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日本国宝展の見方~東寺百合文書~

日本国宝展」第3室で展示している「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」は
実に2万点以上の古文書からなる国宝です。
今回の展覧会に出品のはそのうちのわずか12点。文字どおり九牛の一毛です。
もとは、京都駅の南側にひときわ高く見える国宝「五重塔」で有名な
東寺(教王護国寺)に伝わったものですが、現在では京都府立総合資料館が
所蔵しており、目録の作成や修理を行うとともに、釈文(しゃくもん=解読文)
をまとめた書籍の刊行も継続しています。

平安時代から室町時代までの東寺は、荘園領主として全国に寺領の
荘園を持ち、さまざまな貢納物を受け取って寺院の経営をしていました。
新見庄(にいみのしょう)は東寺領の中でも有力な荘園の一つです。
現在の岡山県新見市に含まれます。
今では山の中という印象が強いのですが、河川交通が使われていた時代には、
瀬戸内海との間を船が往来し定期的に市場も開かれる、
人や物の行き来の盛んな土地でした。
室町時代になると、荘園の中では農民の経済力が高まり、
それまでの支配者であった寺院や武家の支配から離脱しよう
という動きが盛んになります。新見庄も例外ではありませんでした。

応仁の乱の少し前の寛正年間(1460~1463)、新見庄ではそれまで
東寺への年貢納入を請け負っていた有力武士の安富(やすとみ)氏が
農民に対して過剰な負担を強いたため、結束した農民によって
追放されるという事件が起こりました。
地元の土豪と農民たちは、より負担の少ない支配を目論んで
東寺による直轄経営を求めたので、寛正4年に京都から
東寺の代官、祐清(ゆうせい)が下向してきました。
ところが祐清は地元の期待に反して、年貢の納入や京上夫(京都での
仕事への徴発)などの負担を増やし、あまつさえ地元の有力者を
死罪に処するという厳しい態度に出ました。
このような代官と農民たちの対立が深まる中で、庄内を巡見していた祐清は
死罪となった人物の縁者によって殺害されてしまいます。

実は祐清は、現在でいう単身赴任で新見庄にやってきたため、
地元有力者の一人であった福本という人物の妹が、その身の回りの世話をしていました。
この女性が「たまかき」です。

たまかきは祐清殺害後「こんな事になってしまって、御いわたしさは
申しようもありません」と悲しみながらも、遺品を処分してお金を工面し、
供養した僧への支払いに宛てるなどして、祐清の弔いを済ませました。
そして一段落ついたところで、手紙を書いて経過を報告するとともに、
残った「白い小袖一、紬の表一、布子一」を祐清の形見として
いただきたいと願い出たのです。
手紙は東寺まで届けられ、一連の事件の経過を示す文書として保管されました。
約550年の時を経て、今回展示している「たまかき書状」がそれです。


国宝 東寺百合文書のうち「たまかき書状」
室町時代・15世紀 
京都府立総合資料館蔵
展示期間:11月18日(火)~12月7日(日)



(部分) たまかきが欲しいと願いでた形見の品を含む
祐清の遺品のリスト


たまかきの願いがかなったかどうかを示す史料は残念ながら残されていません。

室町時代以前、公家や武家ではなく地方に住むいわば一般庶民の女性の
筆跡が残ることは稀で、「たまかき書状」はきわめて珍しい例であり、
当時の日本社会における識字(リテラシー)の状況を物語る史料として貴重です。
また、思いがけない事件に遭遇した女性の心情を示し、
現在なお私たちの心をうつものがあります。

このような文書もまた日本の歴史の一側面を明らかにする国宝です。
隣り合って展示している宮廷の女性の筆跡、国宝「後奈良天皇女房奉書」と
比べてご覧いただけると、また興味深いのではないかと思います。


国宝 東寺百合文書のうち「後奈良天皇女房奉書」
室町時代・天文2年(1533) 京都府総合資料館蔵
展示期間:11月11日(火)~12月7日(日)


大好評をいただいている「日本国宝展」は残りあと10日。
どうぞお見逃しのないように!

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 田良島哲(調査研究課長) at 2014年11月27日 (木)