このページの本文へ移動

1089ブログ

「呉昌碩の世界」その3 中華文人の友だちづくり

東京国立博物館(以下「東博」)の植松です。

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(~3月17日(日))が開催中です。
こちらは毎年恒例の東博と台東区立書道博物館の連携企画ですが、今年は、呉昌碩生誕180年記念事業ということで、もう2館、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館の呉昌碩展示とも時期を合わせて、より総合的に「呉昌碩の世界」をご案内しています。
 
この展示をよりお楽しみいただくため、リレー形式による1089ブログをお送りします(過去のブログはこちらから。「呉昌碩の世界」その1その2)。
3回目の今回は東博展示から、呉昌碩とその師友との交流がよくわかる作品を紹介します。

古柏図軸(こはくずじく) 呉大澂(ごたいちょう)筆 清時代・光緒14年(1888) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博にて3月17日(日)まで展示】


こちらの、「古柏図軸」、なんか、画のまわりにいっぱい字がある! と驚かれるかもしれません。
どうしてこういうことになるのでしょうか。それはこの作品が、本来は、展覧会に掛けて公(おおやけ)に楽しまれるものではなく、文人たちの友情を深めるためのプライベートな贈りものであったからなのです。
「柏」と題がついていますが、中国でいう柏は、日本のカシワ(落葉樹)ではなくヒノキ(常緑樹)の類を指し、いつでも葉が青々としていることから、長寿や高潔な人柄の象徴として愛されてきました。
贈りものにするのにぴったりの画題ですね。

誰がどんなことを書いているのか、まずは、絵画の部分を見ていきましょう。
落款(らっかん)と印章が2セットあります。


古柏図軸の絵画部分
 

古柏図軸の湯貽汾(とういふん)落款部分

左下の方には「湯雨生(とううせい)」と書かれています。
雨生は、清代後期の著名な画家、湯貽汾(とういふん、1778~1853)の字(あざな)であって、これはその落款ということになります。
 
でもちょっと待ってください。
その下に「清卿臨本(せいけいりんぽん)」と印がありますね。
「臨本」すなわち模写ですから、これは清卿という人が、落款も含めて湯貽汾の古柏図を模写したものという意味になります。
清卿は、清代末期の高官で学者、書画篆刻家としても著名であった呉大澂(ごたいちょう、1835~1902)の字です。

その呉大澂の落款が右上、画の中ほどにあります。


古柏図軸の呉大澂(ごたいちょう)落款部分

これにより、呉大澂は光緒14年(1888)の秋7月、この模写を作って「見山(けんざん)」という人に贈ったことがわかります。
見山は、やはり学者で書家としても有名な楊峴(ようけん、1819~96)の字になります。

模写作品を贈りものにするというのはちょっと変な感じがします。
ただ、清の武官として活躍し、太平天国(たいへいてんごく)の乱で南京が陥落した際に殉死した湯貽汾は、呉大澂にとって尊敬すべき先輩であり、模写も特に謹厳な態度でのぞんでいます。
そのような模写作品であれば、楊峴への贈りものとして問題なかったのではないでしょうか。

楊峴は、光緒16年(1890)の夏6月、画の右外に題記を書いています。
ここには、光緒14年秋、呉大澂からもらったこの作品を、2年後のこの年、「麈遺先生(しゅいせんせい)」なる人の「松柏之寿(しょうはくのじゅ、長寿)」の祝いとして贈ったとあります。


古柏図軸の楊峴(ようけん)題記部分

残念ながら、麈遺先生が誰かはわからなかったのですが、この麈遺先生に頼まれて、光緒16年8月、画の上に堂々たる題字を書いたのが、まだ47歳と比較的若い呉昌碩です。


古柏図の呉昌碩題字部分

呉昌碩にしてみれば、9歳上の呉大澂はこの頃知り合ったばかり、官位も、学者、書画篆刻家としての名声・実績も遠く及びません。
また、25歳上の楊峴は、30代から大変お世話になっている書と詩の師匠です。
その二人ゆかりの作品に題字を書くというのは大変なプレッシャーだったと想像されますが、見事それに応えています。
こういった、作品上での文人同士の交流が、書画家としての呉昌碩を育てていったことがわかるでしょう。

古柏図軸

その後も、10年にわたり都合5名の文人たちが、呉大澂、楊峴、呉昌碩に続いて、画の両側を埋め尽くすように題記を書いた結果、本作は現在の姿になりました。
現代の私たちには見慣れない、書と画の競演ですが、呉昌碩と師友たちとの交流の軌跡として楽しんでいただければ幸いです。

(追記)
ブログを読んでくださった方から、「麈遺」は、楊峴と同郷の書画家、凌霞(りょうか)の号であるとご指摘いただきました。
ありがとうございました!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

| 記事URL |

posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2024年02月26日 (月)

 

「呉昌碩の世界」その1 真骨頂の書

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(前期展示:2月12日(月・休)まで、後期展示:2月14日(水)~3月17日(日))が開催中です。

今年で21回目を数える東京国立博物館(以下「東博」)と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画。今回は、呉昌碩(ごしょうせき)生誕180年記念事業として、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館と時期を合わせて「呉昌碩の世界」をご紹介しています。
本展を多くの方々にお楽しみいただこうと、東博と書道博の研究員でリレー形式による1089ブログをお送りします。初回は東博展示から、書跡のオススメ作品を中心にご案内します。
 

2024年に生誕180年を迎えた呉昌碩(1844~1927)は、清朝末期から中華民国初期にかけて書画篆刻(てんこく)に偉大な業績を遺し、清朝300年の掉尾(ちょうび)と近代中国の劈頭(へきとう)を飾る文人として知られます。その芸術は、当時盛行した古代の金属器や石刻などの金石(きんせき)文字の研究を素地として、同じく金石を尊重した先学や師友たちから影響を受けて形成されました。
呉昌碩はとりわけ戦国時代・秦の「石鼓文(せっこぶん)」に執心しました。石鼓文は王の狩猟の様子などを詠う韻文を、太鼓形の10個の石に刻した銘文で、大篆(だいてん)と呼ばれる篆書(てんしょ)の古典として重んじられます。呉昌碩は生涯にわたってその臨書を続け、自らの芸術を「金石の気」と呼ばれる特異なオーラに満ちた、質朴で重厚なものへと昇華させます。
後年、呉昌碩は上海芸術界の中心人物となり、中国に渡った日本の同好の士とも交流して大きな影響を与えます。大正時代には作品集の刊行や個展の開催など、呉昌碩の作品は日本でも広く愛好されました。
東博展示では、サブタイトルに「金石の交わり」(金石のように堅いまじわり)と題して、第1部「呉昌碩前夜」、第2部「呉昌碩の書・画・印」、第3部「呉昌碩の交遊」の3部構成とし、金石に魅せられた呉昌碩の作品を、影響を受けた先学や交流のあった師友たちの作品とともにご覧いただきます。

 

篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵 
[東博通期展示]


呉昌碩の書法の真骨頂である篆書は、50代の頃まで先学の能書、楊沂孫(ようきそん、1812~1881)の書法の影響が顕著でした。しかし、60代以降、恣意的なまでの解釈を加えた石鼓文の臨書により、先学の影響を脱して、70代から最晩年に至るまで独自の様式を築くに至ります。
「篆書八言聯」は呉昌碩が74歳の時に、石鼓文から文字を集めて、8言2句「天馬出斿嚢弓執矢、淵魚共楽微雨夕陰」を2幅に書いた作品です。款記(かんき)には、石鼓文の北宋時代の拓本をもとに阮元(げんげん、1764~1849)が制作した重刻本(じゅうこくぼん)から集字したことが記されます。

 

篆書八言聯 呉昌碩筆(部分)

 


石鼓文―阮氏重撫天一閣本―(せっこぶん げんしじゅうぶてんいつかくぼん) 
阮元模 清時代・嘉慶2年(1797)、原刻:戦国時代・前5~前4世紀 市河三鼎氏寄贈 東京国立博物館蔵
[東博前期展示]


こちらは阮元による石鼓文の重刻本の作例です。阮元は、明の蔵書家、范欽(はんきん、1506~1585)を祖とする天一閣(てんいつかく、浙江省)所蔵の北宋拓本をもとに制作しました。
呉昌碩は阮元が創設した書院、詁経精舎(こけいせいしゃ、浙江省)で学び、学術的な背景から、石鼓文の拓本のなかでも阮元の重刻本を尊重したことが指摘されています。
呉昌碩74歳時の「篆書八言聯」と石鼓文を比べてわかるように、この頃の呉昌碩は石鼓文の字形をもとにしながらも、やや右上がりの躍動感のある文字構えに変えていたり、縦長で重心が高い引き締まった造形にしています。朴訥とした筆使いで、線質は重厚で力強さが感じられます。あたかも無機質な線の石鼓文に息吹を吹き込み、生気に満ちた字姿に再生しているかのようです。

 

篆書集石鼓字聯(てんしょしゅうせっこじれん)
呉昌碩筆 清時代・19世紀 青山慶示氏寄贈 東京国立博物館蔵 
[東博後期展示]


一方、「篆書集石鼓字聯」は呉昌碩が「呉俊(ごしゅん)」と名のっていた51歳以前の早期の作例で、同じく石鼓文から集字して7言2句「水逮深淵又其道、雨滋嘉樹敷之華」を書写した対聯(ついれん※家の門や柱、壁などを飾る対句を表した2幅の書)です。
先ほどの「篆書八言聯」に対して本作は、石鼓文の字形に比較的忠実で、筆使いは謹厳、線には繊細さが見られます。
当時の呉昌碩は、石鼓文をはじめとする金石文字を拠りどころとしながら、先学の書をふまえて自己の作風を模索していました。本作の字姿にも、同じく石鼓文を深く学んだ楊沂孫の書法の影響がうかがえます。

 

篆書集石鼓字聯 呉昌碩筆(部分)

 


篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
楊沂孫筆 清時代・光緒5年(1879) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
東博前期展示


楊沂孫は呉昌碩より32歳年長で、呉昌碩に先んじて、石鼓文をもとに独自の様式を築いた能書です。
この「篆書八言聯」は、楊沂孫が晩年の67歳時に8言2句「欲知則学欲能則問、持酒以礼持才以愚」を書写した対聯です。
秦の始皇帝が制定した、小篆(しょうてん)と呼ばれる篆書を基調として、石鼓文の文字構えを取り入れた造形をしています。虚飾を排した筆使いはよどみがなく実に自然で、剛と柔の中庸を得た線質です。
本作のような清純な趣の石鼓文風の篆書に、模索期の呉昌碩は強く惹かれたのかもしれません。

 

篆書八言聯 楊沂孫筆(部分)


本展を通して、金石で彩られた「呉昌碩の世界」をご堪能いただけますと幸いです。

 

生誕180年記念 呉昌碩の世界

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館、九州国立博物館、兵庫県立美術館、台東区立朝倉彫塑館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
制作・印刷:大協印刷株式会社
定価:1,800円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する
生誕180年記念 呉昌碩の世界 表紙画像

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

| 記事URL |

posted by 六人部克典(東洋室) at 2024年02月02日 (金)

 

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」にみる人間模様

 「やまと絵」という言葉は、平安時代のなかばから使われており、古くは一条天皇の後宮に藤原彰子(ふじわらのしょうし)が入内(じゅだい)する際にやまと絵の屛風を用意したという記録があります。彰子は、藤原道長(みちなが)の娘であり、紫式部(むらさきしきぶ)が仕えた女主人として知られています。

重要文化財 紫式部日記絵巻断簡(むらさきしきぶにっきえまきだんかん)(部分)
鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵
藤原彰子が一条天皇の皇子(のちの後一条天皇)を出産して、その誕生五十日目を祝う場面。画面の右方で、背中を向けている女性が彰子。画面の下方の男性は、彰子の父である藤原道長。画面の左方には、道長の妻で、彰子の母である源倫子(みなもとのりんし)が皇子を抱いています。
 
紫式部が執筆した『源氏物語』は、彼女特有の深い洞察力と豊かな美意識によって、平安時代の貴族たちの上質な生活感がみごとに描写されており、登場人物たちは欠点すらも優雅すぎて感情移入しにくいところもあります。
これは時代の違いとばかりも言いきれず、平安時代の文学少女として知られる『更級日記(さらしなにっき)』の筆者は、子どものころ「大きくなったら、光源氏(ひかるげんじ)に愛された夕顔(ゆうがお)や、薫(かおる)に愛された浮舟(うきふね)のようになるんだ」と信じていたようですが(あとから思い返して恥ずかしがるのが良い)、これは現実感がないくらいハイスペックな紫の上や明石の君たちに比べると、自分自身を投影しやすくて魅力的なキャラクターだったのでしょう。
 
『源氏物語』には理想的な人物ばかりでなく、ちょいちょいと息抜きのように現実的な人々が登場します。いつの時代にもいそうで親しみをおぼえるのは夕霧(ゆうぎり)と雲居の雁(くもいのかり)のカップルです。
光源氏の息子である夕霧は、幼なじみの雲居の雁と結ばれるために、はやく一人前として認められるように努力を重ねました。念願がかなって雲居の雁と結ばれ、たくさんの子供に恵まれたところで、親友の柏木(かしわぎ)が亡くなり、あとに残された落葉の宮(おちばのみや)のもとに通ううちに、しだいに宮に心を奪われてゆきます。なかなか落葉の宮に心を許してもらえないうちに、2人の関係を誤解した宮の母君から夕霧にあてて、娘を粗略に扱うことをなじる手紙が届きます。夕霧がその手紙を読もうとしたところ、雲居の雁がこれを落葉の宮からの手紙であると勘違いして、夕霧の背後から忍び寄って手紙を奪い取ります。その後、とうとう雲居の雁は子供を連れて実家に戻ってしまいますが、いつの間にか仲直りしたらしく、のちには夫婦で息子の縁談について気をもむような場面がでてきます。

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」の展示風景

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」の展示風景
 
国宝 源氏物語絵巻 夕霧(げんじものがたりえまき ゆうぎり)
平安時代・12世紀 東京・五島美術館蔵
展示期間:11月21日(火)~12月3日(日)
落葉の宮の母君から届いた手紙を読もうとする夕霧の背後から、妻である雲居の雁が手紙を奪おうと近づく緊迫の瞬間。恋する男、嫉妬する女、不安に見守る端女(はしため)たち。みな同じような引目鉤鼻(ひきめかぎはな)の顔立ちですが、見る者の想像力によって、各人の表情が見えてきます。
 
『源氏物語』の本質は「もののあはれ」だという、分かるような分からないような評言があります。その意味するところはさておき、『源氏物語』にはさまざまな人生や感情が描かれており、人間というのは昔も今も変わらないことを思わされます。きっと未来も変わらないでしょう。
 
国宝「源氏物語絵巻 夕霧」や重要文化財「紫式部日記絵巻断簡」をご覧いただける、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」は12月3日(日)まで。
ぜひ、足をお運びください。
 
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」の会場入口

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2023年11月24日 (金)

 

「柿本宮曼荼羅」の秘密

特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では仏画も展示されています。

やまと絵と仏画はつながりがなさそうですが、平安時代から鎌倉時代の初めころには、やまと絵を描いていた宮廷絵師と、仏画を描く絵仏師が、天皇が企画した絵画制作プロジェクトに一緒に参加していたことが記録に残されていて、互いの持つ技術を披露し合いながら絵を描いていたことが推測されます。その成果の一つが仏画に見られる自然景で、やまと絵の自然景と大差ありません。
こうした自然景の描写に重点が置かれた作例に、神社の境内を描いた宮曼荼羅(みやまんだら)があります。奈良・春日大社を描いた「春日宮曼荼羅」は有名です。
 
今回取りあげる作品は重要文化財「柿本宮曼荼羅」(奈良・大和文華館蔵 以下、本図と呼びます)です。
自然描写だけではない、本図とやまと絵との関わりについてご紹介します。
 
重要文化財 柿本宮曼荼羅(かきのもとみやまんだら)
鎌倉時代・13世紀 奈良・大和文華館蔵
展示期間:11月7日(火)~12月3日(日)
 
「柿本宮」といってもそういう名前の神社はなく、本図は奈良県天理市に所在する「和爾下神社」(わにしたじんじゃ)が舞台です。
画面上部に社殿を描き、上方に表された祭神の本地仏(神の姿を仏の姿を借りて表したもの)や、山が重なる構図は、「春日宮曼荼羅」と共通します。社殿は正面から堂々と捉えられていますので、祈るために制作された仏画と考えられます。建物の入口に当たる楼門の扉は開け放たれ、そこから延びる石段を下りると、十二社・弁才天社があり、本地仏の十二神将が描かれます。この十二神将、フィギュアのような姿かたちをしていてとても愛らしく、しかも描写は緻密で、本図の見所の一つです。
 

 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央右)。十二神将が緻密に描かれています。 

さて、石段を下りたあたりから左に目を向けると、柱を支える礎石が整然と並ぶ空地があります。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央左)
 
その右手にはこんもりとした墳丘が描かれます。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央)
 
さりげなく描かれていますが、実はこの二つのモチーフは、本図にとって重要です。
墳丘は「歌塚」(うたづか)とよばれる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の墓、空地は人麻呂を祀る寺院の跡です。柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人で、のちに歌聖と崇められました。ただ、人麻呂とのつながりを示す二つのモチーフは、理想化されたものではなく、荒れた土地として描かれています。ここに本図を読み解く秘密が隠されています。
 
平安時代末から鎌倉時代前半に活躍した歌人、鴨長明(かものちょうめい)は、人麻呂の墓のありかを訪ねてもあたりに知っている人はいない、と記しています(『無名抄』(むみょうしょう))。つまり、12世紀前半には実際に本図のように荒廃していたと思われます。寺跡と墳丘は、すでに忘れ去られてしまった人麻呂ゆかりの二つの遺跡を、ありのままに描いたものだったのです。
 
和歌に詠まれた名所や景物から、名所絵や四季絵、月次絵が描かれるなど、やまと絵にとって和歌はとても重要です。ですから、本図は自然描写だけでなく、人麻呂ひいては和歌のイメージを読み取ることが可能な点も、やまと絵との関わりがある作例です。
 
ところで、本図が描かれたとみられる13世紀後半、京極為兼(きょうごくためかね 1254~1332)という歌人が活躍しました。為兼は京極派と呼ばれる、景物や心情をありのままに言葉に表すという、当時としては新しい歌風を確立しました。本図は歌聖である人麻呂ゆかりの土地を描きながらも、理想化することなく荒廃した様子を素直に描いていました。
こうした描写が京極派の歌風と通じると思うのですがいかがでしょうか。
さらに、本図が祈るために制作された仏画である点を踏まえると、為兼の父である為教(ためのり)が亡くなった弘安二年(1279)を制作の契機としたいところです。
 
人麻呂ゆかりの遺跡を手掛かりに、色々と想像(妄想?)を巡らせてみました。
実は筆者の前職は奈良県の大和文華館で、本図は思い入れのある作品の一つです。
本図は宮曼荼羅のなかでも大きな作例であり、自然景も濃彩でたいへん美しい作例です。宮曼荼羅には参詣の代用という機能がありました。

「柿本宮曼荼羅」は第一会場出口付近に展示しています。 
桜満開で緑も美しい境内、会場で絵の中を散策してみてください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 古川攝一(教育普及室) at 2023年11月10日 (金)

 

やまと絵展 「本物」を見るということ 

現在開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」。多くのお客様にお越しいただいています。展示されている作品はどれもこれも超有名作品ばかり。貸出をお許し下さったご所蔵者の皆様に改めて御礼申し上げます。

さて、お客様からは「教科書で見たことがあるけれど、「本物」を初めて見た」といったお声を多くいただいています。ですが、教科書や本で見るのと「本物」を見るのは大違い。ここでは、教科書や本などで見た印象が「本物」を前にした時に覆るいくつかの事例をご紹介したいと思います。

 

ケース1.思ったよりも大きい

「「本物」を初めて見た」に続く感想として、「これ、こんなに大きかったのを知らなかった」という声が多く聞かれました。例えば、教科書でも登場することの多い四大絵巻のうちの「信貴山縁起絵巻」や「鳥獣戯画」は、「意外に大きい」という感想を中学校の生徒さんから聞きました。
 


国宝 信貴山縁起絵巻 飛倉巻(しぎさんえんぎえまき とびくらのまき)
平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺蔵
展示期間:10月11日(水)~11月5日(日)

大きさ参考:展覧会オリジナルグッズ 百鬼夜行キーチェーン 990円(税込)
特別展会場特設ショップで販売中の「百鬼夜行キーチェーン」は約8センチメートル。
国宝「信貴山縁起絵巻 飛倉巻」と比較すると、作品の大きさがわかります。



国宝 鳥獣戯画 乙巻(ちょうじゅうぎが おつかん)
平安~鎌倉時代・12~13世紀 京都・高山寺蔵
展示期間:10月24日(火)~11月5日(日)

本展出品作のうち、この「思ったよりも大きかった」作品の最たるものが、「神護寺三像」(展示期間:10月24日(火)~11月5日(日))ではないでしょうか。なかでも「伝源頼朝像」は、「教科書で見たことがある」歴史上の人物のなかでも、最も有名な肖像かもしれません。教科書に載る画像はせいぜい履歴書の写真くらいの大きさで、「本物」のサイズ感は伝わりません。展覧会のチラシでも、「横幅1メートルを超す一枚絹に描かれた、ほぼ等身大の巨大人物像」と記しています。この文字情報からは「へー、大きいんだー」くらいの感想しか浮かばないと思います(このテキストを書いたのは私なので、そのスケール感をきちんと伝えられていないのはひとえに私の責任です)。


(左から)国宝 伝源頼朝像(でんみなもとのよりともぞう)国宝 伝平重盛像(でんたいらのしげもりぞう)、国宝 伝藤原光能像(でんふじわらのみつよしぞう)
鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺蔵
展示期間:10月24日(火)~11月5日(日)

 

ただ実際の作品の前に立ってみると、その大きさに圧倒されます。今年の春に開催していた特別展「東福寺」では、会場に大きな肖像画がたくさん並んでいました。ですがこれらは僧侶の肖像画であり、さらに「伝源頼朝像」ほど大きくありません。「伝源頼朝像」は肖像画としては破格の大きさと言えるのです。「神護寺三像」のうち、「一つを家に持って帰ってもいいよ」と言われても、ちょっと大きすぎて遠慮したいほどの大きさでしょう。一般家庭の床の間にとうてい掛かる大きさではありません。
 

この画像については、像主の問題などさまざまに議論されていますが、これだけ大きな画像を作るには何か特別な理由があったはずです。またこの大きさの画像を掛ける場所も問題です。神護寺ではどこにこの巨大な三像を掛けていたのか。この「破格の大きさ」こそ、神護寺三像の謎を解くヒントになりそうですが、それはまたの機会に。ともかくこの三像はとにかく大きい。まずは教科書では分からない「大きさ」を会場で実感していただきたいと思います。
 


ケース2.思ったよりも小さい

これに対して「あれ、意外に小さいな」というのは「紫式部日記絵巻断簡」でしょう。通常の絵巻が縦約30センチメートルなのに対し、20センチメートルほどしかありません。でも実物を見ると以外に小ささを感じさせないのは表具に秘密があります。
 


重要文化財 紫式部日記絵巻断簡(むらさきしきぶにっきえまきだんかん)
鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵

通常掛軸は本紙の上下に一文字(いちもんじ)と呼ばれる裂(きれ)があり、その外側に中縁(ちゅうべり。中廻しとも)と呼ばれる別の裂が付いています。「紫式部日記絵巻断簡」は一文字がなく、本紙の外側にすぐ金襴(きんらん)の中縁があるのですが、これが華やかな画面と一体化して絵巻を大きく見せる視覚的な錯覚を起こしているのです。これはこの絵巻が巻物から掛幅へ改装された際の工夫と言えるでしょう。
 

ただ、この20センチほどの「小ささ」には、一つ秘密があります。会場を見回してみると、これとほぼ同じサイズの絵巻を見つけることができます。それが国宝「源氏物語絵巻」(愛知・徳川美術館蔵、東京・五島美術館蔵)です。さらに同じような大きさの絵巻を探してみると「伊勢物語下絵梵字経」、「尹大納言絵巻」の縦も20センチちょっと、「寝覚物語絵巻」「葉月物語絵巻」「伊勢物語絵巻」「隆房卿艶詞」はこれよりもやや大きいですが、通常絵巻よりは小さなサイズです。
 


重要美術品 尹大納言絵巻(いんだいなごんえまき)
[詞書]伝花山院師賢筆 南北朝時代・14世紀 福岡市美術館蔵
(注)会期中、展示替えあり


重要文化財「隆房卿艶詞」(たかふさきょうつやことば)(左)と比べると「尹大納言絵巻」(右)のほうが小さいです。

おそらくは、平安時代から鎌倉時代、王朝物語系の作品を絵画化する際の規範としてこのサイズが選ばれていたのだと推測されます。室町時代後期になると、「硯破草紙」「うたたね草紙」など、縦15センチ程度の「小絵」と呼ばれる絵巻が多く作られますが、これは主題によるサイズの選択というよりは制作費に伴う経済的な理由があったものでしょう。ちなみに、王朝物語ではない「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」「辟邪絵」など、平安時代後期の後白河院の蓮華王院宝蔵絵だったとされる六道絵巻が26~27センチと若干小ぶりなのがなぜなのか、最近気になっています。
 


国宝 地獄草紙(じごくぞうし)
平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵
展示期間:10月11日(水)~11月5日(日)

さて、「紫式部日記絵巻断簡」の表具部分は図録ではカットしていますし、図録は各図版の比率が一定ではないので、ここにあげた絵巻の「小ささ」も図録では分かりにくいところです。文字で書かれた法量(サイズ)はあくまで数字で、私たちの身体感覚に訴えることはありません。例えば「古今和歌集巻第十二残巻(本阿弥切)」。数字上は「縦16.7」とあり、展示前の私の頭の中にもこの数字が入っていたはずですが、実際に展示した後、「あ、こんなに小さかったんだ」と思いを新たにしました。
 

こうした脳内で作り上げた作品の「大きい」「小さい」について、最近の個人的な経験としては「那智瀧図」が挙げられます。いつのことだったか、初めてこの作品を見た時感じたのは「意外に小さいな」という印象でした。ただ今回、作品を拝借に伺った際に見た時の印象は「あれ、こんなに大きかったっけ」というものでした。私の脳内では作品が大きくなったり小さくなったりしているということです。「那智瀧図」は第四期に展示されます。当館の会場に展示されたこの作品に、果たして私は「大きい」と感じるのか、「小さい」と感じるのか。今から楽しみです。
 

教科書などで見たことはあるけれど、「本物」を見るのは初めて。そんな時、その印象の違いに大きく驚く。あるいは、かつて見たことのある作品に再会した時、全く違った印象を覚えて、自らの作品への想いを大きく揺さぶられる。こうした私たちの心に直接働きかけるのは、なによりもやはり「本物」が放つ強烈なパワーのなせるわざと言うことができるでしょう。
 

やまと絵展では、こうした「本物」の作品の数々が、会場で皆様をお待ちしています。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 土屋貴裕(絵画・彫刻室長) at 2023年11月01日 (水)

 

最初 前 1 2 3 4 5 6 7 最後