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クレオパトラとエジプトの王妃展、開幕!

7月11日(土)、「クレオパトラとエジプトの王妃展」がついに開幕しました。




開幕に先立ち、7月10日(金)には開会式・内覧会を行い、大変多くのお客様にご出席いただきました。




さて、展示室に入ってすぐ、ひとりの美女がさっそくお客様の目線をくぎづけにしています。


クレオパトラ
ダニエル・デュコマン・ドゥ・ロクレ作
1852~53年
マルセイユ美術館蔵


この美女こそが、古代エジプト最後の女王にして本展のヒロイン、クレオパトラ(7世)です。
クレオパトラについては前回もご紹介しましたが、共同統治者として君臨し、弟との権力争いや、2人のローマの英雄との恋、そして彼女の死とともに古代エジプト王国も終焉を迎えるという大変ドラマチックな人生を歩みました。
さすがは、歴史に名を残す女王クレオパトラ。ローマの英雄どころか、お客様もすっかり虜です。

私たちのハートを奪い去る魅力を備えた女性は、クレオパトラだけではありません。
本展の注目作品として何度もご紹介してきたのが「アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ」(ブリュッセル、王立美術歴史博物館蔵)。
ついに本物に会えました! 日本初公開です!!
日本でこのレリーフをご覧になるのを楽しみにされていた近藤二郎教授(本展監修者)、内覧会時の作品解説はいつも以上にアツイ解説となりました。



日本を代表するエジプト学の研究者をも虜にしてしまう王妃ティイの魅力、恐るべし。


「小顔だねー」と、女性ならときめかずにはいられない言葉を一身に浴びていたのが、こちらの作品。


王妃の頭部
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代 アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
ベルリン・エジプト博物館蔵


アメンヘテプ4世の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)の像とも、別の王妃の像とも考えられています。
ポスターやチラシにも登場している作品なので、目にされた方も多いのではないでしょうか。
こちらの像、写真で見るイメージよりも小顔なんです。そして美人なんです!!!
ぜひご自身の目で確かめてみてください。


本展は世界14ヵ国約180件もの作品が集結した展覧会です。
他にもご注目いただきたい作品や魅力的な王妃たちが多数!
そんななか、敢えてもうひとつ注目ポイントを挙げるならば、普段目にする機会の少ない個人コレクションの優品も多数出品されているということです。
西アジアの考古学が専門の、本展の担当研究員も「今まで本物を見たことがなかったけど、かなり良いもので驚いた!!」と興奮気味に語っていました。


青色彩文土器(魚)
新王国・第18王朝時代(前1550~前1292年頃)
アル・タニコレクション


今後、こちらのブログで展覧会の見どころを研究員が(そしてトーハクくんが)どんどん紹介していきます。
どうぞご期待ください。



平成館ラウンジには、撮影スポットを設けています。
ご来館の記念にどうぞ!

カテゴリ:news2015年度の特別展

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posted by 高桑那々美(広報室) at 2015年07月13日 (月)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(4)~クレオパトラ~

「クレオパトラとエジプトの王妃展」で注目の王妃を紹介するシリーズの第4回です。
今回のヒロインは、展覧会のタイトルにも登場するクレオパトラ。
彼女は「絶世の美女」「悲劇の女王」と呼ばれるなど、魅力あふれる女性でした。
そのため死後も彼女を題材にした数多く彫像や絵画、小説や映画などが作られています。ごく最近でも某ファストファッションブランドのCMでのなかで、香椎由宇さん演じるクレオパトラが三大美女のひとりとして登場しています。

実はクレオパトラの名前をもつ王妃が歴史上数人いることをご存知でしょうか?
一般にいうクレオパトラは、クレオパトラ7世を指しています。
クレオパトラ7世は、プトレマイオス12世の娘として紀元前69年に生まれました。彼女が生きた時代のエジプトは、プトレマイオス朝エジプトとも呼ばれ、アレクサンドロス大王の東方遠征に従った将軍のひとり、プトレマイオスが、大王の没後、王を宣言して独立したギリシア系の王国でした。
この王国の最後の女王がクレオパトラ7世です。

 
(左)クレオパトラ
ローマ出土
プトレマイオス朝時代
クレオパトラ7世治世(前51~前30年)
ヴァチカン美術館蔵
Photo(C)Vatican Museums. All rights reserved
クレオパトラの代表的な彫像のひとつです。いわば定番中の定番のクレオパトラ像、
頭には幅の広い帯状の冠を被っています


(右)クレオパトラ
出土地不詳
プトレマイオス朝時代(前1世紀中頃)
トリノ古代博物館蔵
(C)Archivio Soprintendenza per i Beni Archeologici del Piemonte e del Museo Antichità Egizie
こちらの彫像は、近年クレオパトラ像として指摘された作品です

これらふたつの彫像は、いずれもギリシア様式の特徴をもつ王妃の像ともいえます

 
クレオパトラ
出土地不詳
プトレマイオス朝時代(前200~前30年頃)
メトロポリタン美術館蔵
Photo(C)The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais / image of the MMA
3匹の聖蛇ウラエウスがつく冠はエジプト風、巻き髪のヘアスタイルはギリシア風のクレオパトラ像。
ギリシア系の王国の女王であり古代エジプトの女王、という両面をあわせもつクレオパトラをよく表わしています



父王がなくなった紀元前51年、クレオパトラは弟プトレマイオス13世とともに共同統治を行いますが、弟はまだ幼く歳が離れていることもあって、実際は彼女の単独統治といえるものでした。
クレオパトラ女王の誕生です。
しかし、彼女は弟の支持者によって国を追われてしまいます。
この姉弟の権力闘争のなかで登場するのが、ローマの英雄カエサルです。
クレオパトラはカエサルを後ろ盾とすることで、この争いに打ち勝ち、再び女王の座に返り咲きます。
ところが、カエサルの突然の暗殺によって、彼女は物心両面の支えを失います。
新たにカエサルの副官であったアントニウスと関係を結びますが、後にローマ帝国初代皇帝となるオクタウィアヌスにアクティウムの海戦で敗れ、紀元前30年に自らの短い生涯を閉じました。

 
クレオパトラとアントニウスの銀貨
シリア出土
プトレマイオス朝時代
クレオパトラ7世治世(前51~前30年)
古代オリエント博物館蔵
銀貨の表と裏に表わされたクレオパトラ(写真左)とアントニウス(写真右)は、二人の親密な関係を示しています。
当時のコインは民衆に王の姿を伝えるために、忠実に表わされました



ここまで紹介してきたクレオパトラゆかりの作品と、みなさんが思い浮かべるクレオパトラの姿と違いはありませんか?
私たちがよく知るクレオパトラのイメージは後世に創られたものです。
西欧諸国ではルネサンス以降、旧約聖書の逸話を題材とする絵画が描かれ始めます。
また古代もまた題材として選ばれました。
17・18世紀になると西欧諸国のエジプトへの進出とともに、古代エジプトへの関心とあこがれは高まりをみせます。
そのようななか、美しさと知性そして波乱の人生を送ったクレオパトラは、彫像や絵画、小説の格好の題材として選ばれ、物語の主人公として新たに生まれ変わったのです。


オクタウィアヌスにカエサルの胸像を示すクレオパトラ
ポンペオ・ジローラモ・バトーニ筆
1755年か
ディジョン美術館蔵
(C)Musée des Beaux-Arts de Dijon. Photo Hugo Martens
クレオパトラがカエサルの胸像を前にし、彼との親交を語ることでオクタウィアヌス(後のローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)の心を解こうする場面です。
クレオパトラは描かれた当時の衣装に身を包み、気品に満ちた姿で描かれています


 
クレオパトラ
ダニエル・デュコマン・ドゥ・ロクレ作
1852~53年
マルセイユ美術館蔵
(C)Musées de Marseille / photo Jean Bernard
逸話をもとにクレオパトラの死の場面を象徴的に表わした像。胸をあらわにした彼女の右腕には毒蛇が絡みついています。
彼女は古代エジプトの女王としてではなく、妖艶な美女として表現されました



ぜひ本展で、古代エジプト最後の女王として君臨したクレオパトラの姿とともに、後の世で物語や伝説のなかで永遠の命を得たクレオパトラの姿を、あわせてお楽しみください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2015年07月07日 (火)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(3)~ネフェルトイティ~

「クレオパトラとエジプトの王妃展」で注目の王妃について、紹介するシリーズです。
第3回目のヒロインは、アメンヘテプ4世(後にアクエンアテンと改名)の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)。
クレオパトラとともに、「絶世の美女」と称されることの多い人物です。彼女の生きた時代をご紹介します。

前回はアメンヘテプ3世と王妃ティイについての紹介しましたが、その跡を継いだのが、この2人の息子であったアメンヘテプ4世です。
彼はアテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アマルナに新都を建設したことで知られています。
名前もアメンヘテプ(意味:アメン神は満足する)から、アクエンアテン(意味:アテン神に有益な者)と改名しています。
この王を正妃として支えたのが、王妃ネフェルトイティでした。


王妃ネフェルトイティのレリーフ
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
アル・タニコレクション
(C)Alexander Braun
アメンヘテプ4世とその家族が、アテン神を崇拝する様子がよく描かれました。
このレリーフもそうした場面の一部であるかもしれません



アテン神信仰の始まり
新王国時代の王は、広大な領土から集められる富を、国家の守護神であるアメン神に捧げました。
その結果、アメン神の神官たちの力が次第に大きくなり、政治的な影響力をもつようになります。
これは、王にとっては頭の痛い問題でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、太陽神であるアテン神です。
すでにアメンヘテプ3世が、人造湖の完成式典で「輝くアテン」という名の船に乗り、自らの王宮を「ネブマアトラーはアテンの輝き」と呼ぶなど、アテン神を意識することで、アメン神官団を牽制していることがうかがえます。

 
アテン神のレリーフ ※写真右は部分
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
アル・タニコレクション
(C)Alexander Braun

アテン神は空に輝く日輪の神で、地上に降り注ぐ光はアテン神の手として描かれました

アメンヘテプ4世は、父王アメンヘテプ3世の治世30年を祝う祭礼に際して、カルナクにアテン神殿を建設しました。
この神殿の壁面には、王妃ネフェルトイティが単独で描かれている場面があります。
通常、王妃は王に付き添ったかたちで描かれることを考えると、彼女が、先代の王妃ティイと同様に、政治や儀式の中で重要な役割を担っていたことがうかがわれます。


アマルナへの遷都
アメンヘテプ3世の跡を継いで即位したアメンヘテプ4世は、アクエンアテンと改名し、アテン神を唯一神とする宗教改革に乗り出しました。
治世5年頃には、宗教的な伝統やしがらみと決別するために、アマルナの地に新しい王都を建設しました。
アマルナでは宗教改革とともに、ありのままの姿を表現する写実的な美術表現が発展しました。
アメンヘテプ4世が目指す新しい国づくりの一環であったと考えられます。


王妃の頭部
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
ドイツ ベルリン・エジプト博物館蔵
Staatliche Museen zu Berlin - Ägyptisches Museum und Papyrussammlung, inv.-no. ÄM 21245,
photo: Sandra Steiß


アマルナ様式の彫像で、王妃を表したものと考えられています。
碑文がないために、残念ながら誰の像であるかはわかりませんが、王妃ネフェルトイティのものであるかもしれません。
その他、アメンヘテプ4世には、王妃ネフェルトイティのほかにも、キヤという名の有力な王妃がいました。
この彫像は、キヤの像であるとする説もあります。
キヤはツタンカーメン王の母とも考えられている王妃です。

対外政策
今回の展覧会では、楔形文字が刻まれた2件の粘土板文書が展示されます。
これらはアマルナの王宮址で発掘され「アマルナ文書」と呼ばれる文書に属するものです。
アマルナ文書の大部分は、アメンヘテプ3世の治世後半からアクエンアテン王の治世に、エジプトが諸外国と交わした外交文書で、当時の国際情勢を今に伝える重要な資料です。


ミタンニ王トゥシュラッタから王妃ティイへの書簡
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved


ミタンニ王国は、現在の北シリアにあった王国です。
当時、ミタンニ王は3代続けてエジプトの王室と婚姻関係を結んでおり、両国は親密な関係にありました。
写真の、トゥシュラッタ王の手紙は、王の母としてアマルナで暮らしていた王妃ティイに宛てたものです。
息子のアメンヘテプ4世に父王と同様の友好関係を維持するように、これまでの両国のやり取りをよく知っている王妃ティイから話してほしい、という内容です。
アメンヘテプ4世の時代は、おそらく宗教改革や新都の建設といった事業の余波もあり、エジプトの対外政策は消極的なものでした。

王妃ネフェルトイティの足跡は、「アマルナ文書」の中には残されていません。
また、彼女は、アクエンアテン王の治世後半には、エジプト側の記録からも忽然と姿を消してしまいます。
王妃ネフェルトイティの出自や経歴には不明な点が多く、今後の発見が期待されるところです。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 小野塚拓造(特別展室アソシエイトフェロー) at 2015年06月30日 (火)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(2)~ティイ~

「クレオパトラとエジプトの王妃展」で注目の王妃について、紹介するシリーズです。
第2回目のヒロインは、アメンヘテプ3世の王妃ティイ。
今から3400年ほど前、新王国・第18王朝時代の絶頂期であった頃の王妃です。
ティイの名前をご存知ない人も、彼女の次男・アメンヘテプ4世(後のアクエンアテン王)の名前は、聞いたことがあるかもしれません。
ティイとはいったいどのような王妃だったのでしょうか。
娘として母として、そして妻としてのティイをご紹介します。


アクミムのイウヤの娘ティイ
王妃ティイは、新王国・第18王朝時代の9代目の王であるアメンヘテプ3世の妃です。
一般に、ティイは王族ではなかったために、新王国時代で最初の平民出身の王妃であるとされていますが、実際は、アメンヘテプ3世の父親であったトトメス4世もまた、王族出身ではないネフェルトイリを正妃としています。
この王族ではない女性を正妃とするトトメス4世の婚姻は極めて異例のものであったとされています。
王族でなかったティイが正妃となったことも、異例な結婚としてしばしば強調されていますが、このことは何を意味していたのでしょうか。

新王国時代は、王族の女性と結婚することが慣例でした。
そんな伝統的な王の婚姻慣習を破ってまでも、王族出身ではない女性との結婚は、専制王としての王権の増大を示しているとの見方も存在しています。
「アメンヘテプ3世の記念スカラベ(王妃ティイとの結婚)」には、王妃ティイの両親の名前が刻まれています。


アメンヘテプ3世の記念スカラベ(王妃ティイとの結婚)
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
ウィーン美術史美術館蔵
Kunsthistorisches Museum Vienn


それによると、ティイの父親はイウヤ、そして母親はチュウヤという人物です。
イウヤは中部エジプトのアクミム出身の有力者であり、アメンヘテプ3世は、イウヤの娘と結婚することで強力な王権を築くことができたものと考えられます。
イウヤとチュウヤは、王家の谷に彼らの墓(KV46)を築く特権を得ました。
ちなみにこの墓は、1905年にイギリス人考古学者のキベル(J. E. Quibell)により発見され、墓内部からは非常に保存状態の良いミイラ・マスクをつけた二人のミイラが発見されるとともに、副葬された品々も発見されています。


王母としてのティイ 
「アメンヘテプ3世の記念スカラベ(湖の造営)」には、アメンヘテプ3世の治世11年に、王妃ティイの出身地であるアクミム近郊のジャルカという町に、長さが1.9㎞、幅が0.36㎞の巨大な人造湖を2週間ほどで完成させたことが記されています。


アメンヘテプ3世の記念スカラベ(湖の造営)
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved


王は、この湖の完成の式典で「輝くアテン」という名の船に乗ったことが記されています。
アマルナ時代に唯一神として崇拝されたアテンの名前が使われていたことは、非常に興味深いことです。
この太陽神アテンを唯一神とする宗教改革を断行したアメンヘテプ4世は、冒頭でもご紹介したとおり、アメンヘテプ3世と王妃ティイの息子でした。
このように王妃ティイは、王の母でもあったのです。

アメンヘテプ4世は、王の治世4年に中部エジプトに位置するテル・アル=アマルナの地を公式訪問します。
この公式訪問には、王妃ネフェルトイティとともに、母であるティイも同行しました。
そして、アマルナに新しい王宮の建設が決定され、王は自らの名前を「アクエンアテン(アテン神に有益なもの)」と改名し、アテン神を唯一神とし、伝統的な美術様式にはとらわれない「アマルナ様式」という新しい美術様式が作られました。
新王国・第18王朝時代の大きな変革期であるアマルナ時代の誕生に、王妃ティイは重要な役割を演じたと考えられます。


王のパートナーとしてのティイ
エジプトの首都があるカイロの南100キロほどのところにあるファイユーム地域のグラーブ遺跡には、新王国時代の王のハーレムがありました。
第18王朝時代のトトメス3世により造営が始まり、その後、新王国時代(第18~20王朝)を通じて利用されていたことが知られています。
このグラーブ遺跡から、ティイの名を刻した供物台が発見されています。
これはティイがアメンヘテプ3世のために副葬品として用意したものです。
この供物台では、ティイが夫であるアメンヘテプ3世を「兄」と呼んでおり、二人の親密な関係を想起させます。


王妃ティイの供物台
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代
アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


王妃ティイの名前が、アメンヘテプ3世の名前と並んで記されている作品が数多く残されています。
第18王朝時代の絶頂期の王アメンヘテプ3世のパートナーとして王妃ティイは、常に夫とともにいたことを示しています。
このことから王妃ティイは、王の補佐役として重要な役割を果たしていたと考えられます。


王家の谷・西谷に造営されたアメンヘテプ3世墓(KV22)の中には、ティイのための部屋(Je室)が用意されていましたが、王の死後、息子のアメンヘテプ4世とともにアマルナ王宮に移り住みました。
ティイの孫にあたるツタンカーメン王墓からは、彼女の髪の毛が発見されています。
ツタンカーメン王と祖母であるティイの関係はどのようなものだったのでしょうか。
アマルナ時代が終わった後に、ティイの遺体は再びテーベに戻されたと推定されています。
「年配の婦人(the Elder Lady)」と呼ばれる髪の長い女性のミイラが、ティイのものではないかとされています。
王妃ティイは、まだまだ謎の多い女性です。


アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ」も必見です
左側が本展監修の近藤二郎教授
(写真右)アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ
テーベ西岸 ウセルハト墓出土
新王国・第18王朝時代
アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
ブリュッセル・ベルギー王立美術歴史博物館蔵
(C)RMAH

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 近藤二郎(早稲田大学教授) at 2015年06月24日 (水)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(1)~ハトシェプスト~

古代エジプトの王妃や女王がテーマの「クレオパトラとエジプトの王妃展」
展覧会では多くの王妃たちが登場しますが、なかでもご注目いただきたい4人の王妃について、4回にわたってご紹介します。
予習をしてお越しいただければ、一層、展覧会をお楽しみいただけるはずです!

第1回目は、新王国・第18王朝時代のハトシェプスト女王。
今から約3500年前頃に活躍した女性です。
3000年も続いた古代エジプトですが、大きな権力をもった王妃は何人もいながら、女王となることは稀でした。
彼女が女王となれたのはなぜでしょうか?

イアフメス王の血筋
この頃のエジプトでは、王位継承の条件として血筋が極めて重要でした。
そこでキー・パーソンとなるのが王女です。
たとえば、ハトシェプストの父トトメス1世は、第18王朝を樹立したイアフメス王の王女と結婚して王位につきました。
二人の間に生まれたハトシェプストは、母から王家の血筋を受け継いだことになります。
トトメス1世の跡を継いだトトメス2世は側室の生んだ王子でしたが、正妻の娘であるハトシェプストと結婚することで、王家の血筋を強固なものにしました。
後に、ハトシェプストが大きな力を得たのも、イアフメス王の血筋の継承者という前提があったからでもあります。

ちなみに、展覧会ではイアフメス王のシャブティ像をご覧いただけます。
オシリス神の格好をした王が丁寧に削り出されています。
現存する王のシャブティとしては最古のものです。どうぞお見逃しなく!


イアフメス王のシャブティ
テーベ西岸出土か
新王国・第18王朝時代 イアフメス王治世(前1550~前1525年頃)
イギリス 大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved



王妃ハトシェプストから、「男装の女王」ハトシェプストへ
ハトシェプストの夫トトメス2世は、わずかな治世ののち、亡くなります。
側室が生んだ王子トトメス3世はまだ幼く、このような場合の伝統に従って、王妃ハトシェプストがトトメス3世の共同統治者となりました。
ハトシェプストは当初から実権を握っており、数年後には「ファラオ」を名乗るようになります。
いつしか彼女は完全な男性の格好で、自身を表現するようになります。
展覧会では、王妃時代のハトシェプストとされる彫像と、男装姿の、女王となってからの彫像を見ることができます。
前者の柔らかな表情と、為政者となった後者の凛々しい表情を比較してみてください。


王妃ハトシェプスト(部分)
出土地不詳
新王国・第18王朝時代 トトメス2世~ハトシェプスト女王治世
(前1492~前1458年頃)
アメリカ ボストン美術館蔵
Gift of Mrs. Joseph Lindon Smith in memory of Joseph Lindon Smith, 52.347, Museum of Fine Arts, Boston. Photograph (C)2015MFA, Boston



壺を捧げるハトシェプスト女王
ルクソール ハトシェプスト女王葬祭殿出土
新王国・第18王朝時代 ハトシェプスト女王治世
(前1473~前1458年頃)
ドイツ ベルリン・エジプト博物館蔵
Staatliche Museen zu Berlin – Ägyptisches Museum und Papyrussammlung, inv.-no. ÄM 22883, photo: Sandra Steiß



ハトシェプスト女王の業績
ハトシェプストは、内政に優れた手腕を発揮したとして知られ、周辺地域と平和的な関係を築き、交易活動に力を注ぎました。
これは、軍事遠征を繰り返し第18王朝の他の王たちとは対照的です。
なかでもプント(現在のエチオピアやエリトリア周辺と考えられている)に派遣した交易使節団が有名で、ハトシェプスト女王葬祭殿のレリーフには、香木をはじめとする贅沢品が運び込まれる様子が描かれています。


交易品を運ぶ様子を表したハトシェプスト女王葬祭殿のレリーフ


ハトシェプスト女王葬祭殿

お互いに使節団を派遣し合い、それぞれの産物を交換するという事業を、研究者は「ロイヤル・ギフトの交換」とよんでいます。
国による大規模交易でもあり、外交でもありました。
この時期の地中海・西アジア地域は各地が密接につながりあった「グローバル」な世界へと発展していきます。
その基礎となったのが「ロイヤル・ギフトの交換」であり、ハトシェプストが推進した交易はその先駆けと評価できると思います。

また、国内のいたるところで大規模な建築事業を推し進めました。
ハトシェプスト女王が残した建築のうち、最高傑作として名高いのが、現在のルクソールの西岸、アル=ディール・アル=バハリにある葬祭殿です。
断崖を背にして築かれた葬祭殿は、美しさと迫力を兼ね備え、景色の中に見事に調和しています。
断崖の向こう側は、新王国時代の歴代の墓が造営された「王家の谷」があります。ハトシェプストも王として、王家の谷に大規模な墓を造営しました。


通好みの注目作品
最後に、私のおすすめ作品をもう少しだけご紹介しておきます。
ハトシェプストが歴史の表舞台に立った一方で、夫トトメス2世の事蹟はあまり知られていません。
本展では、もう1人、妻の影に隠れてしまった王を紹介しています。
その人はセティ2世。新王国・第19王朝時代の王です。
彼もまた、トトメス2世と同様に幼い息子サプタハを残して死去してしまいます。
その後、実権を握ったのがセティ2世の王妃タウセレトでした。
タウセレトはサプタハ王が即位わずか6年で亡くなった後に、女王となります。
トトメス2世とセティ2世。歴史上、注目されることの少ない2人の夫ですが、通好みの注目作品だと思っています。ぜひご覧ください。


トトメス2世のレリーフ
出土地不詳
新王国・第18王朝時代 ハトシェプスト女王治世
(前1473~前1458年頃)
ベルギー ブリュッセル・ベルギー王立美術歴史博物館蔵
(C) RMAH



セティ2世
出土地不詳
新王国・第19王朝時代 セティ2世治世(前1199~前1193年頃)
イタリア フィレンツェ・エジプト博物館蔵
Su concessione della Soprintendenza per i Beni Archeologici della Toscana - Firenze

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 小野塚拓造(特別展室アソシエイトフェロー) at 2015年06月18日 (木)