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龍が、二龍になりました! でも一流の水墨画です!!

ご好評いただいている特別展「栄西と建仁寺」も、会期半ばを過ぎ、4月22日(火)から後期に入りました。サッカーにたとえるならば前半終了、出場選手もかなり入れ替わりました。読者の皆さまはすでに、脆弱な文化財を守り後世に伝えるため、展示期間に制限を設けていることをご承知のことと思います。作品の中には、かなり高齢の選手もおりますので。

それはともかく、とくに大きく変化した「第3章 近世の建仁寺」から、建仁寺本坊の大方丈の障壁画を公開している展示室について、話題にしましょう。

建仁寺大方丈6室のうち仏間を除く5室は、海北友松の障壁画(襖絵、壁貼付画)によって囲まれていました。ところが、昭和9年(1934)の室戸台風で方丈が倒壊したため、これら襖絵や壁貼付画は、50幅の掛軸に改装され、以降、京都国立博物館に保管されるようになったのでした。現在、方丈にはその高精細デジタル複製画がはめ込まれていますが、本展に出品されているのは、もちろんオリジナルの方で、すべて重要文化財です。


本坊方丈襖絵(高精細デジタル複製画)


大方丈障壁画は、中央の部屋の「竹林七賢図」、北西の部屋の「琴棋書画図」、南西の部屋の「山水図」、北東の部屋の「花鳥図」、南東の部屋の「雲龍図」で構成されます。これらについて、前後期おおよそ半分ずつ選手交代し、ご覧いただいているわけです。部屋の雰囲気もずいぶん変わりました。




これらの作品は、彼の代表作であるばかりでなく、日本の水墨画の名作としても知られています。なかでも有名な場面が、比類ない雄渾さをしめす水墨の「雲龍図」8幅(元襖8面)でしょう。



重要文化財 雲龍図 海北友松筆 安土桃山時代・慶長4年(1599) 京都・建仁寺蔵
[展示期間 8幅のうち 左4幅(上):3月25日(火)~5月6日(火・休) 右4幅(下):4月22日(火)~5月18日(日)]

前期には、口を閉じた龍4幅(元西側4面)が展示されていましたが、展示替えで口を開いた龍4幅(元北側4面)が登場し、二龍が向き合いました。二龍ですが、画は一流です!!縦2メートル近く、横は4面で5~8メートルずつ。迫力満点の大画面です。5月6日まで全8幅を展示、この期間、向き合って視線をぶつけあう二龍の姿をご覧いただけます(5月8日以降は、口を開いた龍4面のみを展示)。


海北友松(1533~1615)は、琵琶湖の東岸で、浅井氏の家臣、つまり武家の子として生まれ、戦国の動乱期、幼くして京都・東福寺に入り禅林で過ごしました。40代で還俗して武道に励み、50~60代から画家として本格的活動に入ります。「剣」を「筆」に持ち替えた人と言ったらよいでしょうか。その画の迫力には、どうも武人のDNAが関係しているように思えてなりません。友松が描いた龍の画が朝鮮国にわたり、彼の地の人々にも鑑賞され、その名が伝わっていたという事実も知られています。それにしても50~60代から83歳で没するまでの画業、高齢社会の今日、希望と勇気を与えてくれる画家ですね。じつは建仁寺大方丈の障壁画制作は、慶長4年(1599)67歳のときで若描き(!?)なのです。

海北友松は、日本美術史の教科書では、狩野永徳・狩野山楽・長谷川等伯・雲谷等顔とならぶ桃山絵画の巨匠と記されます。しかし永徳や等伯と比べると、知名度はまだ高くなく「かいほくともまつ??」などと読まれてしまいそうですが、この機会にぜひ「かいほうゆうしょう」という読み方とともに、その切れ味満点の水墨の魅力を知っていただきたいと思います。


ところで、ふつう日本の絵は、画面を寝かせて描くのですが、この「雲龍図」は、立てかけて描かれたようです。あちこちに水気の多い墨が縦方向に流れているのが分かります。
それから「画龍点睛」も。龍に命を吹き込む瞳は、丸い点「●」ではなく、力をこめ二画ではねた「∨」で表されています。


雲龍図(部分)

龍の画のなかで、この龍がいちばん引き締まった表情をしていてカッコいい、と私は思うのですが、その理由のひとつはこの眼にあるでしょう。丸い瞳では、可愛くなってしまうでしょうし。龍が巻き起こす大気の描写もすばらしい。とても力強く、龍が現れた瞬間を劇的に演出しています。ともかく墨の色が深く、濃淡の諧調が美しいのです。ぜひ実作品の前に立って、これらのことを確かめてみてください。

 

カテゴリ:news2014年度の特別展

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posted by 山下善也(当館絵画・彫刻室主任研究員) at 2014年04月27日 (日)