織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人、いわゆる「天下人」はどんな字を書いていたのでしょうか。この三人の名前で出された文書は厖大に残っています。
たとえば信長発給の文書は奥野高広博士が編纂した『織田信長文書の研究』という3冊の書物にまとめられていますが、ページ数は全部で約2000ページ! しかしそのほとんどは祐筆(秘書)が書いた本文に信長がサインである「花押」を据えたか、「天下布武」のような印判を捺したものです。大量に作成される印判状に至っては、本人は見てもいないかもしれません。
天下一統の途上で不慮の死を遂げたという事情もあってか、信長本人が書いたと判断できる書状はほとんど現在に伝わりません。
今回の「和様の書」ではそのうち2通を展示しますが、尊大でそっけない文章と相まって、はっきりとした個性の認めづらい筆跡と言えるでしょう。
書状(夕庵宛) 織田信長筆 安土桃山時代・16世紀 個人蔵
〔展示期間:2013年8月13日(火)~9月8日(日)〕
これに対して秀吉自筆の書状はかなり伝わっています。秀吉は低い身分から出世した人物で、歳をとってから伝統的な教養を学びました。その書は達筆と言えるようなものではなく、誤字脱字や破格の書き方も見られますが、大変個性的です。特に家族や親しい人々に対しては、あけっぴろげに感情を表わした飾りのない文章で手紙を送りました。手紙を読む人には強い印象を与え、古くから大事にされてきたのでしょう。秀吉の正妻北政所が住んだ高台寺に伝わる自筆書状は、そのような秀吉の個性をよく示しています。
重要文化財 消息(おね宛) 豊臣秀吉筆 安土桃山時代・文禄2年(1593) 京都・高台寺蔵
〔展示期間:2013年7月13日(土)~8月12日(月)〕
家康は、沈着で慎重な性格と評価され、その書状も内容、筆跡ともにあまり感情をあらわにせず、端然と筆を運んでいることが多いのですが、例外もあります。家康の孫娘である千姫は豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大坂の陣で豊臣家は滅亡、千姫は大坂城から救出されました。天下の平定を自分の責務とは考えていたでしょうが、さすがに政争の具となった孫をかわいそうに思う気持ちは強かったにちがいありません。夏の陣後に千姫のもとに届けられた書状から祖父としての気遣いがうかがわれます。
重要美術品 消息(ちょほ宛) 徳川家康筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
〔展示期間:2013年7月13日(土)~8月4日(日)〕
カテゴリ:2013年度の特別展
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posted by 田良島哲(調査研究課長) at 2013年06月12日 (水)
「開運!なんでも鑑定団」というテレビ番組が大好きで、毎回欠かさず視ています。放送開始から、まもなく20年近くになるこの番組では「鑑定士」が、さまざまな品物を「鑑定」しています。絵画作品の場合、画廊を営む人や、古美術商といった方々が鑑定をなされているようです。放送開始の当初、横山大観の弟子という画家も鑑定士として出演されていました。
「鑑定」とは対象となる品物の価値評価の判断を下すことですが、江戸時代においては鑑定がどのようなものであったのか、この特集陳列「江戸時代が見た中国絵画」によって、その一端を知ることができます。
伝趙孟頫筆「竹図」の展示風景
狩野伊川院栄信(1775-1828)が、趙孟頫という中国元時代の画家が描いたと伝えられる「竹図」を鑑定しています。作品名「岩竹」と作者名「子昂」(趙孟頫の実名のほかの名、あだなの一種)とだけそっけなく記し、自らの印「伊川法眼」を捺して外題(げだい、題名、作品名などを記した題箋)として、この品物は趙孟頫の絵だと断定しています。
(左) 竹図 伝趙孟頫筆 中国 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵
(右) 狩野伊川院栄信の外題
伊川院栄信は、徳川将軍家の御用を担う画家のなかで最も格式の高い奥絵師を勤め、文字通り当時の日本で一番「偉い」画家です。伊川院栄信のもとへは大名諸侯から多くの名画が持ち込まれ、鑑定が依頼されました。
さらにこの趙孟頫の絵は、後年、伊川院栄信の孫、勝川院雅信(1823-1880)のもとへ持ち込まれています。
狩野勝川院雅信の添状 江戸時代・文久元年(1861)
勝川院雅信は、「伊川院外題之通」と添状(いわゆる鑑定書)を記して、祖父の判断をあらためて裏書しています。さらにこの作品は、明治時代になって勝川院雅信の弟子であった橋本雅邦、山名義海が極(きわめ、鑑定書)をつけています。
このように江戸時代には多くの画家たちが鑑定を行なっていました。現在、絵画の価値判断をするためには、その画家の基準的な作例をたくさん集めて、表現のスタイルや、画家の署名の書体、印章(判子)の形(絵に捺された印影で比較します)など、さまざま観点で比較検証して、作品の見極めを行います。もちろん、多くの研究者や専門家の意見もあわせて判断材料にします。古美術商なら、作品に関わる流通価格も判断するでしょう。いずれにしろ作品を目の前にして、一瞬で判断する「目利き」などいません。その判断ができるとすると、余りにクオリティーの低い作品であるときだけでしょう。
しかし、江戸時代の画家たちが行った鑑定においては、外題や添状などをみると、その根拠のようなものが一切ありません。なぜでしょうか。それは鑑定するのが、権威ある限られた画家で、将軍や高貴な人たちが秘蔵する名画を見る貴重な機会を得る特権的な画家だからで、そこに第三者の判断がありません。いいかえると、目の前にある作品を誰それの絵だと判断する材料が他の画家にはないのです。
では、鑑定を依頼する人は何のために作品を持ち込むのでしょうか。狩野家に持ち込むの多くは大名などの武家でした。江戸時代の武家社会は、とりわけて贈答文化が極まった社会でした。盆暮れの付け届け、つまりお中元、お歳暮だけでなくさまざまな機会に上司、上役、幕府の要職にとさまざまな贈答品を送ります。そのことで自らの地位の安泰をはかるのです。その贈答品として中国名画は効き目のあるものだったということでしょう。
ただ名画を贈るだけでなく、その品物に付属した外題、添状が重要です。将軍御用達の画家による鑑定が、何より値打ちがあったわけです。見方を変えれば、作品そのものより権威ある画家の「お墨付き」自体に価値があるといってもよいでしょう。江戸時代前半までは作品の評価額を記したものもあったようです。この添付書類から江戸時代の武家社会の様相をも見いだせるのです。また、画家たちは鑑定料としてかなりの額の報酬を得ていました。
伊川院栄信に「竹図」が持ち込まれたとき、子の晴川院養信(1796-1846)が作品を模写しています。
竹図(模写) 狩野晴川院養信模 江戸時代・文化7年(1810) 東京国立博物館蔵
中国名画が奥絵師に持ち込まれたとき、その作品を直接目にして模写することで名画制作の作法を学ぶのです。狩野家の棟梁が作った模写作品は、後々、弟子たちの絵画制作のための手本となります。ここでも実際に名画そのものを目にしているのは、限定された絵師であることになります。名画そのものを目にすることこそが、この鑑定作業の肝ともいえるでしょう。
この特集陳列では、中国絵画という外国の文物に対する価値判断を詳しくみていくものです。そこでは、高然睴という存在しない画家を創り出したりもします。また室町時代から、牧谿という中国本土ではあまり評価されていない画家の作品が連綿と珍重されてきたのもわかります。現代の中国絵画の研究状況からみると、その判断に疑問が出るものが多いでしょう。江戸時代という流通が世界に開かれていない社会においてのみ成立した価値判断なのかものかもしれません。しかし、名画をとりまく人々が自らの判断で、「これはいいものだ」と明確に価値付けしていたことに清々しさを感じてしまいます。
現代では日本の視覚文化の価値判断を誰が行なっているのでしょうか。映画でアカデミー賞やカンヌ国際映画祭など、造形文化の世界ではヴェネツィア・ビエンナーレなど日本の外で日本文化の多くが判断されています。世界遺産登録への熱心な運動も同様かと思いますが、現代の日本では、日本の創り出したものに対する高い価値付けを海外の人に期待しているといっていいでしょう。この特集陳列をご覧になることで、日本が創り出す物事の「価値判断」について、さまざまな観点があらわれてくるのではないでしょうか?
ところで、当館では文化財の研究にあたり、さまざまな作品について歴史的な意義を見出し、価値判断を日夜行っていますが、持ち込まれた作品の「鑑定」を依頼されてもいたしません。鑑定書も出しません。何卒ご了承下さい。
特集陳列「江戸時代が見た中国絵画」は、6月16日(日) まで、本館 特別1室・特別2室にて開催中です。
シリーズブログ
江戸時代が見た中国絵画(1) “国家”を超える名画・馬遠「寒江独釣図」
江戸時代が見た中国絵画(2) 東博所蔵の木挽町狩野家模本について
江戸時代が見た中国絵画(3) いくつもの「中国絵画史」へ―江戸の中国絵画研究―
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 松嶋雅人(特別展室長) at 2013年06月07日 (金)
特別展「和様の書」(2013年7月13日(土)~9月8日(日)、平成館)の開催に向けて、
いま、いろいろと準備しているところです。
和様の書、といえば、
まずは、三跡(さんせき)です。
和様の書は、三跡(さんせき)の時期に成立しました。
三跡とは、
小野道風(おののとうふう、894~966)
藤原佐理(ふじわらのさり、944~98)
藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)
の三人です。
小野道風は、
中国・王羲之の書を学び、そこから和様の書の基礎を築きました。
能書として活躍し、生存中から「王羲之の生まれかわり」と言われたほどです。
藤原佐理は、道風と同時代を生きて、
王羲之も学び、道風の書の影響も見られます。
そして、藤原行成。
行成は、道風の没後に生れていますが、とても道風にあこがれていました。
行成の日記『権記』に、
「此夜夢逢野道風、示云、可授書法、言談雑事、」とあります。
これは、夢で道風に逢った。道風から書法を授けると言われて、雑談をした、
と言っています。
行成にとって道風は、夢に見るほどの存在だったのです。
行成は、道風の書を学び、和様の書を確立させました。
行成の子孫が、世尊寺家という能書の家系として、
平安時代の和様の書を担っていくことになります。
この三跡の書が、
特別展「和様の書」に大集結することになっています!
国宝 円珍贈法印大和尚位並智証大師謚号勅書 小野道風筆 平安時代・延長5年(927) 東京国立博物館蔵
[展示期間:2013年7月13日(土)~9月8日(日)]
道風は、
当館所蔵の国宝「円珍贈法印大和尚位並智証大師謚号勅書」はもちろん、
唯一の楷書である、あの作品や、
『白氏文集』(はくしもんじゅう)が揮毫された、あの作品など。
書状(国申文帖) 藤原佐理筆 平安時代・天元5年(982) 春敬記念書道文庫蔵
[展示期間:2013年7月13日(土)~7月28日(日)]
佐理は、
最古の詩懐紙として有名な、国宝「詩懐紙」(香川県立ミュージアム所蔵)や
書状が、勢ぞろいします!
佐理の書状は、わびる内容のものが多いですが、
おわびされた人も、あまりの書の美しさに、許したでしょうか?
国宝 白氏詩巻 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018) 東京国立博物館蔵
[展示期間:2013年7月13日(土)~9月8日(日)]
そして、行成。
当館自慢の国宝「白氏詩巻」はもちろんゆっくりご堪能いただけます。
ほかにも、展覧会初公開のあの文書や
行成の花押(かおう)の入った「書状」(重要文化財、個人蔵)も。
行成のあこがれた道風、
おわびする書状が大切に残された佐理、
三人とも、後世の我々にとっては、また、和様の書にとっては、
かけがえのない存在です。
三跡の貴重な書は、展示期間の制限もありますので、
途中で展示替のものばかりです。
全部、見て欲しい。
こんなに集まるのは二度とないかもしれません。
カテゴリ:2013年度の特別展
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2013年06月03日 (月)
江戸時代が見た中国絵画(3) いくつもの「中国絵画史」へ―江戸の中国絵画研究―
ある論文で東博のOB研究員が『君台官』という書物を引用していたことがあります。最初は有名な「君台観左右帳記」の間違いかと思っていましたが、当該箇所が見あたらずにいました。「君台観左右帳記」とは、室町時代に成立した座敷飾りに関する秘伝書で、中国画人の目録が収められているものです。ところが東博には『君台官』という江戸時代に出版された中国画家の書画落款集が所蔵されており、戦前戦後にかけての研究者が、江戸の中国書画研究をしっかり身につけていたことを知りました。
君台官 江戸時代・承応元年(1652) 東京国立博物館蔵
細かな書き込みは、京城帝国大学美術史学教授であった田中豊蔵(1881-1948)のものです。
(言い訳するようですが)私がこの本を知らなかったのも理由があります。「客観的事実」を探求する美術史のなかでは、『君台官』は重視されておらず、というのもそれが、おそろしく“ばかばかしい”本だからで、あり得ない印章がたくさん含まれているからです。たとえば、南宋の夏珪の項には間違って足利義満「天山」印が入っていますし、「高然睴」、「西金居士」というのも、中国には存在しない日本人が作り出した架空の中国画家です。しかしここには、彼らがあたかも過去の日本で生きていたかのように、その生の証である「印章」が所収されているのです。
『君台官』より、夏珪・西金居士・高然睴・蘇東坡
有名な北宋の文人・蘇軾や、郭煕・李成といった画家の印章もありますが、ほとんどは偽印です。
これらは言わば、“事実”としてはいなかったけれども、江戸時代には確実に“存在”していた不思議な画家と印章たちです。“客観的事実”を重視する立場から、これらを否定、もしくは無視することは簡単です。しかし、それは本当に意味のないものなのでしょうか。
和刻本 図絵宝鑑 夏士良編 江戸時代・18世紀、原本=元時代・至正25年(1365)序 東京国立博物館蔵
“純粋”なものほど"正統"に近いという考えは再考の余地があるでしょう。混雑した文化(クレオール)にも魅力があり、大切な価値を持っていると考えています。
江戸時代に出版された中国絵画に関する書籍には、非常に興味深い傾向が見られます。本来難しい漢文で書かれた書物を、日本での「中国絵画史」の需要にあわせて、内容や体裁を変化させていくことです。
たとえば元時代の『図絵宝鑑』。展示中の日本で出版された『図絵宝鑑』では、中国版にはなかった日本人が編集した「君台官」を附しています。いわば日本で勝手に出版された海賊版のようなものですが、これを「ばかばかしい」とは言えないでしょう。なぜなら、当時の日本人読者のなかには、「図絵宝鑑」に載る“正統”な中国画家たちよりも、もっと身近な、室町時代から日本に舶来されていた画家のことを知りたいという欲求があったはずで、いわば、自分たちに必要な「中国絵画史」を作り出しているからです。どちらもとても重要な、文化的営みだったと言えるでしょう。
(左) 清書画名人小伝 相馬九方編 江戸時代・嘉永元年(1848) 東京国立博物館蔵
平易な読み下し風に書いてあります。いろはに順の索引も便利です。
(右) 清書画人名譜 浅野梅堂撰、鷲峰逸人編 江戸時代・嘉永7年(1854)写 東京国立博物館蔵
「西土」の辞書にならい、なんとイロハニ順に中国画家をならべちゃいました。中国からしたら「邪道」ですが、日本人にはすこぶる使いやすい辞書です。
これら一見、“正統の歴史”から取り残された作品や、それに関わったさまざまな人々の歴史に光を当てることが今回の展示の大きな目標です。そしてそこから、「中国絵画史」が、決して一つではないこと、すなわち「いくつもの中国絵画史」が存在していたことをも知りました。
元画録 翠渓老人編 江戸時代・文政4年(1821) 東京国立博物館蔵(徳川宗敬氏寄贈)
日本で編集された元時代の画家の名鑑ですが、よく見ると名前の上に○●の印がついています。
このことに気付いていたらしい、江戸の画学書があります。当時流行していた元画についてまとめた『元画録』です。
元画録 翠渓老人編 江戸時代・文政4年(1821)より
●は日本で評価されているもの。
○は中国で評価されているもの、もしくは真跡の未だ見ざるもの。
この本の作者は、中国も日本のこともよく勉強していたのでしょう、中国の画史書で評価されている画家が日本では評価されず、日本で評価されている画家が中国では評価されていないことを発見していました。
これを作者は「●」と「○」で表しており、現在、当館でも重文になっている孫君沢、顔輝、宋汝志が「●」、すなわち「日本だけで知られている中国画家」として分類されています。一方、趙孟頫、倪瓚、王蒙、黄公望は、それぞれ「○」。すなわち中国でのみ評価されている画家、もしくは、まだ作品をみたことのない画家です。
これらの画家の真作を日本人が実際に見ることができるようになったのは、大正時代以降でした。この時期、日本では関西の財閥を中心に、世界有数のコレクションが形成され、●の画家よりも○の画家、すなわち中国の“正統”こそが評価されていきます。この時期にこれほどの中国絵画コレクションが短期間に形成されたのも、江戸時代以来の中国絵画研究の濃厚な蓄積があったからとも言えますが、それはまた、日本の長い中国絵画鑑賞史の大きな転換点でもあったのです。
秋林隠居図 王紱筆 明時代・建文3年(1401)
最後に展示されている、20世紀に日本に入ってきた新渡りの作品です。すっきりとした文人表具も、日本伝来の中国絵画とは全く違うのがわかります。
(左)「藍瑛十八皴法」 素山高喜筆(江戸時代・安政4年(1857)写)、に図示された「折帯皴」(蕭散体、しょうさんたい)の描き方
(右)「秋林隠居図」の本場の「折帯皴」(蕭散体)
江戸時代にも中国画法の知識の蓄積がありましたが、20世紀になってはじめて本物の「折帯皴」をみた人は、どう思ったことでしょう?
10月1日(火)より開催する「上海博物館中国絵画名品展(仮称)」(~11月24日(日)、東洋館8室)では、この、王蒙、倪瓚など「○」の画家、すなわち「江戸時代が“見られなかった”中国絵画」の名品を一堂に展示します。
(左) 王蒙「青卞隠居図」 (右) 倪瓚「漁荘秋霽図」(上海博物館蔵)
いずれも「江戸時代が見られなかった中国絵画」です。
「上海博物館中国絵画名品展(仮称)」(2013年10月1日(火)~11月24日(日)、東洋館8室)で展示予定
二つの展覧会をご覧になれば、「いくつもの中国絵画史」が存在している豊かさ、そしてその重要性に気がつかれるでしょう。
「中国絵画」の歴史は、地理上の「中国」より広く、それを受け入れた多様な人々の歴史でもあります。
現在開催中の特集陳列には南蘋も黄檗もありませんが、世界でも東博にしか出来ない、大切な展示となりました。あらためて先人の残した豊かな遺産に、多くのことを教えられた思いです。
作品たちも久しぶりに本館で昔の仲間たちに出会えて喜んでいるかもしれません。東洋館に帰る前に、ぜひお楽しみくだされば幸いです。
特集陳列「江戸時代が見た中国絵画」は、6月16日(日) まで、本館 特別1室・特別2室にて開催中です。
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江戸時代が見た中国絵画(1) “国家”を超える名画・馬遠「寒江独釣図」
江戸時代が見た中国絵画(2) 東博所蔵の木挽町狩野家模本について
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posted by 塚本麿充(東洋室研究員) at 2013年05月31日 (金)
ほほーい!ぼくトーハクくん!
今日は井上研究員といっしょに「国宝 大神社展」を見に行くほ。
「第2章 祀りのはじまり」について教えてくださいだほー!
待っていたよトーハクくん!最終回は、考古遺物を紹介しよう。
お願いしますほ!
この章では、「国宝 大神社展」のなかで一番古い時代のものを展示しているんだほ?
そうだよ。日本には神道のもととなった思想が、仏教伝来以前からあったわけだ。そのあたりを見てゆこう!
はいっ!(うぷぷ、井上さんの戦隊ヒーローモノみたいな語り口がたまらんほ!)
人々は、山や海、岩や木など、自然のものに神を見出して、畏れ敬ってきた。
第2章の展示は、この展覧会のコンセプトの基底をなす部分だけど、それをきちんと表現するには、少なくとも縄文時代の状況から説明しなければならない!
なにしろ縄文時代だけで1万年以上あるんだから、それだけでひとつの展覧会が出来てしまうくらいだ!
しかしそれには全然スペースが足りない!
苦悩する井上さんと、なす術のないトーハクくん。
そういうわけで、数ある遺跡のなかでも、神社が成立する以前の神マツリの状況が伝わりやすいであろう、2つの遺跡に絞って紹介することにした。
人々が何故山や海を信仰するようになったのか、それが神社創建にいかにつながっていったのかをご覧いただこう。
山ノ神遺跡出土品
古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
奈良県の山ノ神遺跡は、山自体を御神体として祀っている大神神社(おおみわじんじゃ)に深く関わる祭祀遺跡、つまり、神を祀り、祈りをささげたところだよ。
ほ~、なんだかボク、親しみを感じるほ。
そりゃそうさ、古墳時代・5~6世紀の遺物だから、キミの誕生とほぼ同時期だ。
ほー!それはご縁だほー!
(トーハクくんは5歳ですが、モデルになった「埴輪 踊る人々」は古墳時代・6世紀の遺物です。)
お皿とかツボみたいな、いろんな形をしているけど、何かの道具なのかな。
うむ。鋭いな。これは、お酒をつくる道具という説が有力だ。
杵(きね)と臼(うす)で脱穀した米を箕(みの)でふるって、柄杓(ひしゃく)で汲んだ清水(せいすい)を加えて坩(かん。つぼのこと)で醸(かも)す。
ほう。こんなにミニサイズの道具でお酒がつくれるほ?
おそらくこれは儀式用につくられたものだから、小さくつくられている。
でも酒造りは実際に行われていて、その工程を模したんだろう。
なるほ。
でも不思議だほ、山の神さまなのにどうしてお水やお酒と関係があるほ?
それはだねトーハクくん。
水は山から湧いてくる。湧いた水は泉になり、川になり、やがて海にたどり着く。
水は、山に住む動植物を育てる。田畑をも潤す。
その水と、水が育んだ米で造られる酒は、まさに神と人とを結びつけるものなんだ。
ポエム!
井上さん、ボク今ちょっと感動しちゃったほ。そういう大事なことをどうしてもっと早くに教えてくれなかったほ!
それはキミが早く取材に来ないからだろう!
ぎくっ!
まあいい、とにかく水の生まれ出るところは生命の根源、神聖な場所として崇められることが多いんだ。
そっか。なんだかボク、そういう感じが懐かしいような気分がするほ。
山の神様は、たくさん恵みを与えてくれるんだね。
そうだ。しかし同時に山は、土砂崩れ、地すべり、噴火など、いつも穏やかな顔ばかりじゃない。
だからこそ人々は山や自然を畏れ、敬うんだ。これが、神社創建に関わる思想的ルーツとも言えるんだな。
さて、もうひとつの作品を見てみよう。
国宝 方格規矩鏡
古墳時代・4~5世紀 福岡・宗像大社蔵
福岡県の沖ノ島祭祀遺跡から出土した鏡だ。
オキノシマ?
島全体が御神体ともいわれている島だよ。古くから祭祀が行われていたから、遺跡がたくさんある。
もともとは一氏族が、航海の安全や一族繁栄のために祭祀を執り行っていたようだが、弥生時代以降、大陸との交流が盛んになることで、古墳時代には大和政権が国家的事業として祭祀に取り組むようになっていった。
この島で出土した遺物が、これだ。
グラフィカルでかっこいいデザインだほ!
うむ。中央にある鈕(ちゅう。丸い部分)の周りを四角で囲み、その四方にはT・L・Vの形の文様がならぶ。
TとLは定規を、Vはコンパスをあらわしているとされている。
模様がとっても細かくて、いい仕事しているほ!デザインがあんまり日本っぽくないように感じるけど。
たしかに。そう感じるのは、この鏡に中国からきた四神(玄武・朱雀・青龍・白虎)の思想が盛り込まれているからだろう。
このデザインは、その思想を巧みに和様化したものだととらえている。
沖ノ島からはこうした精緻な銅鏡がたくさん発見されているが、その中でも目を見張るデザインと言えるだろう。
ねえ井上さん、もしかして沖ノ島にはまだたくさん遺物が眠っているんじゃないの?
そうさ!まだまだ眠っているに違いないんだ!ここは通称「海の正倉院」と呼ばれているくらいすごい場所なんだよ。
もしさらに調査が進むのであれば、古代の人々の祈りの実態がもう少し深く分かってくるはずだ。
今後の調査に大いに期待したい!
ミステリーがいっぱいありそうでワクワクするほ!
そうか。いまボクたちは神社へお参りに行くけど、神社ができる前は、山や海とか自然そのものに対してお祈りしたり、お祀りしていたんだね。
ここが神社のスタート地点だったんだ!
井上さん、アツいお話をどうも有難うございました!
ミスター銅鐸とトーハクくん。
日本人の祈りのルーツが、自分の誕生するずっと前から脈々とあったんだと思うと、ちょっと胸が熱くなったトーハクくんなのでした。
~おわり~
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2013年度の特別展
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posted by トーハクくん at 2013年05月28日 (火)