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特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方3-造形・変遷編-

本特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺」(2014年9月9日(火)~12月7日(日):平成館考古展示室)も、残すところ1ヶ月余りとなりました。
今回の特集展示では、普段、当館ではなかなかお目にかけることができない(畿内地方最盛期の)“本場”の埴輪をご覧頂いています。

展示全景
展示全景

もちろん、畿内地方の円筒埴輪の雄大な大きさや、人物埴輪・動物埴輪の秀逸な造形も大変魅力的です。
しかしながら、当館の人気者(?)で、独特の“風合い”を感じさせる関東地方を中心とした人物・動物埴輪との関係に、想い(疑問?)が及んだ方も多いかと思います。
今回は、その誕生の“秘密”についてお話しします。


第1回で紹介しましたように、埴輪には主な種類だけでも、実に多種多様な器種があります。
もちろん、古墳に配列される場合は円筒埴輪・壺形埴輪などが圧倒的多数を占めます。
しかし、古墳時代前期から中期(4世紀中頃~5世紀初頃)にかけて、実にさまざまな器財埴輪や人物・動物埴輪などが次々と出現し、次第に種類が増えていったことが明らかにされています。

その造形には、製作技術が異なる二つの大きな“潮流”がありました。
まず、最初に誕生したのは、いわば“土器系の埴輪”です。
埴輪の起原は、弥生土器が変化して誕生した円筒埴輪や壺形埴輪で、後にこれらを組み合わせた朝顔形埴輪も登場しました。瀬戸内から近畿地方で成立したとみられています。

その誕生からおよそ100年後、次に出現したのはさまざまな道具(器物)を表現した器財埴輪でした。
4世紀中頃に現れた家形埴輪に続いて、貴人に差しかける日傘を象った蓋形埴輪をはじめ、武器・武具を象った甲冑・盾・靫形埴輪や船形埴輪などが、次々と登場したことはすでにご紹介したとおりです。


このうち、“土器系の埴輪”(円筒埴輪・壺形埴輪・朝顔形埴輪)は、第2回で解説しましたように、粘土紐を巻き上げる技法で造られています。
縄文・弥生時代以来の伝統的な土器造りの製作技術で作られた埴輪です。

これに対し、器財埴輪は粘土板を多用し、輪郭を刀子状の工具で切り抜くように整形した、実にメリハリ(!)の効いた造形が特色です。
船形埴輪の舳先(へさき)・艫(とも)にそそり立つ飾板や、家形埴輪の破風(はふ)や軒先(のきさき)にみられるシャープな輪郭からは、その造形技法の鋭さを感じ取って頂けるものと思います。

船形埴輪と家形埴輪
(左) 重要文化財  埴輪 船 古墳時代・5世紀 宮崎県西都市  西都原古墳群出土 
(右)
重要文化財  埴輪 入母屋造家 古墳時代・4~5世紀 奈良県桜井市外山出土


一方、中期から後期(5世紀後半~6世紀初頃)にかけては、新たに人物・動物埴輪や水鳥形埴輪などの多様な形象埴輪が出現しました。
これらの埴輪は、細部には人物の服飾や頭髪などに写実的な部分も見られますが、基本的には円筒形を基本にしていることが特徴です。
人物・動物の胴部や頭部は、円筒埴輪・壺形埴輪などの“土器系”の埴輪と同じく、粘土紐巻き上げを基本とする製作技術で作られています。
そのため、外形の輪郭は丸みを滞びた滑らかなカーブを描き、全体に柔らかな造形が特色です。

とくに、人物埴輪は器台部から頭部に向かって、粘土紐を繰り返し巻き上げることで製作されています。
その結果、下半部は上半部を支える“土台”の役割を果たすため、上半身は一般的に下半身に比べて「小振り」に製作されていることに特徴があります。
多くはしっかりとした下半身や胴体部分の表現に比べ、頭部は小さめの表現が印象的です。
すでにお気づきのように・・・、人物埴輪の頭部が“小顔”で愛らしいことには、必然的な理由(!)があった訳です。

猪形埴輪と巫女形埴輪
(左) 埴輪 猪 古墳時代・5世紀 大阪府藤井寺市 青山4号墳出土 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵
(右)
埴輪 女子(巫女) 古墳時代・5世紀 大阪府藤井寺市 蕃上山古墳出土 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵


また、ほぼ同じ時期の器財埴輪にも、製作技術上の変化を認めることができます。
家形埴輪に代表されるように粘土板と刀子状工具の使用が衰退し、同じく粘土紐巻き上げ技法を基本とするようになります。
もともと家形埴輪は建築物を象った埴輪ですので、“角張った”外形と必要な室内空間から生み出されたバランスのよいシルエットが特徴でした。
しかし、この時期の家形埴輪は、壁の隅部が著しく丸みを帯びた形に変化していることがお判り頂けると思います。
必要以上にずいぶんと“ノッポ”な外形で、まるで西洋の教会建築を思わせるような外観です。

とくに屋根部は、実際の建物ではあり得ないような傾斜をもつ例が増加し、これも壁部の変化に呼応した変化と考えられます。
とりわけ、6世紀後半の関東地方の家形埴輪の中には壁部分が“円筒化”し、断面形がほとんど楕円形(!)に近い例まで現れます。
とても、実際の建物を写実的に表現していると考えることはできません。

家形埴輪
(左)埴輪 寄棟造家 古墳時代・5~6世紀 奈良県磯城郡三宅町石見出土
(中)埴輪 寄棟造倉庫
 古墳時代・6世紀 群馬県伊勢崎市上植木出土
(右)埴輪 切妻造家
 古墳時代・6世紀 群馬県桐生市新里町出土(船田祐研氏寄贈) ※この作品は現在展示されていません。

このように人物・動物埴輪の出現をきっかけに、形象埴輪には単なる写実とは異なる新たな独特の表現が生み出されました。
すると、当館の人気者の愛らしい(?)人物・動物埴輪などは、関東地方でこのような新たな表現がさらに発達して洗練された結果であったということができそうです。
いわば、新たな埴輪独自の造形表現が完成された姿ということができます。

盛装女子、男子、犬埴輪
(左)埴輪 盛装の男子 古墳時代・6世紀  群馬県太田市四ツ塚古墳出土
(中)
重要文化財 埴輪 盛装の女子 古墳時代・6世紀 群馬県伊勢崎市豊城町横塚出土  ※この作品は現在展示されていません。
(右)埴輪 犬
 古墳時代・6世紀 群馬県伊勢崎市大字境上武士字天神山出土


   
このように古墳時代後半期においても、畿内地方で生み出された形象埴輪の器種や製作技法の変化は、再び地方の埴輪生産に大きな影響を与えることになります。
やはり、畿内地方の埴輪は全国の埴輪造りの基準であり続けていたのです。


もちろん、その背景には、埴輪が古墳時代の葬送儀礼に深く関わっていた(切っても切れない関係)とみられることが、もっとも大きな要因と考えられます。
古墳時代終末期(7世紀)を迎えると、全国で造り続けられていた前方後(後方)円墳は、突然ともいえる早さで急速に築造されなくなります。
その関係性を証明(?)するかのように、あれだけ盛行していた埴輪の製作も、ほぼ同時に一切見られなくなるのです。

展示全景

まさに埴輪は、日本列島独自の墓制である前方後円墳の誕生・終焉と軌を一にした、古墳文化そのものを“体現”した存在といえそうです。
それ故に通常、遺物や遺構だけでは判らない、目に見えにくい古墳文化の“風景”を後世の現代に具体的に伝えてくれます。


20世紀はしばしば「映像の世紀」ともよばれます。
歴史研究の方法として映像の果たす役割は、その再現性はもちろん、デジタル技術でカラー化が可能となった現在、ますます重要性が高まっていることをご存じの方も多いかと思います。
埴輪は、文字のない時代の人々の営み・行動(所作)を含め、当時の人々と道具などの関係性(情景)を造形(3D)で伝えてくれる、実に貴重な「証言者」ともいえる存在なのです。

このように多種多様な埴輪の一見素朴な味わいの外観と魅力的な造形には、古くから多くの方が惹きつけられてきました。
しかし、その誕生と移り変わりの背景には、当時の社会や人々の行動を考える多くのヒントが隠されていました。

本特集展示をとおして、埴輪のもつ独特な造形とその変化に秘められた「時代のうねり」や、(まさに“3D化”された・・・)「当時の人々のメッセージ」を感じ取って頂ければ幸いです。


ギャラリートーク

円筒埴輪と形象埴輪の見方」 2014年11月7日(金) 18:30~19:00  東洋館ミュージアムシアター

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年11月05日 (水)

 

特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方2-技術編-

特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺」(2014年9月9日(火)~12月7日(日)、平成館考古展示室)がはじまり、はや1ヶ月余りがたちました。
たくさんのお客様にお越しいただき、心から感謝しています。

考古展示室前・看板(猪形埴輪)、館内サイン(家形埴輪)
左:考古展示室前・看板(猪形埴輪)、右:館内サイン(家形埴輪)

この特集展示では、古墳時代の中心地域であり、大王のお墓(大王陵古墳)が多数含まれるとみられる大阪府古市古墳群の埴輪をたくさん展示しています。
展示の概要については、前回のブログをご覧ください。
今回は、その埴輪の造り方をキーワードに、見どころのポイントについて解説いたします。


まず、今回展示をした作品のなかですぐに目に付くのは、土管のような形をした大きな円筒埴輪です。
大きなものでは160㎝以上もあり、大人の背丈ほどもある大きさです。
大王陵級の古墳にたてられた円筒埴輪ともなると、このようにかなり大きかったようです。

5世紀前半の円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)
5世紀前半の円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)

この円筒埴輪はずいぶんと大きいので、造るのには相当大変だったことと思います。
板状や棒状に伸ばした粘土を輪にして、その輪を積み重ねることで筒状の埴輪ができあがります。
でも、この粘土は乾燥する前に一気に積み上げると重みで崩れてしまいます。私も実験で円筒埴輪を作ったことがあるのですが、何度も「倒壊」させてしまいました(笑)。

それを防ぐためには、ある程度の高さになったら一旦作業をとめて乾燥させる必要があります。
そして乾燥が終わると、ふたたび粘土を積み上げ、その繰り返しによって大きな筒をつくることができます。
とても手間と根気のいる作業です。

次に、円筒埴輪の表面に帯のように横にめぐる突帯をご覧ください。その間隔が一定なことに気がつかれたことと思います。
この突帯は、じつは定規のようなものを使って間隔が均一になるように、正確に計って(!)造られているのです。
しかも、横一直線に整然とめぐらせています。相当高い技術で造られていることがわかります。


さらに、この突帯の間には、横にめぐる細い線状の痕でびっしりと埋められていることがご覧いただけることと思います。
これはハケメ(刷毛目)と呼ばれる痕跡で、埴輪の表面を整えるために板状の木の工具でつけられた木目の跡です。

横方向のハケメ(左:写真2左の円筒埴輪の拡大、右:ハケメの微細写真)
横方向のハケメ(左:ハケメの微細写真、右:突帯間にあるハケメ)

まず、粘土を積み上げる過程で、粘土同士を密着させるために縦方向のハケメを施します。これは一次ハケメと呼ばれます。
次に、突帯を貼り付けた後に、狭い突帯の間に再度ハケメを施します。これを二次ハケメと呼んでいます。
このように、2回にわけてハケメを施すことによって表面を丁寧に整えてゆきます。
実は、この二次ハケメについては、1970年代から考古学的に重要な特徴がわかってきました。

当初、縦方向に施していた二次ハケメは、4世紀後半頃になるとランダムな横方向(A種)に変化してゆきます。
5世紀になると、横方向のハケメは断続的にめぐらされ、美しいリズミカルな模様を描くようになります(B種)。
さらに5世紀後半には、突帯の間を一周する切れ目のないハケメ(C種)に変化することがわかりました。
どうも円筒埴輪が回転する台の上で製作されるようになり、二次ハケメは回転台の力を利用して施すようになったと考えられています。

ハケメの変遷(円筒埴輪の編年 大阪府立近つ飛鳥博物館編2009『百舌鳥・古市古墳群展』を参考に作成)

このような製作技術の移り変わりは、1980年代以降、円筒埴輪の年代を推定する重要な指標として広く学会に受け容れられました。
とくに簡単に発掘できない大型古墳では、年代観の基礎データとなり、遺跡の研究や保護に大きな役割を果しています。
埴輪は古墳の地表面からも採集できますので、発掘調査をしていなくても古墳の時期や性格を知ることができる“すぐれもの”なのです。


次いで5世紀の後半から6世紀になると、円筒埴輪の製作にも大きな変化がみられます。
本展示では、小型の埴輪を6点展示しています。先ほどの大型の円筒埴輪と見比べてみましょう。


5世紀後半から6世紀の円筒埴輪(大阪府青山2号墳・蕃上山古墳・矢倉古墳 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)

一見して、とりわけ顕著な変化はその大きさです。腕の長さで納まる程度に小さくなります。
しかし、十分な乾燥期間をとらずに粘土の積み上げを一気におこなったために、埴輪がゆがんでしまうこともしばしばあります。

また、横方向のハケメを省略したため、二次ハケメでみえなかった縦方向の一次ハケメが表面に現れます。
突帯も、真っ直ぐではなくとも、多少斜めに曲がっていてもおかまいなしです。
この省略化や、造形美への“こだわりの薄さ”というのが、5世紀後半以降の埴輪のキーワードになっています。

縦方向のハケメと歪んだ突帯(左:縦方向のハケメ、右:歪んだ突帯 矢倉古墳 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)
縦方向のハケメと歪んだ突帯(左:縦方向のハケメ、右:歪んだ突帯 矢倉古墳 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)

このように埴輪の製作技術は、時期によって大きく変化します。
それゆえに、古墳の築造時期や性格を探る大きな手がかりともなっているのです。


ところで、ご紹介しました大型の円筒埴輪は5世紀の土師の里遺跡から出土しました。
この遺跡は、全国2位の規模をもつ伝応神天皇陵古墳(墳丘長:425m)に隣接し、古墳造営や埴輪生産に関わる伝承をもつ氏族、土師氏の本貫地と推定されています。
この埴輪は、中に人が入いる埋葬用のお棺として使われた特殊なもので、丸く刳り貫いた透孔も少なく、埋葬時にはこの孔も埴輪の破片で塞いでいました。

160㎝以上もある“巨大な”円筒埴輪を精巧につくるには、もちろん熟練した技術が必要です。
この埴輪もトップレベルの造り手の製品であるに違いありません。
そのような埴輪製作者や、埴輪製作者を統率していたリーダーが、この円筒埴輪に葬られたのかもしれません。
もしかしたら、「埴輪とともに生き、埴輪とともに死す」という世界観があったのでしょうか…。

展示室風景
展示室風景

畿内地方は、古墳時代の政治や経済の中心地であるとともに、埴輪生産の中心地でもありました。
古市古墳群周辺をはじめ、畿内地方で培われた埴輪製作技術が、各地方へと伝播してゆきます。
精巧に造っている段階でも、省略化した段階でも、全国の埴輪づくりの基準であることに変わりはありませんでした。


埴輪は見た目の印象でも充分に楽しめますが、その造り方に注目して細かく観察してみると、さらに楽しみは倍増します。
ぜひ、実物の資料を間近にご覧いただき、埴輪製作者の“情熱(?)”や想いというものを体感してみてください。

 

ギャラリートーク
円筒埴輪と形象埴輪の見方」 2014年11月7日(金) 18:30~19:00  東洋館ミュージアムシアター

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 河野正訓(考古室アソシエイトフェロー) at 2014年10月28日 (火)

 

特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方1-誕生・伝播編-

特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺-」(2014年9月9日(火)~12月7日(日)、平成館考古展示室)がはじまりました。
今回の特集展示は平成26年度考古相互貸借事業の一環として、大阪府立近つ飛鳥博物館と相互交換でお借りした埴輪を中心に構成しています。

展示全景
展示全景

展示室見取図
展示室見取図

当館の埴輪展示は、考古展示室に常設2ヵ所の展示コーナー(ステージ)があります。
いつも多くのお客さまに楽しんで頂いていますが、今回は普段、なかなかお目にかけることができない西日本の埴輪が「主役」です。


そもそも「埴輪の起原」は岡山県を中心とした瀬戸内から近畿地方にあります。
古墳時代の始まり(3世紀後半)と共に出現した(土管のような・・・)円筒埴輪と壺形埴輪が最初です。
発掘などの調査・研究活動の結果、1960年頃から次第に、その「誕生の秘密」が明らかにされてきました。

それは、弥生時代終末頃(3世紀前半頃)の墳墓(墳丘墓)で、祖先を祭る祭祀に用いられたと考えられている特殊器台形土器とよばれる“筒形”の土器と、それに載せていた壺形の土器が変化して生まれたというものです。
埴輪といえば、誰もが想い出す(おなじみの・・・)さまざまなカタチの形象埴輪は、かなり遅れて登場することも明らかになってきました。

形象埴輪は、まず4世紀中頃から後半に家形や蓋(きぬがさ)形、甲冑・盾・靫(ゆき)形や船形などの器財埴輪や、鶏・水鳥形などといった鳥形埴輪が現れます。

家形埴輪ステージ
家形埴輪ステージ(中央:家形埴輪群(群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土、
前列左端
:短甲形埴輪(群馬県藤岡市白石稲荷山古墳出土)、前列右端:蓋形埴輪(奈良県磯城郡三宅町石見出土)

やがて5世紀後半には、新たに人物・動物埴輪が加わります。
葬送儀礼に関わるさまざまな場面を表現する形象埴輪が、次第に揃っていった様子がうかがわれます。
1970年代以降には、このような埴輪群が5世紀末頃までに、日本列島の東北南部から九州南部地方にまで拡がっていったことも明らかにされました。

人物・動物埴輪ステージ
左:人物・動物埴輪ステージ(手前:巫女形埴輪(群馬県伊勢崎市古海出土))、右:猪形埴輪・犬形埴輪(群馬県伊勢崎市天神山古墳出土)


一方、畿内地方の巨大な大王陵古墳と地方の大型前方後円墳の墳丘は、しばしば相似形であることが注目されてきました。
当然、巨大な墳丘を築くにためには高度な測量や土木技術が必要であることはいうまでもありません。
また、日本列島各地で築造された大型古墳には、このような器財埴輪を含む埴輪群を備えた例が多いことにも注意する必要があります。

大型前方後円墳測量図
大型前方後円墳測量図 左:九州・宮崎県女狭穂塚古墳(西都市:全長176m)、右:畿内・大阪府伝仲津媛陵古墳(羽曳野市仲ッ山古墳:全長283m)

このような墳丘や埴輪にみられる「文化伝播の背景」には、古墳の築造に必要な墳丘構築と(土器と比べて“超”大型の焼き物である・・・)埴輪製作における密接な技術交流があったとみられます。
まさに、畿内地方の埴輪は全国の「埴輪造りの基準」であったのです。


今回の主役の埴輪が生まれた奈良県や大阪府は、畿内と呼ばれた古代日本の中心地の一つです。
世界最大の墳墓遺跡である伝仁徳天皇陵古墳(大阪府堺市大山古墳:全長486m)をはじめとした巨大な大王陵古墳が多数築造されたことで知られます。
とくに大阪平野では、巨大な古墳が4世紀末頃から5世紀に次々と築造され、現在世界遺産への登録を目指している古市・百舌鳥古墳群といった巨大古墳群が形成されました。

もちろん古墳時代(3世紀後半~7世紀)の中枢地域ですので、もっとも多量に大型の埴輪が生産された地方でもあり、人物・動物埴輪などの形象埴輪の主な新たな器種が最初に造られた可能性がもっとも高い地方でもあるのです。


さて、当館の埴輪はご承知のように、関東地方の家形埴輪や人物・動物埴輪が中心です。
そのため、残念ながらこのような畿内地方の埴輪ほとんどありません。

今回は、畿内中枢地域の埴輪を展示出来る絶好の機会ですので、(当館の人気者?である)人物・動物埴輪が生み出されたプロセスも併せてご覧頂けるようにテーマの構成を組み立てています。
1. 西日本の埴輪
2. 畿内地方の円筒埴輪
3. 人物・動物埴輪の出現

1. では、古墳時代前半期の埴輪のうち、畿内と地方の代表的な形象埴輪を中心にご覧頂きます。
大型船を象ったと考えられる宮崎県西都原古墳群出土の船形埴輪と、東日本ではみられない立派な入母屋造屋根をもつ奈良県出土の家形埴輪はその典型です。
いずれも重要文化財にも指定されており、器財埴輪として戦前から有名なものです。

左:西日本(前半期)の埴輪(全景)、右:器財埴輪模式図(阪口編2014より)
:西日本(前半期)の埴輪(全景)、右:器財埴輪模式図(阪口編2014より)

一方、4~5世紀の畿内地方で著しく発達した埴輪は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)には東北の岩手県から九州の鹿児島県まで伝播します。
当然・・・、畿内地方との技術交流の存在が想定でき、人々がダイナミックに交流する姿が浮かび上がります。
まず、畿内(中央)と地方の埴輪における技術的な親縁性や文化伝播の背景を感じ取って頂ければと思います。

次に、2. では大王陵古墳が集中する大阪平野の古市古墳群の円筒埴輪を展示しています。
なかでも最大の大型円筒埴輪は高さ160㎝を超える雄大な大型品で、(普段目にしている・・・)小型の埴輪からは想像できないほどの労力(情熱?・エネルギー?)が注がれたことは容易に想像できます。
用途は円筒棺とよばれる埴製の棺ですが、その雄大な規模や近年の発掘調査の事例から、大王陵古墳の円筒埴輪とほぼ同等な製品であると考えられています。

 左:畿内(古市古墳群)の埴輪(全景)、右:古市古墳群分布図
:畿内(古市古墳群)の埴輪(全景)、右:古市古墳群分布図

出土した大阪府藤井寺市土師の里遺跡は、古市古墳群の“ド”真ん中に存在します。
1970年代から発掘調査によって、古墳群の築造開始とともに成立した、多数の埴輪窯を伴った埴輪生産に携わった人々の集落遺跡であることが判明しました。
円筒埴輪の技術で製作される円筒棺は、大王陵古墳をはじめとした古墳造りで当時の王権を支えた集団のリーダーであった人物のための特別な棺であったとみられます。
畿内地方における大王陵古墳周辺の埴輪の規模と質感、(あるいは・・・)製作した人々の息吹も“実感”して頂けるのではないかと思います。

最後は、3. の古墳時代後半期の埴輪です。
形象埴輪群の構成・造形の移り変わりにおいて、もっとも大きな変化(画期)を紹介します。
器財埴輪はこれまでと大きくフォルムを変え、家形埴輪に代表される埴輪独自ともいえる独特な造形が確立する時期です。
しかし、もっとも大きな特色は、なんといっても新たに登場した人物・動物埴輪の出現でしょう。

左:後半期の埴輪(全景)、右:猪形埴輪(大阪府藤井寺市青山4号墳出土)
:後半期の埴輪(全景)、右:猪形埴輪(大阪府藤井寺市青山4号墳出土)

5世紀中頃に出現する女子(巫女)形・馬形埴輪に続いて、5世紀後半にはさまざまな人物埴輪・動物埴輪が登場します。
人物埴輪は少数の全身像と大多数の半身像のさまざまな男女像で構成されています。
その種類は男子埴輪を中心にして、盛装の男女形をはじめ、武人・楽人・力士形などなど、実に50以上もあります。

一方、動物埴輪には鹿・猪・犬・猿形などや水鳥形などの鳥形埴輪がありますが、なかには猪・犬形埴輪が狩人とみられる人物埴輪とセットで狩猟場面を表す例などもあります。
いずれも群で表現される物語性をもった造形であることが、これまでの埴輪にはない大きな特色のひとつです。


一口に埴輪と言っても、その誕生から終焉の間には、劇的な変化が起きていたことがお解り頂けたことと思います。
このような変化は1970年代以降の研究によって、埴輪が突如として造られなくなる6世紀末ごろまで全国共通の変化であることも明らかにされてきました。
その“震源地”は常に畿内地方で、全国の埴輪造りに大きく関わっていたことも近年の研究でいよいよ明らかになってきています。


埴輪に限らず、「原点(原資料)」を見つめることは、多くの事実やヒントに気づかせてくれます。
今回の特集展示では、“原点の埴輪”を比較・観察して頂くことによって、時代の変化とともに移り変わっていった埴輪群の構成や造形の変化のありさまをじっくりご覧頂けることと思います。

このような変化の“原動力”とその歴史的な意味を明らかにすることができれば、当時の人々の世界観の一端に触れることが可能となる日もそう遠くないに違いありません。

それには、やはり今一度、埴輪自身を見つめることが第一歩です。
次回は、埴輪のカタチや造形の特色を決定づける「製作技術の秘密」についてお話しします。


ギャラリートーク
西日本の埴輪の造形・変遷と伝播」2014年10月21日(火) 14:00~14:30  平成館考古展示室
円筒埴輪と形象埴輪の見方」 2014年11月7日(金) 18:30~19:00  東洋館ミュージアムシアター

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年10月03日 (金)

 

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ・・・)3-交流トピック編

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」[2013年10月29日(火)~2014年3月9日(日)]ものこすところ、あと3週間たらずとなりました。

左)展示入口サイン、右)響灘沿岸部遺跡分布図
左)展示入口サイン、右)響灘沿岸部遺跡分布図

今回は、当館の収蔵品にはないため、普段お目にかけることができない展示品に注目して頂きたいと思います。
それぞれの見どころやまつわるエピソードをご紹介しつつ、弥生時代前期の響灘沿岸地方の人々がたずさわった朝鮮半島や山陰・瀬戸内地方との交流の歴史も考えてみたいと思います。


まず、綾羅木郷遺跡を有名にしたのは、なんといっても最初のガイダンス(響灘の弥生文化)コーナーに展示されている「土笛」です。
すぼまった上部に小さな口縁部をもつ中空の倒卵形で、高さ8センチにも満たない小さな土製品です。

響灘の弥生文化[甕・壺(綾羅木Ⅲ式)と土笛・武器形磨製石器・玉類] 土笛[正面・高7.1㎝]
左)響灘の弥生文化[甕・壺(綾羅木III式)と土笛・武器形磨製石器・玉類]、右)土笛[正面・高7.1㎝]

口縁部の周辺をやや欠いていますが・・・、両手で持つとちょうど手の平にスッポリと納まる大きさです。
正面には四つ、背面には二つの孔が開けられ、実に不思議な形をしています。

1967年、発掘担当者であった国分直一博士は、古代中国・殷代の礼楽器の陶塤(とうけん)に似ていることから口縁部を吹口、側面の孔を指孔とみて、農耕儀礼(?)に使った楽器の一種ではないかと考えました。
また、これを知った地元の画家・松岡敏行氏が粘土を焼いて製作した模造品で実験を行った結果、草笛に近い音色でメロディーを奏でることができることが判りました。
ちなみに松岡さんは芸大・日本画のご出身で、卒業制作では当館で見た弥生土器と埴輪をあしらった静物画を描いたそうです。

その後、復元品を松岡氏の個展で見て深く興味を覚えた、これまた地元の作曲家・町田洋氏が演奏活動やリサイタルを続け、1978年には(ついに!)LPレコード(東芝EMI)を出すなど、広く知られるようになりました。


さて、このような「土笛」は近年の発掘調査の進展で、弥生時代前期~中期にかけて響灘沿岸部や山陰・京都北部地方に広く分布することが判ってきました。
とくに山口県下関市周辺、島根県松江市から鳥取県米子市にかけての一帯、京都府峰山町などの丹後半島一帯の3地域で集中的に出土しています。なかでも、島根県西川津遺跡とタテチョウ遺跡では、それぞれ約20点も出土しています。

一方、西方の九州では福岡県福津市・宗像市域を西限として、いずれも響灘沿岸部に止まっています。
日本列島で最初に稲作文化が根付いた玄界灘沿岸より西側では、(なぜか・・・)出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。

 
上)弥生時代前期 綾羅木式土器・土笛等 分布図

綾羅木式土器の文様[Ⅱ式:山形重弧文・Ⅲ式:貝殻重弧文]
上)弥生時代前期 綾羅木式土器・土笛等 分布図、下)綾羅木式土器の文様[II式:山形重弧文・III式:貝殻重弧文]

そこで分布図をよく見てみると・・・、その分布範囲は独特な山形重弧文や各種の貝殻文で知られる「綾羅木式土器」の分布圏とピッタリ重なっていることが判ります。
どうも九州の響灘沿岸部から山陰の日本海側の弥生文化に共有されていた特有な文物で、独自の儀礼を伴う稲作文化であった可能性も指摘されています。
日本最古の農耕文化が成立した玄界灘や有明海沿岸などの北西部九州地方とは異なった地域文化の存在と、北東部九州と山陰地方の人々の交流が浮かび上がります。


次は、そのお隣の「磨製石剣・石鏃」を挟んで展示されている小さな玉類に注目してみましょう。
ホントに小さな出土品(3は直径2mm!)ですので、ウッカリ見落としてしまいそうですが・・・。
実は今回の展覧会の“白眉”ともいえる存在です。

左)装身具展示状況、右)勾玉・丸玉・小玉[上:アマゾナイト製、下:貝製]
左)装身具展示状況、右)勾玉・丸玉・小玉[上:アマゾナイト製、下:貝製]

まず、小さな白い貝製小玉は貝珠とも呼ばれ、二枚貝を加工して作られています。
縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、朝鮮半島南部と五島列島、および北部九州や中国地方の一部に分布しています。
一般的な日本列島出土品より朝鮮半島南部出土品は大型で、響灘沿岸部の出土品はとくに繊細で小型といった地域性もあります。

一方、鮮やかな緑色の玉はアマゾナイト(天河石)という珍しい石で、朝鮮半島の青銅器文化にしばしば登場する石材です。
獣形・半環状などの独特の垂飾類が発達しますが、綾羅木郷遺跡出土品は形態や石材が大変よく似ています。日本列島では弥生時代前期から中期にかけて、まだ10数例しか知られていません。
ほとんどが北部九州地方に偏って分布することも特徴で、大陸からもたらされた青銅器文化と共に運ばれてきた可能性が高い文物と考えられています。
これらの玉類は、朝鮮半島と日本列島の人々の文化交流を如実に物語るものでしょう。


もう一つ、ケース中央に展示している二つの小さな土器に注目して頂きます。
装飾的でひときわ大型の土器が多い綾羅木III式土器の中で、文様もなく(何の変哲もない?)かなり“地味~”な土器です。
口縁部の対称的な位置に2孔一組の孔が空いた土器が無頸壺(4)で、口縁部に三角形状の突帯をもつカップ形の土器が無文土器(2)です(ホントにかわいらしい土器ですね)。

左)綾羅木Ⅲ式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)
左)綾羅木III式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)

無頸壺は、北部九州から瀬戸内海地方で弥生時代前期後半に現れた土器です。
中期に盛行することから、地方色が顕在化する中期弥生文化を象徴する存在とも考えられています。
綾羅木式土器が分布する瀬戸内海地方との交流が背景にあったことがうかがわれます。

一方、無文土器はもともと朝鮮半島の青銅器~初期鉄器時代の農耕社会で使用された土器です。
胎土は弥生土器と似ていますが、とくに甕形土器は指ナデで造るために凸凹(デコボコ)が著しく、弥生土器には見られない口縁部粘土紐や円板底の底部などが特徴です。
弥生時代前期後半から中期にかけて、北部九州地方を中心に近畿地方まで分布し、渡来人の直接的な影響の範囲を示すものとして注目されています。


ところで、綾羅木III式期(前期末頃)の綾羅木郷遺跡は、2~3重環濠に囲まれた集落が最大になった時期で、近畿北部や四国北西部地方にまで綾羅木III式土器が拡がった時期です。
綾羅木郷遺跡の人々がもっとも活動的であった時代といえるでしょう。

左)綾羅木Ⅲ式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)
左)無頸壺[高10.2㎝]、中)無文土器[高12.6㎝]、右)綾羅木壕遺跡の環濠集落(西部地区)

1974年、同じ前期末頃の福岡県師岡B遺跡の発掘調査では、弥生土器よりも多くの無文土器を使用する人々(渡来人?)の集落が営まれていたことが判明して関係者を驚かせました。
また、少し後の中期初頭には、対馬海峡を挟む韓国・釜山の莱城(ネソン)遺跡で出土土器の90%以上が弥生土器という特異な住居跡も見つかっています。
ひょっとして、中世の中国や東南アジアに建設された「日本人町」を彷彿とさせるもの(?)かもしれません・・・。

いずれの遺跡も日本と韓国で、在地の土器とは異なる(当時の)“外国”の人々が使う土器を多数保有する集落です。
交流によって海を渡った人々の生活の痕跡が残された遺跡とみられ、相互に地元では手に入らない資源を求め、交易等を行っていた人々の姿が目に浮かぶようです。
これらの土器は、日本列島に稲作文化が急速に拡大するとともに、新しく大陸からもたらされた青銅器の生産が開始される時代に、綾羅木郷遺跡の人々のアクティブな活動をうかがわせる重要な“証人”でもあるということができます。


ややもすると、装飾豊かな土器や煌(きら)びやかな金属器にばかり目を奪われがちですが・・・、
今回ご紹介したような小さな、ときに地味な造形の中には、しばしば当時の人々のダイナミックな活動がストレートに「記録」されていることがあります。

これらの「小さな造形」に秘められた当時の人々の活躍ぶりと、歴史の大きな“うねり”を感じ取って頂ければ幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年02月21日 (金)

 

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ…) 2 -食べモノ事情編

現在、平成館考古展示室では昨年10月29日から本年3月9日まで平成25年度考古相互貸借事業として、特集陳列「本州最西端の弥生文化 -響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」を開催しています。
会期は残すところひと月余りとなりましたが、もうご覧いただけましたでしょうか?

展示風景
展示風景

この特集陳列では、通常の発掘調査ではなかなか検出されることのない、食糧残滓をはじめとする動物や植物の遺存体を展示しています。これら有機質の資料は、弥生時代の食料(たべもの)を考える上でとても貴重ですが、残念ながら当館にはこれだけ豊富な有機質資料は所蔵されていません。
そこで今回は、綾羅木郷遺跡から出土した海の幸、山の幸、コメと木の実にスポットを当てて弥生時代の“食べモノ事情”についてご紹介いたします。


海の幸

綾羅木郷遺跡は山口県下関市に所在し、西には響灘に面し、南は関門海峡を経て周防灘へつながっています。
これまでの発掘調査によって、綾羅木郷遺跡では約600基もの貯蔵穴が検出されており、そうした貯蔵穴から魚骨や海獣骨など、当時の環境を反映した動物遺存体がたくさん出土しています。

出土動物骨
出土動物遺存体(1:ウニの棘  2:エイの尾棘  3:カニの脚爪 4:マダイ上顎骨 5:クジラの骨 6:硬骨魚下顎骨)

綾羅木郷遺跡では、マダイ、キチヌ、エイ、フエダイ科などの魚骨、ウニの棘やカニの脚爪、ヤマトシジミやハマグリ、サザエをはじめとする貝類、クジラやニホンアシカなどの海獣骨が出土しています。
マダイは深い岩場や砂底に生息し、キチヌは沿岸の浅い海の岩場や河口付近の汽水域を好むといわれています。フエダイはやはり沿岸部の岩場を好む魚です。響灘や綾羅木川河口付近でこうした魚を捕えていたと推測されます。
同じく遺跡から出土している骨製ヤスやクジラ骨製のアワビおこし、土錘や石錘などの漁撈具から考えると、当時は刺突漁、潜水漁、網猟などが活発であったことが窺えます。

骨角器
骨角器(2:アワビおこし、3:ヤス)

注目すべきは、クジラやニホンアシカなどの骨が検出されていることです。
特にクジラのような大きな動物を丸木舟で捕獲するのはとても危険で大変な作業であったにちがいありません。そのため、当時は浜辺に打ち上げられた漂着クジラを利用していたのではないかと推定されています。
いずれにせよ、綾羅木郷遺跡の弥生人は、内海だけではなく、時にはこうした大型の海獣を漁撈の対象として積極的に外海にも展開していた可能性があります。


山の幸
次に山の幸を見てみましょう。
綾羅木郷遺跡ではイノシシ、ニホンジカ、タヌキ、クマネズミ、モグラ類、ニホンザル、カモ類などが出土しています。特集陳列では、そのうちイノシシとニホンジカ、ニホンザルの骨を展示しています。いわば当時の弥生人の食べあとです。
これらの動物の多くは、現代でも里山周辺など、人間の生活環境で見かけることがあるように、当時も集落周辺に生息していたと考えられます。捕えた動物はその肉以外にも、毛皮、骨、角、牙など余すところなく生活道具の材料として利用されていたことが、出土した骨製のヤスやアワビおこし、縫い針などから窺えます。

出土動物骨
出土動物骨(1:ニホンジカの下顎骨  2:イノシシの上腕骨  3:ニホンザルの中手骨)

また、綾羅木郷遺跡からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。 
なお、こうした狩猟の場面を表すものに当館の銅鐸(伝香川県出土:国宝)があります。この銅鐸には袈裟襷文と呼ばれる文様区画の中に12場面の「絵画」が描かれていますが、その中にイヌを使ったイノシシ狩りや、人が弓に矢をつがえてシカを射ようとする場面があります。
綾羅木郷遺跡出土の動物骨は、この絵画に描かれた狩猟場面をよりリアルに伝えてくれる貴重な証拠ともいえるのではないでしょうか。

銅鐸の絵
国宝 銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 (2014年6月15日(日)まで平成館考古展示室にて展示)
左:イノシシ狩のようす 右:弓に矢をつがえてシカを狙う人物


炭化米と木の実

綾羅木郷遺跡では貯蔵穴からコメやムギなどの穀類、堅果類や果実の種などが出土しています。
炭化米は文字どおり炭化したコメです。地中に無酸素状態で埋没した結果、黒く変色したものや、焼け焦げたものを指します。綾羅木郷遺跡では貯蔵穴などから7,000粒を超える炭化米が検出されています。これらのコメは現在日本で一般的に食べられているお米と同じタイプのもの(ジャポニカ種)と推定されています。
また、間接的な証拠ですが、土器の底に籾痕がついた破片も見つかっています。土器作りの際に誤って籾が付着してしまったのでしょうか。

出土炭化米
左:炭化米 中:籾圧痕付土器(底部) 右:シイの実

ここで注意しなければならないことは、弥生時代の人々にとって、コメが日常的に食べられる食料であったかどうかです。ある研究の結果、弥生時代の一人が一日に口できるお米は前期で一勺(しゃく)程度、中期で六勺から一合程度、後期でも二合に至らないとする試算があります。
一勺は一合の10分の1、一升の100分の1という小さな単位です。もしこの数値が妥当であるならば、弥生時代の人々にとってコメはとても貴重な食料であり、毎食お腹いっぱい口にできるものではなかったと言わざるをえません。

植物食の出土遺跡数     弥生時代出土の穀物比率       
左:植物食の出土遺跡数 右:弥生時代出土の穀物比率
(森浩一編 1986 『日本の古代 4  縄文・弥生の生活』 中央公論社 ※寺沢薫論文より引用)


その一方で、縄文時代には身近であったどんぐりなどの木の実の利用はどうでしょうか。綾羅木郷遺跡でもスダジイ、マテバシイ、クリなどの木の実や、モモやウメなどの果実の種がたくさん出土しています。
今回はシイの実を展示しています。炭化していますが、形や大きさがよく分かります。
いわゆるどんぐりの中に、アク抜きなどの下ごしらえが必要なものもありますが、スダジイやマテバシイの実はアクが少なく利用しやすい木の実といえます。スダジイ、マテバシイは西日本の常緑照葉樹林にみられる木です。

どんぐり
左から、原生のスダジイ・マテバシイ・クリの実
(北川尚史監修・伊藤ふくお著 2007年 『どんぐりの図鑑』 トンボ出版より作成)



一般的に、弥生時代の食生活はコメを中心としたものと思われがちです。これはおそらく弥生文化が稲作に代表される農耕文化であるというイメージが強いからではないでしょうか。
ところが、ご覧いただいたように、弥生時代の人々はコメ以外のさまざまな食材も巧みに利用していたと考えられます。コメという魅力的でありながらも、天候や虫害などの影響で収穫量が不安定であった新来の作物の栽培を進めつつ、日々の生活では縄文時代以来の伝統的な食材をふんだんに利用していた食生活を窺うことができるのではないでしょうか。
炭化したコメやシイの実を見つめていると、当時の人々の巧みな知恵を感じることができるような気がします。


今回は綾羅木郷遺跡出土の有機物を中心に“食べモノ事情”についてご紹介しました。
綾羅木郷遺跡の弥生人は、コメ作りという一年を通じた農作業の中に、狩猟・漁撈・採集といった縄文時代からつづく伝統的な営みを巧みに取り込んでいたと考えられます。
展示されている綾羅木郷遺跡出土の動植物の遺存体を通じて、皆様に弥生時代の人々のくらしをお考えいただく機会になれば幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 井出浩正(考古室) at 2014年01月31日 (金)