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「日本国宝展」30万人達成!

日本国宝展」(2014年10月15日(水)~12月7日(日)、平成館特別展示室)は、
11月28日(金)に30万人目のお客様をお迎えしました。
多くのお客様にご来場いただきましたこと、心より御礼申し上げます。

30万人目のお客様は、栃木県足利市よりお越しの藤田四郎さんです。
藤田さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として特別展図録と、
展覧会のグッズショップ「国宝店」でも人気の
「縄文のビーナス」ぬいぐるみなどを贈呈しました。

30万人目のお客様
「日本国宝展」30万人セレモニー
藤田さんご一家と館長の銭谷眞美(右)
11月28日(金)東京国立博物館 平成館エントランスにて



美術館がお好きだという藤田さんは、当館には数えきれないほど(!)
お越しくださっているとのこと。
前回は特別展「台北 國立故宮博物院―神品至宝―」をご覧になったそうです。
度々のご来館、誠にありがとうございます。

本日は、日本国宝展をご覧になるために、栃木からいらっしゃったそうです。
「国宝が一体どんな基準で決められているのか、興味があります。
実際に国宝の作品を見て考えてみたいと思いました」と、お話くださいました。
ちなみに、お目当ての作品は国宝「善財童子立像」なのだそうです。
ポスター等ですっかりお馴染みですね。

日本国宝展」は、ご好評につき、本日11月28日(金)~12月7日(日)は
開館時間を延長して20時までご覧いただけます。入館は閉館の30分前までです。
(ただし、12月1日は休館、12月2日は17時まで)

どうぞお見逃しのないように、皆様のご来館をお待ちしています。

カテゴリ:news2014年度の特別展

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posted by 高桑那々美(広報室) at 2014年11月28日 (金)

 

日本国宝展の見方~東寺百合文書~

日本国宝展」第3室で展示している「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」は
実に2万点以上の古文書からなる国宝です。
今回の展覧会に出品のはそのうちのわずか12点。文字どおり九牛の一毛です。
もとは、京都駅の南側にひときわ高く見える国宝「五重塔」で有名な
東寺(教王護国寺)に伝わったものですが、現在では京都府立総合資料館が
所蔵しており、目録の作成や修理を行うとともに、釈文(しゃくもん=解読文)
をまとめた書籍の刊行も継続しています。

平安時代から室町時代までの東寺は、荘園領主として全国に寺領の
荘園を持ち、さまざまな貢納物を受け取って寺院の経営をしていました。
新見庄(にいみのしょう)は東寺領の中でも有力な荘園の一つです。
現在の岡山県新見市に含まれます。
今では山の中という印象が強いのですが、河川交通が使われていた時代には、
瀬戸内海との間を船が往来し定期的に市場も開かれる、
人や物の行き来の盛んな土地でした。
室町時代になると、荘園の中では農民の経済力が高まり、
それまでの支配者であった寺院や武家の支配から離脱しよう
という動きが盛んになります。新見庄も例外ではありませんでした。

応仁の乱の少し前の寛正年間(1460~1463)、新見庄ではそれまで
東寺への年貢納入を請け負っていた有力武士の安富(やすとみ)氏が
農民に対して過剰な負担を強いたため、結束した農民によって
追放されるという事件が起こりました。
地元の土豪と農民たちは、より負担の少ない支配を目論んで
東寺による直轄経営を求めたので、寛正4年に京都から
東寺の代官、祐清(ゆうせい)が下向してきました。
ところが祐清は地元の期待に反して、年貢の納入や京上夫(京都での
仕事への徴発)などの負担を増やし、あまつさえ地元の有力者を
死罪に処するという厳しい態度に出ました。
このような代官と農民たちの対立が深まる中で、庄内を巡見していた祐清は
死罪となった人物の縁者によって殺害されてしまいます。

実は祐清は、現在でいう単身赴任で新見庄にやってきたため、
地元有力者の一人であった福本という人物の妹が、その身の回りの世話をしていました。
この女性が「たまかき」です。

たまかきは祐清殺害後「こんな事になってしまって、御いわたしさは
申しようもありません」と悲しみながらも、遺品を処分してお金を工面し、
供養した僧への支払いに宛てるなどして、祐清の弔いを済ませました。
そして一段落ついたところで、手紙を書いて経過を報告するとともに、
残った「白い小袖一、紬の表一、布子一」を祐清の形見として
いただきたいと願い出たのです。
手紙は東寺まで届けられ、一連の事件の経過を示す文書として保管されました。
約550年の時を経て、今回展示している「たまかき書状」がそれです。


国宝 東寺百合文書のうち「たまかき書状」
室町時代・15世紀 
京都府立総合資料館蔵
展示期間:11月18日(火)~12月7日(日)



(部分) たまかきが欲しいと願いでた形見の品を含む
祐清の遺品のリスト


たまかきの願いがかなったかどうかを示す史料は残念ながら残されていません。

室町時代以前、公家や武家ではなく地方に住むいわば一般庶民の女性の
筆跡が残ることは稀で、「たまかき書状」はきわめて珍しい例であり、
当時の日本社会における識字(リテラシー)の状況を物語る史料として貴重です。
また、思いがけない事件に遭遇した女性の心情を示し、
現在なお私たちの心をうつものがあります。

このような文書もまた日本の歴史の一側面を明らかにする国宝です。
隣り合って展示している宮廷の女性の筆跡、国宝「後奈良天皇女房奉書」と
比べてご覧いただけると、また興味深いのではないかと思います。


国宝 東寺百合文書のうち「後奈良天皇女房奉書」
室町時代・天文2年(1533) 京都府総合資料館蔵
展示期間:11月11日(火)~12月7日(日)


大好評をいただいている「日本国宝展」は残りあと10日。
どうぞお見逃しのないように!

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 田良島哲(調査研究課長) at 2014年11月27日 (木)

 

国宝五重小塔出品ものがたり

日本国宝展」(2014年10月15日(水)~12月7日(日) 平成館)には、たくさんの方々にご来館いただき、ありがとうございます。
展示作品の中でも注目を集めている、「国宝 元興寺極楽坊五重小塔」(奈良・元興寺蔵)。今回の国宝展に出品される全119件のうち、唯一建造物の国宝です(他はすべて美術工芸品)。この巨大な小塔(というのも変な言い方ですが)が本展覧会に出品されるまでには、いくつかの超えるべきハードルがありました。いかにして五重小塔は東京国立博物館にやってきたのか。そのものがたりを、これからお話したいと思います。

その前に、少々こみいっていますが、五重小塔の国宝指定の歴史を振り返ってみましょう。
この五重小塔が初めて指定文化財となったのは、明治34年(1901)のことでした。同年8月2日付の官報告示には、「古社寺保存法」により「木造五重塔(伝元興寺塔雛形(ひながた))を「国宝ノ資格アルモノト定ム」としています。「古社寺保存法」は明治30年に施行された、文化財保護のための法律です。国宝、重要文化財の別はなく、指定区分はすべて国宝でした。いわゆる「旧国宝」と呼ばれる一群です。なおこの時の種別は建造物ではなく、絵画、彫刻、工芸など美術工芸品の中に列しており、種類は「建築雛形」となっています。旧国宝は昭和25年(1950)の「文化財保護法」により、いったんすべて「重要文化財」となり、その中からより価値高いものが、改めて「国宝」に指定されることとなりました。最初のころは「新国宝」とよばれることもあったそうです。そして五重小塔も昭和27年(1952)3月29日、改めて建造物として「元興寺極楽坊五重小塔」の名称で国宝に指定されることとなったのです。

昭和51年 京都国立博物館「日本国宝展」図録より
昭和51年  京都国立博物館
「日本国宝展」図録より

昨年2013年の春、日本国宝展ワーキンググループが、共催者をまじえ展示作品の検討を行っていた時のこと。グループの田良島(当館調査研究課長)が、「美術工芸品だけでなく、建造物の国宝というのはどうだろうか?」との言葉を発したのがきっかけとなり、元興寺の五重小塔が候補として浮かび上がります。しかし小塔とはいえ高さ5.5メートルの本格的な建築構造物。動かすことなどできるのか、その時点ではまったく半信半疑でした。調べを進めると、この五重小塔は明治40年~昭和40年(1907-65)までは奈良国立博物館に寄託展示されていたこと、昭和42年1月~43年9月までの21か月間で、国庫補助事業として本格解体修理が実施されたこと、昭和51年(1976)には、京都国立博物館の「日本国宝展」に出品されていたことなどが判明したのです。「これはいけるのでは?」ワーキングと共催者の間には、出品を前向きに進めていこうという機運が次第に高まっていきました。

 
辻村泰善ご住職
辻村泰善住職
(写真提供:元興寺文化財研究所)

とはいえ、当然のことながら所蔵者のご意向が最も重要です。夏まっ盛りの8月8日、共催者の方々とともに、元興寺の辻村泰善(つじむらたいぜん)住職を訪ねました。今回の日本国宝展が祈りと信仰をテーマとしていること、元興寺の五重小塔はそのテーマにふさわしく、また美術工芸品だけでなく本格的な建造物の国宝指定品を展示することで、展覧会の奥深さをお伝えしたいことなどをお話させていただきました。元興寺には「公益財団法人元興寺文化財研究所」があり、多くのスタッフによって、国宝や重要文化財を含む日本全国の文化財の保存修理や調査研究が行われています。辻村住職はその理事長を務めてもおられます。永い歴史を有し世界遺産「古都奈良の文化財」のひとつにも数えられる元興寺のご住職であるとともに、文化財の重要性と保存にも深く通じておられるからこそ、展覧会の趣旨とご出品の意義を積極的にご理解いただけたのだと思います。このことは私たちにとって、大きな幸運でありました。これ以降、文化財研究所の研究員の方と、具体的にどのように進めていくかの検討が繰り返されることとなりました。 

解体作業は、奈良や京都はもちろん全国の社寺の解体修理や建造を行っている(株)瀧川寺社建築にお願いするということになりました。ここに大きな幸運その2が。瀧川伸社長のお父上の昭雄氏は、なんと昭和42~43年の解体修理の際、奈良県教育委員会文化財保存事務所の技能員として関わっておられ、当時のことをよくご存じであったのです。


一方で国宝の建造物を展覧会に出品するということに対し、奈良市や奈良県の教育委員会の文化財保護担当、そして国(文化庁)の建造物担当にも、ご理解をいただかなければなりません。関係者と協議を進め、国に対して「国宝の現状変更」を申請するということになりました。小塔といえど建造物の国宝。建造物は美術工芸品と違って「不動産」であるため、展覧会に出品するという行為が現状変更に当たるという考え方です。担当者とのやりとりを繰り返し、解体、梱包、輸送、展示の計画書やタイムテーブル、画像などを揃えて書類を整え、元興寺から奈良市、奈良県を経由し文化庁に申請書類が提出されました。この案件が国の審議会に諮られ、今年3月15日文部科学大臣への答申で、日本国宝展の出品にかかる現状変更が許可されたのです。関係者一同ひとまずホッとするも、本当の仕事はこれからです。


瀧川寺社建築による解体
瀧川寺社建築による解体

展示に先立ち、今年の4月6日~11日の日程で、解体の予行演習を兼ねた状態調査と彩色の剥落止め処置が行われました。解体を行うのは、瀧川寺社建築の若き宮大工さんたち。私もかつて文化庁の調査官として、国宝や重要文化財の修理に関わり、いろんな技術者や職人の方をみてきましたが、宮大工さんとの仕事は初めてのこと。そのキビキビした動きや段取りのうまさに、舌を巻くといった感じ。しかもイケメンぞろいなのです!瀧川社長はたいへんに明るく、人を笑かそうとするサービス精神にあふれた方なのですが、職人を惹きつけ、名工に育てていく人徳と裁量を強く感じました。一方で彩色の剥落止めは、全国の文化財保存修復を手がける元興寺文化財研究所の、まさに本領発揮といったところ。湯せんでといたニカワを、彩色の浮いた部分に、筆で丁寧に差していきます。同時にホコリを払い、クリーニングを行いました。
 


彩色の剥落止め、クリーニング(元興寺文化財研究所)

昭和修理の際の修理報告書などによって、すでに予想されていたことではありますが、五重小塔は頂部の相輪(そうりん)、心柱(しんばしら)、5~1層と、大きく7つのパーツに解体でき、それらのパーツは釘などで緊結されていない(つまり置き重ねてあるだけ)ことが、改めて確認されました。これは奈良時代など古い建造物の特色でもあります。とはいえ「国宝」。常に張りつめた緊張の中、慎重の上にも慎重を期して、作業は行われました。

5層、4層
(左)5層、4層 (右)5層、4層を外したところ 中央に心柱が立つ

 

展覧会開幕を控えた9月末、ふたたび足場が組まれ、瀧川寺社建築のイケメン集団によって解体が始まります。解体された部材は厳重に梱包され、輸送トラックによって東京まで搬送されます。そしてここでも研究所の誇るハイテク文化財輸送専用車、「シバラ」1号、2号が大活躍です。文化財を安全に運ぶためには、温湿度管理や振動を抑える仕様の輸送車が不可欠。(ちなみにシバラとは、観音菩薩(観自在菩薩・観世音菩薩)のサンスクリット語、アバロキテシバラからとったもので、妙(たえ)なる観察 妙なる音声という意味)修理と輸送、元興寺文化財研究所の存在は、まことに大きな幸運その3でありました。

 
(左)元興寺収蔵庫で再び解体 左が瀧川伸社長 (右)平成館での組み上げ


輸送後、平成館の特別展会場には再び足場が組まれ、免震台の上に五重小塔が組まれていきます。足場の設置から解体に約4日、組み上げにまた4日。作品や資材の運搬、会場の養生、後かたづけを含め、元興寺での解体から平成館での設置に、ほぼ2週間を要したことになります。この会場で展示された作品としては、これまでで最大級のものの一つではないでしょうか。その威容に見とれてしまいます。


平成館での五重小塔展示作業の様子


国宝 元興寺極楽坊五重小塔を日本国宝展に展示するにあたっては、これまで見たように、いくつかの大きな幸運がありました。しかしやはり、元興寺様はじめ多くの方々のご理解とご協力の上に出品がかなったことを忘れてはなりません。会期を無事に終え、元興寺様にきちんとお返しするまで、気を抜かずに務めたいと思っています。


瀧川寺社建築のみなさんと
(後列中央より右に)瀧川伸社長、雨森久晃元興寺文化財研究所研究員、田中泉奈良県文化財保護課調整員、筆者
(前列左)金井裕子当館特別展室研究員

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2014年11月21日 (金)

 

「日本国宝展」20万人達成!

日本国宝展」(2014年10月15日(水)~12月7日(日)、平成館特別展示室)は、
11月18日(火)午後に20万人目のお客様をお迎えしました。
多くのお客様にご来場いただきましたこと、心より御礼申し上げます。

20万人目のお客様は、東京都文京区よりお越しの伊藤悦子さんです。
伊藤さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として展覧会図録と、
「縄文のビーナス」ぬいぐるみなどの展覧会グッズを贈呈しました。

20万人目のお客様
「日本国宝展」20万人セレモニー
伊藤さん(中)と館長の銭谷眞美(右)
11月18日(火)東京国立博物館 平成館エントランスにて


伊藤さんは妹さんとお二人で、日本国宝展においでになりました。
本日より11月30日(日)まで展示の「金印」(福岡市博物館蔵)、またポスターでもおなじみの「善財童子立像」(奈良・安倍文殊院蔵)に会うことを、楽しみにしておられたそうです。

また、24年前に当館で行われた「日本国宝展」にも来てくださったとのこと。
1990年(平成2年)、当館として2回目の日本国宝展。 当時はまだ平成館は建設されておらず、本館で開催されました。伊藤さんは当時の図録を繰りながら、今回はまた違った作品も出ているのだなあと、再びお運びくださったのでした!
そうです。24年の間には、新しい国宝も指定されています。
新たな国宝との幸せな出会いがありますように。

いよいよ本日から「金印」が公開。そして11月21日(金)~12月7日(日)までは、国宝の「土偶」全5体が集結します。
年の瀬とともに、日本国宝展もファイナルカウントダウンを迎えようとしています。

カテゴリ:news2014年度の特別展

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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2014年11月18日 (火)

 

日本国宝展の見方~国宝土偶が勢ぞろい~

日ごとに寒さが増していますが、「日本国宝展」の会場はケースの前に人垣や人溜りができ、
それを感じさせない熱気にあふれています。



今回の展覧会では考古遺物の多くが第2章「神を信じる」にて展示されています。
この第2章では仏教とともに日本の信仰の礎となっている神道、
そしてこれらに先立つ祈りやまつりに関わる作品をご紹介しています。

展示室は奥へ進むに従って時代を遡る展示順となっており、
手前から、カミから神へと信仰が体系化されていく様子をよく表す
沖ノ島祭祀遺跡出土品から始まり、藤ノ木古墳出土の金銅製鞍金具、
平原遺跡出土の内行花文鏡、加茂岩倉遺跡の絵画銅鐸へと続きます。



そして展示室の一番奥では、まさに祈りのかたちの原型である縄文時代の女神たちが
みなさんをお待ちしています。

 
「合掌土偶」(左)と「縄文のビーナス」(右)

      
国宝 土偶(合掌土偶)            国宝 土偶(縄文のビーナス)
縄文時代(後期)・前2000~前1000年      縄文時代(中期)・前3000~前2000年
青森県八戸市風張1遺跡出土         長野県茅野市棚畑遺跡出土
八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館蔵     茅野市蔵 尖石縄文考古館保管


縄文時代の土偶はこれまで2万点ほど発見されていますが、国宝の土偶はたったの5点。
その国宝土偶が11月21日(金)~12月7日(日)の期間に、勢ぞろいします。
縄文時代の出土品として初めて国宝に指定された「縄文のビーナス」、
ほぼ形が残っている土偶では日本最大の「縄文の女神」、祈りの姿そのものともいえる「合掌土偶」、
北海道唯一の国宝「中空土偶」、そして今年指定されたばかりの国宝「仮面の女神」。


国宝 土偶(縄文の女神)        
縄文時代(中期)・前3000~前2000年   
山形県舟形町西ノ前遺跡出土           
山形県蔵 山形県立博物館保管     
展示期間:11月21日(金)~12月7日(日) 



国宝 土偶(仮面の女神)
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
長野県茅野市中ッ原遺跡出土
茅野市蔵 尖石縄文考古館保管
展示期間:11月21日(金)~12月7日(日) 



国宝 土偶(中空土偶)
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
北海道函館市著保内野遺跡出土
函館市蔵
展示期間:11月21日(金)~12月7日(日)


これら国宝土偶は個性的な姿かたちや愛らしい表情も魅力的ですが、
縄文時代の人びとが祈りのかたちをも私たちに伝えてくれるものでもあります。

考古遺物は他の分野の作品と比べて、言葉少なではにかみやです。ぜひ歩み寄ってじっくりとご覧ください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 品川欣也(考古室主任研究員) at 2014年11月15日 (土)