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中村不折と高島菊次郎~中国書画への熱い思い~

20世紀の初め、清朝から中華民国へと変わる辛亥革命の前後に、中国書画の多くが海外に流出しました。所有者の中には、この動乱に貴重な書画を失うよりは、中国の伝統文化を大切に継承する国に残したいと、あえて日本に流出させる場合もありました。
日本での良き理解者たちが、中村不折(なかむらふせつ、1866~1943)であり、高島菊次郎(たかしまきくじろう、1875~1969)でした。年齢は不折が9歳年上ですが、ほぼ同時代に活躍しているため、収集した時期や入手先なども、重なる部分が少なくありません。

中村不折 泰山刻石
(左)中村不折
(右)泰山刻石― 一六五字本 ― 中国 原碑=秦時代・前219年 台東区立書道博物館蔵


中村不折は、画家を志すべく小山正太郎(こやましょうたろう)に師事し、後にパリへ留学して洋画家としての地位を築きました。同時に、あくまでも余技に過ぎないと称してはばからなかった書においても第一線で活躍し、潤筆料から資金を捻出して、書に関する作品を収集、やがてその膨大な収蔵品を公開するために書道博物館を創設しました。思い立ったらどこまでも突き進んでいく、情熱的な人物だったのです。
収蔵品の白眉は「泰山刻石(たいざんこくせき)」で、宋拓の165字本、明拓の29字本、清拓の10字本があります。秦の始皇帝が天下を統一した際に、自らの功績を称えるために建てたこの碑は、2000年以上に及ぶ歳月の流れの中で少しずつ毀たれ、やがて倒壊し、現在は10字の断片となっています。不折の収蔵品の3種は、時代とともに文字が剥落する様子がわかる、実に興味深い拓本なのです。なかでも165字本は、明時代の大収蔵家であった華夏(かか)の旧蔵で、名品中の名品として知られています。

高島菊次郎 漢婁寿碑
(左)高島菊次郎
(右)漢婁寿碑 中国 原碑=後漢時代・熹平3年(174) 高島菊次郎氏寄贈


高島菊次郎は、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業後、大阪商船株式会社・三井物産を経て王子製紙に入社、数々の要職を歴任後、社長に就任しました。実業家として日本の製紙業界に貢献するかたわら、中国の思想や美術にも造詣が深く、余暇に漢籍を研究し、書の稽古に専念しながら、大いなる熱意をもって中国書画の収集に努めました。
こちらの逸品は、漢時代の儒者である婁という人を称えた「婁寿碑(ろうじゅひ)」でしょう。宋時代には原石があったようですが、すでに碑文の傷みがひどく、文字が判読できなかったとも言われています。石碑はいつしか失われ、この宋拓一本のみが伝存し、古くから天下の孤本として珍重されてきました。これも上述した華夏(かか)の旧蔵品で、拓本の後ろには、明の豊坊(ほうぼう)、清の朱彝尊(しゅいそん)、潘祖蔭(はんそいん)、銭大昕(せんだいきん)、何紹基(かしょうき)など、錚々たる文人の題跋が錦上に花を添えています。

実作家の中村不折と、実業家の高島菊次郎。境遇は異なっても、中国の伝統文化に魅了され、中国の書画を心から愛した気持ちは同じでした。是非、会場に足を運んで、質の高い名品の数々を収集した二人の偉業に思いを馳せてください。

特集陳列「中村不折と高島菊次郎」
東洋館 8室   2014年2月4日(火) ~ 2014年4月6日(日)

※台東区立書道博物館では、3月23日(日)まで、企画展「中村不折のすべて-書道博物館収蔵品のなかから-」を開催しています。不折自身の書画作品が展示されていますので、あわせてご覧ください。

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2014年03月07日 (金)