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「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(3)~ネフェルトイティ~

「クレオパトラとエジプトの王妃展」で注目の王妃について、紹介するシリーズです。
第3回目のヒロインは、アメンヘテプ4世(後にアクエンアテンと改名)の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)。
クレオパトラとともに、「絶世の美女」と称されることの多い人物です。彼女の生きた時代をご紹介します。

前回はアメンヘテプ3世と王妃ティイについての紹介しましたが、その跡を継いだのが、この2人の息子であったアメンヘテプ4世です。
彼はアテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アマルナに新都を建設したことで知られています。
名前もアメンヘテプ(意味:アメン神は満足する)から、アクエンアテン(意味:アテン神に有益な者)と改名しています。
この王を正妃として支えたのが、王妃ネフェルトイティでした。


王妃ネフェルトイティのレリーフ
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
アル・タニコレクション
(C)Alexander Braun
アメンヘテプ4世とその家族が、アテン神を崇拝する様子がよく描かれました。
このレリーフもそうした場面の一部であるかもしれません



アテン神信仰の始まり
新王国時代の王は、広大な領土から集められる富を、国家の守護神であるアメン神に捧げました。
その結果、アメン神の神官たちの力が次第に大きくなり、政治的な影響力をもつようになります。
これは、王にとっては頭の痛い問題でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、太陽神であるアテン神です。
すでにアメンヘテプ3世が、人造湖の完成式典で「輝くアテン」という名の船に乗り、自らの王宮を「ネブマアトラーはアテンの輝き」と呼ぶなど、アテン神を意識することで、アメン神官団を牽制していることがうかがえます。

 
アテン神のレリーフ ※写真右は部分
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
アル・タニコレクション
(C)Alexander Braun

アテン神は空に輝く日輪の神で、地上に降り注ぐ光はアテン神の手として描かれました

アメンヘテプ4世は、父王アメンヘテプ3世の治世30年を祝う祭礼に際して、カルナクにアテン神殿を建設しました。
この神殿の壁面には、王妃ネフェルトイティが単独で描かれている場面があります。
通常、王妃は王に付き添ったかたちで描かれることを考えると、彼女が、先代の王妃ティイと同様に、政治や儀式の中で重要な役割を担っていたことがうかがわれます。


アマルナへの遷都
アメンヘテプ3世の跡を継いで即位したアメンヘテプ4世は、アクエンアテンと改名し、アテン神を唯一神とする宗教改革に乗り出しました。
治世5年頃には、宗教的な伝統やしがらみと決別するために、アマルナの地に新しい王都を建設しました。
アマルナでは宗教改革とともに、ありのままの姿を表現する写実的な美術表現が発展しました。
アメンヘテプ4世が目指す新しい国づくりの一環であったと考えられます。


王妃の頭部
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
ドイツ ベルリン・エジプト博物館蔵
Staatliche Museen zu Berlin - Ägyptisches Museum und Papyrussammlung, inv.-no. ÄM 21245,
photo: Sandra Steiß


アマルナ様式の彫像で、王妃を表したものと考えられています。
碑文がないために、残念ながら誰の像であるかはわかりませんが、王妃ネフェルトイティのものであるかもしれません。
その他、アメンヘテプ4世には、王妃ネフェルトイティのほかにも、キヤという名の有力な王妃がいました。
この彫像は、キヤの像であるとする説もあります。
キヤはツタンカーメン王の母とも考えられている王妃です。

対外政策
今回の展覧会では、楔形文字が刻まれた2件の粘土板文書が展示されます。
これらはアマルナの王宮址で発掘され「アマルナ文書」と呼ばれる文書に属するものです。
アマルナ文書の大部分は、アメンヘテプ3世の治世後半からアクエンアテン王の治世に、エジプトが諸外国と交わした外交文書で、当時の国際情勢を今に伝える重要な資料です。


ミタンニ王トゥシュラッタから王妃ティイへの書簡
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved


ミタンニ王国は、現在の北シリアにあった王国です。
当時、ミタンニ王は3代続けてエジプトの王室と婚姻関係を結んでおり、両国は親密な関係にありました。
写真の、トゥシュラッタ王の手紙は、王の母としてアマルナで暮らしていた王妃ティイに宛てたものです。
息子のアメンヘテプ4世に父王と同様の友好関係を維持するように、これまでの両国のやり取りをよく知っている王妃ティイから話してほしい、という内容です。
アメンヘテプ4世の時代は、おそらく宗教改革や新都の建設といった事業の余波もあり、エジプトの対外政策は消極的なものでした。

王妃ネフェルトイティの足跡は、「アマルナ文書」の中には残されていません。
また、彼女は、アクエンアテン王の治世後半には、エジプト側の記録からも忽然と姿を消してしまいます。
王妃ネフェルトイティの出自や経歴には不明な点が多く、今後の発見が期待されるところです。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 小野塚拓造(特別展室アソシエイトフェロー) at 2015年06月30日 (火)