたたね草紙」など、縦15センチ程度の「小絵」と呼ばれる絵巻が多く作られますが、これは主題によるサイズの選択というよりは制作費に伴う経済的な理由があったものでしょう。ちなみに、王朝物語ではない「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」「辟邪絵」など、平安時代後期の後白河院の蓮華王院宝蔵絵だったとされる六道絵巻が26~27センチと若干小ぶりなのがなぜなのか、最近気になっています。
 


国宝 地獄草紙(じごくぞうし)
平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵
展示期間:10月11日(水)~11月5日(日)

さて、「紫式部日記絵巻断簡」の表具部分は図録ではカットしていますし、図録は各図版の比率が一定ではないので、ここにあげた絵巻の「小ささ」も図録では分かりにくいところです。文字で書かれた法量(サイズ)はあくまで数字で、私たちの身体感覚に訴えることはありません。例えば「古今和歌集巻第十二残巻(本阿弥切)」。数字上は「縦16.7」とあり、展示前の私の頭の中にもこの数字が入っていたはずですが、実際に展示した後、「あ、こんなに小さかったんだ」と思いを新たにしました。
 

こうした脳内で作り上げた作品の「大きい」「小さい」について、最近の個人的な経験としては「那智瀧図」が挙げられます。いつのことだったか、初めてこの作品を見た時感じたのは「意外に小さいな」という印象でした。ただ今回、作品を拝借に伺った際に見た時の印象は「あれ、こんなに大きかったっけ」というものでした。私の脳内では作品が大きくなったり小さくなったりしているということです。「那智瀧図」は第四期に展示されます。当館の会場に展示されたこの作品に、果たして私は「大きい」と感じるのか、「小さい」と感じるのか。今から楽しみです。
 

教科書などで見たことはあるけれど、「本物」を見るのは初めて。そんな時、その印象の違いに大きく驚く。あるいは、かつて見たことのある作品に再会した時、全く違った印象を覚えて、自らの作品への想いを大きく揺さぶられる。こうした私たちの心に直接働きかけるのは、なによりもやはり「本物」が放つ強烈なパワーのなせるわざと言うことができるでしょう。
 

やまと絵展では、こうした「本物」の作品の数々が、会場で皆様をお待ちしています。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 土屋貴裕(絵画・彫刻室長) at 2023年11月01日 (水)

 

和鏡の文様を愉しむ

1089ブログ「和鏡への道のり」では和鏡の成り立ちと特色についてお話しさせていただきました。
今回は、和鏡の文様についてもう少し詳しくご紹介いたします。

特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場の写真
特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美
平成館企画展示室にて2023年11月19日(日) まで。


中国・唐の時代の鏡と宋の時代の鏡を掛け合わせて発展させ、日本人の好みに合わせた文様(もんよう)を施すことで平安時代・11世紀後半頃に成立したと考えられるのが和鏡(わきょう)です。
和鏡には今日、日本の伝統意匠として知られるような様々な文様が見られます。和鏡の極致とも称される、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」のうちにそれらを探し、和の文様を愉(たの)しみたいと思います。

和の文様の代表格ともいえるのが、「松喰鶴(まつくいづる)」の文様です。松の折枝(おりえだ)を銜(くわ)えた鶴が優雅に舞う文様は、鏡の他に箱や櫃(ひつ)などの調度品にも用いられました。元を辿るとペルシアの咋鳥文(さくちょうもん)が中国・唐に伝わって流行し、奈良時代に日本に伝えられた文様が原形です。正倉院宝物にもよく見られ、含綬鳥(がんじゅちょう)や花喰鳥(はなくいどり)として知られています。これが日本でめでたい鳥とされる鶴に置き換わり、同じくめでたい植物である松を銜えるようになったのが松喰鶴で、代表的な吉祥文様の一つです。

松喰鶴鏡(まつくいづるきょう)に見られるように、和鏡の文様としては、中央の鈕(ちゅう 紐を通すための孔(あな)を開けたつまみ)を挟んで鶴が向かい合い、優雅に旋回する文様が定番で、王朝文化の花開いた平安時代らしい優美な趣に満ちています。


松喰鶴鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15441)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


構図の源流には、唐で作られた瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)や、これらを元に日本で構成された瑞花双鳳八稜鏡がありますが、余分な要素を削ぎ落とし、洗練させた文様構成は、高度な発展を遂げた貴族文化の結晶といえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)
(展示の予定はありません)



続いてご紹介するのは、本館14室で行われている特集「日本の伝統模様『秋草』」でも取り上げられている秋草の文様です。
秋草は「もののあはれ」を催させる存在として、日本文化に重要な位置を占めてきました。源氏物語絵巻に代表される王朝絵巻でも、登場人物の心象を表すモチーフとして重視されています。秋草は鏡の文様としても頻繁に用いられており、萩や薄(すすき)、秋の七草には入っていませんが菊などがよく見られます。

秋草蝶鳥鏡(あきくさちょうとりきょう)を見てみましょう。
ここでは土坡(どは 土の盛られたところ)あるいは水流の一部のようなところから、左に薄が穂を垂れ、右側では円周に沿って三角形の花房を付けた萩と円形の花弁を広げた菊とが勢いよく伸びています。鈕の左には仲睦まじく飛び交う2羽の鳥が配置されています。これは鈕を挟んで整然と向かい合う構図だったものが崩れ、2羽の鳥という要素が残り、番(つがい)の鳥としてめでたいモチーフに昇華されていったものと思われます。
この鏡には縁の内側に界圏(かいけん)が一条めぐらされていますが、本来文様を構成する上で内区と外区を分けるために施されたはずの界圏の上に鳥や植物が乗っかっており、ほとんど意味をなさなくなっています。しかしながら、よく見ると、外区の左に1頭の蝶、上と右に蜻蛉(せいれい)が表されているのがわかります。これらは唐鏡の外区にしばしば表されていたモチーフで、ここでは古い要素が残されているのが確認されます。
蝶の盛りは春、蜻蛉はカゲロウとみれば夏でしょうか、徒花(あだばな)のように外区に残るこれらの虫は、秋を迎えいよいよ終焉を迎えようとする存在であり、一層、儚(はかな)さやものがなしさを催させるモチーフであったと想像されます。


秋草蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15419)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



最後にご紹介するのは、先に見た秋草蝶鳥鏡をさらに展開させたような水辺に生える植物を主題とした文様です。身近な野辺(のべ)の風景を、文様的な意匠化された要素を排し、絵画のように表したこうした文様は、同時代のやまと絵山水に通じるものといえます。この時代のやまと絵の遺例は極めて限られることから、それらを補う存在であるともいっても過言ではないものです。

水辺芦双鷺鏡(みずべあしそうろきょう)は、下方に水流を大きく表し、その周囲に草を配置しています。水流の上流に当たるのでしょうか、右の鳥の足下には岩のようなものも確認されます。岩の右から松が伸びているようで、水景と樹木と岩を備えた山水図のような構成になっていることがわかります。呼び合うような大振りの鷺も存在感があります。また、梅花蝶鳥鏡(ばいかちょうとりきょう)は、鈕の下方を水流が横切り、周囲に草が生えています。鈕を通って華奢(きゃしゃ)な梅の木が表されており、大きく枝を広げています。鳥は梅の枝を避けて配置されているようです。梅を主役にした構図は、シンメトリーやバランスを重視してモチーフを配置する文様的な構成ではなく、絵画的な構成を選択した結果であると思われます。


水辺芦双鷺鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15414)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

梅花蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15406)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



これらは平安時代の末に作られたと考えられる作例ですが、少し時代がくだって鎌倉時代に作られたと考えられる洲浜萩双鳥鏡(すはまはぎそうちょうきょう)を見てみましょう。こちらでは下方に水辺にできる洲浜が広がり、波のようなものも表されています。そこから大樹のように萩が枝を広げており、それを避けるかのように2羽の鳥が鈕の左に表されています。花が咲き鳥が舞う理想郷を想起させるとともに、樹木状の植物が文様の主役になってきていることがわかります。またその中で、洲浜と水の存在は、「場所」を意識させるものとして、非常に重要と思われます。浮遊する文様が居場所を見つけたといってもよいでしょうか。そこにはある種の「風景」が存在しているのです。


洲浜萩双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 鎌倉時代・13世紀(E-15442)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



鎌倉時代から、南北朝時代を経て、室町時代に至るいわゆる中世には、蓬莱鏡(ほうらいきょう)と呼ばれる、東海の理想郷・蓬莱山(ほうらいさん)を表したとされる文様を施した鏡が流行しました。鎌倉時代の作である蓬莱鏡はその典型例で、下方に波と洲浜が広がり、右方には岩と松が存在感を示し、鈕の左には2羽の鶴が洲浜の上に羽を広げています。鈕は亀形となり、岩の下方に配置された亀とともに、鶴亀文様を構成しています。左方の洲浜と右方の岩から伸びた竹は、松とともに松竹文様を構成しており、常に緑を保つ常磐木(ときわぎ)と長寿を象徴する鶴亀とで、蓬莱山を表しています。身近な野辺の景色と思われた山水描写は、年月を経て、理想の世界へと昇華していったと考えられるのです。
蓬莱文様は、江戸時代にも婚礼調度などに盛んに用いられました。古い家ではまだ、蓬莱文様の鏡や柄鏡(えかがみ)が眠っているかもしれません。その源流は平安時代の鏡に見られる水辺の文様へと辿ることができるのです。


蓬莱鏡
鎌倉時代・13世紀(E-19965)
(本館3室にて展示中。2023年12月3日まで)



この他にも、山吹や桜、楓(かえで)などの身近な植物を主題にした文様や網を張ったような文様(網代文<あじろもん>)など、いろいろな文様がありますので、心になじむ和の文様を愉しんでいただければと思います。

ところで、羽黒鏡は、羽黒山にある出羽三山神社の御手洗池から、大正初年から昭和初年にかけて4度にわたって行われた池の工事に伴い発見されたもので、ご神体と考えられた池に、祈願や報賽(ほうさい お礼参り)のために宝物を投げ入れる「投供(とうぐ)」の儀礼によって奉納されたと考えられています。洗練された作風から、平安京で作られたと考えられており、いずれも直径10センチメートル前後と小振りなのは、出羽三山修験(しゅげん)の行者などに託し、運搬しやすいように取り計らわれたためかもしれません。
ここでは紹介できなかったような多種多様な美しい文様が見られるのは、都の貴顕(きけん 身分が高い人)が思い思いに、自分の最も好んだ一面に願いを託したためかもしれません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

| 記事URL |

posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月24日 (火)