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横河コレクション―宋・元のやきもの

明治から昭和初期にかけて活躍した建築家、横河民輔(1864~1945)生誕150年を記念して、いま東洋館5室では横河コレクションの貴重な中国陶磁を展示しております(「横河コレクション―宋・元のやきもの」)。

横河は三越本店や旧帝国劇場などの建築にたずさわった人物で、現在の横河電機、横河ブリッジホールディングスなど横河グループの創設者でもあります。
そして建築家や実業家の顔とは別に、中国陶磁の収集家としても世界的に知られています。
新石器時代から清時代(1644~1912)まで、さまざまな種類の土器・陶磁器を体系的に集め、質・量ともに世界最大規模のコレクションを築きあげました。その総数は5000点に及んだとも伝わり、厳選されたおよそ1100点が昭和のはじめに東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)に寄贈されました。

横河民輔
横河民輔

ところで、なぜ建築家である横河が中国陶磁を集めることになったのでしょうか?
そしてなぜ、そのコレクションが博物館に寄贈されているのでしょうか?

横河自身の言葉によれば、その収集は大正3年(1914)頃にはじまったといいます。
ちょうどこの頃、日本でも東京帝国大学工学部教授であった大河内正敏(おおこうちまさとし 1878~1952)を中心として、陶磁器を科学的に研究する動きが生まれていました。帝大の建築学科で教鞭をとった横河も大河内のグループの中心メンバーの一人でした。

しかし、中国陶磁を収集する直接的なきっかけとなったのは、建築の仕事で欧米を訪れ、各地の美術館・博物館を見て歩いたことにあるようです。

大航海時代以来ヨーロッパの皇帝・貴族のあいだでは、東洋のやきもの、とくに中国・明(1368~1644)、清の青花磁器が大変好まれました。シャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」に知られるように、飲食の実用だけでなく、収集した陶磁器を部屋の壁面に豪華に飾り立てることが流行していました。

さらに、清朝が斜陽を迎えた19世紀後半から20世紀初頭になると、清の宮廷や高官の手元にあった美術品が海外に流出したり、鉄道敷設工事にともなって地下に眠っていた古代遺跡の出土品が知られるようになり、中国陶磁に対する関心が世界的に高まります。それまで知られていなかった明時代以前の古いやきものにも、欧米の陶磁器愛好家たちの目が向けられることになったのです。

横河が欧米を訪れたのもその頃のこと。イギリス、ドイツ、フランスの美術館・博物館で巨大な中国陶磁コレクションを目の当たりにして、日本にもそれらに負けないコレクションが必要だと決意したのです。

そうして横河は亡くなる直前まで、陶磁器の収集を続けます。賢妻として知られる下枝(しずえ)夫人からの後押しもあり、博物館への寄贈は戦前の昭和7年(1932)に行なわれました。第1回目の寄贈でおよそ600点の中国陶磁が収められ、その後足りない部分を補うようにして昭和18年まで計7回にわたって続けられたのです。空襲を受け、高輪にあった横河邸も被災したとのこと。もし博物館に寄贈されていなかったら、東京国立博物館、そして日本が誇るこの中国陶磁コレクションは成り立っていなかったかもしれません。

展示風景
題箋(だいせん:解説キャプション)
展示中の題箋には、寄贈年月が表記されています。
いつ収蔵されたのかという視点で作品を見るのも、楽しみ方の一つです。


この秋は「横河コレクション―宋・元のやきもの」として、北宋時代(960~1127)からおよそ元時代(1271~1368)の頃につくられた作品を紹介しています。白磁、青磁、白釉陶、黒釉陶などさまざまの種類のやきものが中国の南北各地において華ひらいた時代です。毛彫りや片切彫りなどの線刻文や筆による絵付けを施したり、異なる釉をもちいて表面を彩ったり、装飾も多種多様です。その多くはなにげない日用の器たちですが、古代から連綿とつづく轆轤(ろくろ)技術、焼成技術をもって生み出されたものであり、熟練した技の一つ一つに悠久の時間を思わずにはいられません。

題箋
展示風景
横河コレクションの中国陶磁のなかでも優品がそろう「宋赤絵」。
上絵付けののびやかな筆づかいに目を奪われます。墨書銘が施されたものもあって、大変貴重な作例です。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 三笠景子(保存修復室研究員) at 2014年11月14日 (金)