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上海博物館との競演―中国染織 その技と美―

この秋、トーハクに上海博物館(上博:シャンポー)所蔵の中国の刺繡や緙絲(こくし、綴織(つづれおり))が17件展示されています。上海博物館を訪れたとしても、上海博物館で見ることができる染織は中国少数民族の衣装が中心で、清時代までの宮廷や高官の邸宅を飾っていた染織美術が展示されることはほとんどありません。あなたの目で確かめなければ信じがたい、その技の美を、10月23日(日)までトーハクで見ることができます。

まずは、東洋館5室の中国美術の部屋にお越しください。大きな平たいケースの中に広げられるのは、元時代末から明時代初期に、寺院の壁を飾るために制作されたと考えられる壁掛です。上海博物館でも展示したことのない、初公開作品です。写真で見ると小さく感じられますが、縦194cm、横335cmもあり、文様は全て刺繡によるものです。
中央には五爪の金龍。肉太の金糸で刺繡されています。

刺繡龍八宝唐草文様壁掛
刺繡龍八宝唐草文様壁掛 中国 元~明時代・14世紀 上海博物館蔵

刺繡龍八宝唐草文様壁掛 部分図
同上 部分拡大


金龍の周囲には、仏教の教えの中に現れる「八宝」が美しい色で染められた絹糸で丁寧に刺繍されています。約800年も前の刺繡がこんなに色鮮やかに残っていることに驚きです。会場ではパネルで「八宝」の解説もしていますので、そのご利益を確かめてみてください。あなたにも、幸運が訪れるかもしれません。


5室を出ましたら、今度は中国絵画が展示されている8室まで上がってください。
中国には、絵画を刺繡や織物で表現するというちょっと想像しがたい手仕事が宋時代から行われてきました。私はそれを「染織絵画」と呼んでいます。8室では、素晴らしい中国絵画を、絵画的図様を卓越した緙絲の技で写した染織絵画とともにご覧いただきます。
この2つの作品、こうしてみると、絵画のようでしょう?

緙絲仙人図壁掛と緙絲花鳥図壁掛 緙絲仙人図壁掛と緙絲花鳥図壁掛
左:緙絲仙人図壁掛 中国 明時代・16~17世紀 上海博物館蔵
右:緙絲花鳥図壁掛 中国 清時代・18世紀 上海博物館蔵


でも近寄ってみると、いずれも織物です。日本でいう「綴織」です。
部分図 部分図
左:緙絲仙人図壁掛 部分拡大、右:緙絲花鳥図壁掛 部分拡大

清時代の皇帝・乾隆帝も今展示されている「緙絲仙人図壁掛」を鑑賞していたのですよ。さすが、見る目あるな、と感心してしまう、明時代の名品です!
三希堂精鑑璽
乾隆帝が特に優れた書画に捺した「三希堂精鑑璽」印が「緙絲仙人図壁掛」にも捺されています。


8室からエレベーターで降り地下1階の13室に行くと、このような「染織絵画」がずらりと並んでいます。「顧繡(こしゅう)」と呼ばれる明時代以降の伝統的な技法で刺繡された作品や、美しい色彩で織り出された緙絲の花鳥画などが見られますので、ぜひ、会場でガラスケースに額をくっつけて「えっ?本当に描いてないの?」と確かめてみていただければと思います。

東洋館13室 展示風景
東洋館13室 展示風景

このような「染織絵画」は、宋時代から行われてきたと考えられます。実際、台北故宮博物院には宋時代の山水画を写した途方もなく細密な緙絲が残されています。このような「染織絵画」は宋元時代に確立したものでしょう。明時代から清時代にかけても、以前として制作されてはきましたが、宋元時代の吉祥に関わる画題が中心となっています。明時代以降、画家たちはある意味「俗」である吉祥絵画を染織の工人の手に譲り、自分たちは高邁を気取って山水画や文人画に専念したのかしら、という印象も受けます。「裕福」「子孫繁栄」「立身出世」「長寿」と、素直な人間の願いを「吉祥」に託した染織絵画。その思いを身近に感じるとともに、会場で見なければわからない中国染織の技の美に触れていただきたいです。


展示情報
特集「 上海博物館との競演―中国染織 その技と美―」(2016年7月26日(火)~10月23日(日)、東洋館5室、13室)
特集「上海博物館との競演 ―中国書画精華・調度― (書画精華)」(2016年8月30日(火)~10月23日(日)、東洋館8室)

関連事業
スペシャルツアー 中国美術をめぐる旅―添乗員はトーハク研究員―「アジアをリードした中国の染織技術
2016年9月28日(水)11:00~12:00 東洋館
 
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開博物館でアジアの旅

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posted by 小山弓弦葉(工芸室長) at 2016年09月20日 (火)

 

青銅器にほら夏の君―上海博物館との競演より―

8月が終わり、町は少しずつ秋支度。夏好きの僕にとって、9月というのは夏への未練が残るつらい時期でもあるのです。

夏の主役はなんといっても蝉でしょう。彼らの鳴き声は夏の扉を開き、彼らが町からいなくなるとき、僕の夏も終わりを告げるのです。夏、夏、夏。行かないで夏。そんな思いが通じて、というわけでは絶対ありませんが、このたび上海博物館から蝉がやってきました。

いま、東洋館では上海博物館との競演を各部屋で実施しています。質量ともに世界屈指の呼び声高い、青銅器コレクションもお目見えです。今回お借りしたのは10件。そのなかのひとつ、こちらの扁足鼎(へんそくてい、図1)に蝉がいたのです。胴部を拡大してみましょう(図2)。横向きに連なっている虫がそれです。
 
扁足鼎
図1.扁足鼎 西周時代・前11~前10世紀     上海博物館蔵
   

扁足鼎の胴部
図2.扁足鼎の胴部


「おいおい、これのどこが蝉なんだい?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。僕自身も蝉と断言してよいものか迷います。なにより羽がありません。これは致命的です。

しかし、全体的な体のつくりはたしかに蝉です。くびれ部分のひし形もようは胸背の隆起か模様を表し 大きな2つの丸印は複眼を思わせます。先端のハート形は頭と口吻でしょうか。また羽がないことを考えると、羽化直前の蝉とも解釈できます。

青銅器の文様には、さまざまな生き物が登場します。それらは大きく2つの系統にわけて考えることができます。ひとつは様々な生き物の要素が混在した創造性の高い生き物。もうひとつは、意匠化しているとはいえ、他の生き物の要素が乏しいかまったくないものです。
今日ご紹介している蝉は後者です。古代の人々は、蝉の生態そのものにある種の特別な意味を見出していたのでしょう。だからこそ、その意匠は他の生き物と混在することがなかったのかもしれません。

青銅器の鑑賞は、知らない土地へ旅行する楽しみに似ています。そこにはまったく知らない世界がひろがっているので不安も少々。そんなとき、一人でも知り合いがいると旅に安心感が生まれるものです。悠久の器物に宿る蝉は、まさにそうした存在。未知の世界で僕たちを出迎えてくれる、よき友人ともいえるでしょう。


展示情報・関連イベント

特集「上海博物館との競演-中国青銅器-」
2016年8月30日(火) ~ 2017年2月26日(日) 東洋館 5室
スペシャルツアー 中国美術をめぐる旅―添乗員はトーハク研究員― 「悠久の青銅器と神獣ウォッチング」
2016年9月29日(木)11:00 ~ 12:00 (11:00に東洋館1階エントランスホールに集合)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開博物館でアジアの旅

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posted by 市元 塁(特別展室主任研究員) at 2016年09月06日 (火)

 

藤原行成の書

藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)は、平安時代の「三跡」の一人とされる能書(のうしょ、書の巧みな人)で、日本風の書である和様の書を大成させた人として、また平安から鎌倉時代に流行する書流・世尊寺流の祖としても尊敬されてきました。日本の書の歴史にとって、とても重要な人物である藤原行成。その書を本館特別1室で特集しています。(特集「藤原行成の書 その流行と伝称」2016年8月23日(火)~10月2日(日))

国宝 白氏詩巻
国宝 白氏詩巻 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018)

これは、藤原行成の代表作とも言える「白氏詩巻」。これまでにもご紹介してきましたが、何度見てもいいです!筆を少し傾けた筆法のため丸みを帯びた文字になっており、それなのに堂々として迫力もあり、さらに楷書と行書の使い分けに趣向が凝らされていて、圧巻です。

藤原定信筆 跋語
跋語国宝「白氏詩巻」巻末 画像左半分)藤原定信筆 平安時代・保延6年(1140)

行成の「白氏詩巻」の巻末には、このような跋語(ばつご)が付いています。藤原行成の玄孫である藤原定信(ふじわらのさだのぶ、1088~1154~?)が、この行成の書を物売りの女から購入したことを記しています。手に入れた喜びから書いたのでしょうか?

重要文化財 書状
重要文化財  書状 藤原行成筆 平安時代・寛仁4年(1020) 個人蔵

次は行成の唯一の書状です。書状というのは、とても個人的なもののはずですが、この書状は、墨の濃淡や楷書、行書、草書の配置が絶妙で、芸術品とも言える仕上がりになっています!

重要文化財  添状
重要文化財  添状(藤原行成筆書状附属)尊円親王筆 鎌倉時代・建武元年(1334) 個人蔵

行成の書状にも、このような添状が付いています。行成の書を褒め称える内容です。しかも、この添状を書いたのは、江戸時代に大流行する御家流の祖ともいえる尊円親王(そんえんしんのう、1298~1356)です。尊円親王も行成を尊敬していたのですね。

安宅切
安宅切 伝藤原行成筆 平安時代・12世紀

これは、伝称筆者を藤原行成とする「安宅切」です。今回の特集では、伝藤原行成筆の「升色紙」や「大字和漢朗詠集切」などの古筆切もご紹介します。この「安宅切」の書は、行成の一系である世尊寺流の書風とよく似ているため、行成の書とされたのでしょうか。

安宅切 安宅切
左:安宅切(見返し)冷泉為恭の書き込み(中央)と下絵
右:冷泉為恭の書き込み部分拡大


「安宅切」には、この図版のように冷泉為恭(1823~64)の書き込みがあります。「安宅切」を冷泉為恭が所蔵して、装丁し、その台紙に下絵を描きました。復古大和絵派の絵師として有名な冷泉為恭も、行成の書を大切にしていたといえるでしょう。

さまざまな人が尊敬し、大切に伝えてきた藤原行成の書。行成の直筆の書とともに、行成の書風をよく真似ている作品や、伝藤原行成筆の古筆切をたくさんご紹介いたします。平安時代に一世風靡した行成の書をぜひご覧ください。

関連事業
ギャラリートーク「三跡・藤原行成の尊重」2016年8月30日(火) 14:00 ~ 本館特別1室
 
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡特集・特別公開

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posted by 恵美千鶴子(150年史編纂室主任研究員) at 2016年08月26日 (金)

 

清国踏査游記の行程をたどる

平成館企画展示室で開催中の特集「清国踏査游記―関野貞・塚本靖が撮影した史跡写真」(9月4日(日)まで)では、清朝末期に中国を踏査した2人の人物、東京帝国大学(現・東京大学)の関野貞と塚本靖が撮影した写真46点を展示しております。

さて、展覧会名にあります「游」には旅行する、他国へ行くという意味があります。関野と塚本が清国を訪れた20世紀初頭には、お隣の国、中国へ渡航するのも、決して楽ではありませんでした。関野と塚本は河南省の省都、鄭州(ていしゅう)から本格的な踏査を開始しました。日本から鄭州まで、当時はどのくらいの日数がかかったでしょうか?塚本靖の「清国内地旅行談」『東洋学芸雑誌』第25巻第321号(明治41年)を参考に、日本から鄭州までの行程を追ってみましょう。

塚本一行は、日本郵船会社の相模丸に乗船して明治39年9月12日に神戸港を出港、14日に門司(もじ)、15日に長崎、16日に韓国の釜山(ぷさん)、18日に韓国の仁川(じんせん)、20日に清国山東省煙台の芝罘(しふう)、そして22日の午前3時に天津の塘沽(とうこ)沖に投錨し、6時に蒸気船に転乗して8時30分に塘沽に到着。税関の検査を終え、食事をしてから汽車に乗り、午後6時20分に北京の南門外の停車場に到着しました。その後、北京に一週間ほど滞在して、10月1日に北京と漢口を結ぶ京漢鉄道で鄭州に向かいました。乗車時間は22時間です。
現在では、成田─鄭州間の直行便が週3日就航し、4時間ほどのフライトで鄭州に行くことも可能です。しかし、清朝末期には日本から鄭州へ行くには船や汽車を乗り継いで10日以上もの日数を費やさなければなりませんでした。

一行は、鄭州から西安へ向けて出発しますが、移動には車を利用しました。写真をご覧ください。「轎車(きょうしゃ)」は騾馬(らば)を2頭繋いだ二輪馬車。「大車」は轎車よりも大きく、馬を3頭繋いだ二輪馬車で、荷物も大量に積めます。

轎車

大車


「一輪車」は主として荷物を運搬するために用いますが、人が乗ることもでき、道幅の狭い場所を通過するのに便利だったそうです。乗り心地は、実に想像よりも悪いもので、最初2、3日は身体が痛み、頭はポーとして疲労が著しかったそうですが、一週間以上も旅行すると、慣れて善い心持になり、車中で昼寝を貪るようにさえなったそうです。

一輪車


写真はキャビネ版の小さな世界ですが、1枚の写真に、撮影に至るまでに費やした時間や苦労が凝縮されていることをお感じいただければ幸いです。


図版出典:塚本靖「清国内地旅行談」『東洋学芸雑誌』第25巻第324号(明治41年)より


 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 関紀子(登録室研究員) at 2016年08月10日 (水)

 

根付と置物-象牙彫刻の伝統

「アイボリー」といえば象牙のようなごく淡いクリーム色を指すように、象牙の白い色は独特です。素材としての象牙の特徴にはまず、このわずかに黄味を帯びた優しい白色と、「粘り」ともよばれる弾力性をあげることができるでしょう。この二つの特質により、象牙には世界中で装飾・彫刻材料として珍重された歴史があります。

今回の特集展示「根付と置物-象牙彫刻の伝統」(2016年6月7日(火)~7月31日(日)、本館14室)でも、この象牙ならではの白色を生かした作例が多数を占めていますが、近現代の作品には、彩り豊かなものも間々見られます。特に近年テレビ番組などでも取り上げられ、人気が急上昇したのが、卓越した着色技術により野菜や果物などの形や色、質感の全てを見事に再現した安藤緑山(1885~1955?)の作品です。ここでは展示品の中でも、象牙を彫刻してから色彩を加えた作品に注目してみましょう。

といっても、象牙に色を定着させるのは至難の技なのです。江戸時代の牙彫根付ではしばしば、「矢車染め(やしゃぞめ)」という象牙を薄い茶色や肌色に染める技法が使われています。「矢車」とはタンニンを多く含む夜叉五倍子(やしゃぶし)の実のことで、いわゆる草木染めの一種です。

鼠捕牙彫根付 線刻銘「明實」
鼠捕牙彫根付 線刻銘「明實」 江戸時代・19世紀
全体を染めあげてから、角や丸みの部分を磨いてグラデーションをつけ、立体感を強調しています。

臼兎牙彫根付 線刻銘「蘭亭」
臼兎牙彫根付 線刻銘「蘭亭」 江戸時代・18世紀 郷誠之助氏寄贈
木製品である臼と杵の部分を淡い茶色に染めて、兎の白と対比させています。
 
常盤牙彫根付 線刻銘「光廣」
常盤牙彫根付 線刻銘「光廣」 江戸時代・19世紀 郷誠之助氏寄贈
着物や笠、下駄の部分を薄い茶色に染め、顔や腕などの肉身部は白いままで表現しています。

正倉院宝物などに見るように、奈良時代には日本にも象牙を赤・紺・緑などに染める技術が伝わりましたが、その後途絶えてしまいました。江戸時代にはこの技術の復興が試みられ、赤や緑に染めた象牙の櫛などが見られます。しかし飾り櫛と違って、根付は着物や手で擦れるためでしょうか、赤や緑に染められた牙彫根付は少ないです。

鬼面牙彫根付 線刻銘「壽玉(花押)」
鬼面牙彫根付 線刻銘「壽玉(花押)」 明治時代・19世紀 郷誠之助氏寄贈
全体を肌色に染め、頭部や頬の部分を赤く、濃淡をつけて染めています。

てんとう虫 
てんとう虫 村松親月 (1934~) 作 平成11年(1999) 高円宮コレクション
象牙が深紅と漆黒に染め上げられています。作者は、象牙を赤・紺・緑などに染めてから文様をはね彫りする「撥鏤」技法の復元を成し遂げました。


牙彫鷹置物
牙彫鷹置物 金田兼次郎作 明治25年(1892) シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局
白鷹の羽毛は象牙の白無垢で、脚の皮膚は茶色く染めて表現されています。

明治時代中頃までの牙彫置物は、このように象牙の白さをそのまま生かした作品が多かったのですが、大正期に入ると、冒頭で触れた安藤緑山のような人が出てきて、総天然色ともいうべき牙彫置物が登場します。

桜桃
桜桃 安藤緑山 (1885~1955?) 作    大正時代・20世紀     高円宮家蔵
桜の枝葉や軸など極薄く細い部分まですべて象牙彫刻で表わし、卓越した着色技術とあいまって、まさに実物と見紛うばかりです。

柿
 吉村竜渓作    明治~大正・20世紀     高円宮家蔵
作者は金田兼次郎門下の牙彫家で、明治後期から大正時代にかけて活躍しました。当時は安藤緑山の他にも、こうした着色作品を制作する作家がいたことが分かります。


こうしたリアルな着色作品は、象牙彫刻の文脈を知らずにご覧になる方にはまず、象牙製とは思われないことでしょう。ただし、本物そっくりのみずみずしい色彩表現は、象牙の表面に思い通りの色を定着させる難しさはあっても、象牙と言う白い素材だからこそ、可能になったことです。象牙という稀少素材の特質について、思いを廻らせながら、展示をご覧いただけますなら幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 竹内奈美子(登録室長、貸与特別観覧室長) at 2016年07月07日 (木)