このページの本文へ移動

1089ブログ

一遍と歩く 一遍聖絵にみる聖地と信仰

こんにちは、保存修復室主任研究員の瀬谷愛です。

10月10日(土)リニューアルオープンの遊行寺宝物館で特別展「国宝 一遍聖絵」をご覧になられた皆様、たいへんお待たせいたしました。
東博でも特集「一遍と歩く 一遍聖絵にみる聖地と信仰」(11月3日(火・祝)~12月13日(日)、本館特別1・2室)が始まりました。

展示風景

遊行寺(清浄光寺)さんの特別展は、現在、全12巻の展示(展示されるのは一部分ずつ)ですが、11月19日(木)から神奈川県立金沢文庫、21日(木)から神奈川県立歴史博物館と3館に分かれて、4巻ずつ、より長く多くの場面が展示されるようになります。

東博を含めて4館をまわると、「一遍聖絵」全12+1巻、全場面がみられるという、まさに夢の一遍祭り!なのです。

展覧会ポスター

さて。
東博の特集は、東博本「一遍聖絵」(巻第七、国宝)と天保11年(1840)に狩野晴川院養信の弟子たちが写した「一遍聖絵」模本をとおして、一遍が訪れた聖地ゆかりの美術をご覧いただくという企画です。

模本だからとあなどってはいけません。ほら。

「一遍聖絵」模本
さすが、晴川院の弟子です。

そして、今回のイチオシは、こちら!

経筒
(左)陶製外筒  和歌山県田辺市本宮町備崎 熊野本宮経塚出土 平安時代・保安2年(1121)
(右)銅製経筒  平安時代・12世紀


写真だといまひとつ実感がわかないかもしれませんが、展示室でご覧になると驚きますよ!

一遍が重要な悟りを得た和歌山県・熊野本宮(備崎)出土の経筒で、現存する日本最大の経筒+外容器です。
銘文によれば、大般若経600巻を50巻ずつ12個の容器に収めたといいます。これがあと11個あったはずなのですが、今はどうなっているのか知ることができません。

これがどのようなところに埋められていたかというと・・・

大斎原
左が、明治22年(1899)の水害まで本宮があった大斎原。右の、熊野川を挟んだ対岸が備崎です。備崎は、吉野と熊野本宮をつなぐ「大峯奥駆道」のスタート/ゴール地点。修験にとってもとても重要なポイントというわけです。


聖絵でみると、このへんです。

現地を訪れると、その理由が身体感覚として伝わってくるような気がします。ぜひ、秋の旅行に、皆様にオススメしたい聖地です。


さて、話は変わりますが、

「遊行寺(清浄光寺)と東京国立博物館と、どちらに本物の第七巻が出るのですか?」

というご質問が最近よく寄せられています。

答えは、

「どちらも「本物」です。」

もとは1巻だったのですが、これがいつしか分断され(絵巻にはよくあることです)、模写で補われつつ、2巻に仕立てられました。

東博本は、第1~4段の絵と第4段の詞書が正安元年(1299)の原本で、第1段の詞書だけが写しです(第2・3段の詞書はありません)。
遊行寺(清浄光寺)本は、第1~3段の詞書が原本で、第4段の詞書と第1~4段の絵が江戸時代の写しです。この写しもたいへんよく描かれていて、一見原本のようにみえます。

分断の明確な時期はわかっていません。
東博本は原三溪(1868~1939)旧蔵品で昭和25年(1950)に東博に入ったものですが、三溪が書きのこした記録によれば、もともと嘉永5年(1852)に京都町奉行として着任した浅野梅堂(1816~80)が所有していたものといいます。その梅堂が京都三条橋修理の参考資料として京都・歓喜光寺から巻第七を借り出し、返却せぬまま亡くなって、所有が転々としたそうです。

そのとき何が起きたのか?

いろいろな可能性が考えられます。思いつくままに列記すれば、
1)もともと巻第七だけは正副2巻あり、浅野梅堂が片方を借りた/買った。
2)浅野梅堂が借りた後、歓喜光寺に内緒で、絵師に模写させてつぎはぎの2巻にし、片方を原本に見せかけて返却した。
3)浅野梅堂が借りた後、歓喜光寺に相談の上、絵師に模写させてつぎはぎの2巻にし、片方を買った。

三溪の存命中には、梅堂が巻第七を「借りてすりかえた」という噂があったようです。たしかに、梅堂は東洋書画を愛好し、収集・鑑定をしていた記録があります。13世紀に水墨技法を駆使した「一遍聖絵」はまさに手に入れたい、お好みの絵巻だったことでしょう。

しかし、ふたつの巻第七の絵はすみずみまで同じというわけではありません。

例えば、有名な市屋での踊り念仏の場面。

一遍聖絵 巻7 原本
これは正安元年(1299)の原本です。

一遍聖絵 巻7 遊行寺(清浄光寺)本
遊行寺(清浄光寺)本では、留書が写されていません。

一遍聖絵  模本
狩野派の天保11年(1840)ではしっかりと写されています。


こんな明らかに目に付くところが違うものを、知らん顔で返すでしょうか・・・。

巻第七が当館所蔵となったとき、鷹巣豊治氏は「歓喜光寺本十二巻中の第七は詞書第一第二第三だけが原本で、他は晴川院の模写で補ってある」と記しています(「博物館新収品 重要文化財 一遍上人絵伝」『MUSEUM』6号(昭和26年・1951))。

その根拠までは明らかにされていないのですが、晴川院筆とすれば、その没年は弘化3年(1846)ですから、分断の時期もおのずと限られてきます。ただし、そのときはまだ梅堂は京都町奉行に着任していません・・・。

巻第七の分断をめぐる真相は、引き続き浅野梅堂と晴川院というふたりの重要人物をたどるのが、目下の近道のようです。



関連事業
月例講演会「一遍とたどる日本の聖地と時宗の文化財」 2015年11月7日(土) 13:30~15:00  平成館大講堂
ギャラリートーク「一遍とみる聖地と信仰」 2015年12月1日(火) 14:00~14:30  本館 特別2室

 4館共同一遍聖絵スタンプラリー「一遍と歩こう」(神奈川県立歴史博物館のウェブサイトへリンクします)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 瀬谷 愛(保存修復室主任研究員) at 2015年11月06日 (金)