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1089ブログ

二人の王氏

王羲之の没後、多くの人々が王羲之の書を理想とし、摸本や拓本を通してその書を学びました。ここでは、明末清初に活躍した王鐸(おうたく)(1592~1652)と、乾隆の三筆の一人に挙げられる王文治(おうぶんじ)(1730~1802)をご紹介しましょう。

王鐸は、明王朝が瓦解し、清王朝が天下を支配した激動の時代に生まれました。明の官僚であった王鐸は、清朝に投降し、明と清の両朝に仕えたので、後世から不節操な人物を意味する「弐臣(じしん)」のレッテルを貼られ、歴史の上ではとても低い評価を与えられています。そのため、王鐸の書は長い間、等閑に付されてきました。

王鐸の書をご覧ください(図1)。典雅な美しさをたたえた王羲之の書とは異なり、いかにも書きなぐった、無粋な書に見えませんか?しかし、じっくりと王鐸の書を眺めていると、王鐸の図抜けた素晴らしさが見えてきます。実は王鐸、同姓の王羲之を殊のほか敬愛し、執拗なまでに王羲之の書を学んでいるのです。

行書五言律詩軸(部分) 王鐸筆 明~清時代・17世紀 東京国立博物館蔵
図1: 行書五言律詩軸(部分) 王鐸筆 明~清時代・17世紀 東京国立博物館蔵

図2は、王鐸が自らどのような書を学んできたかに言及した文章です。世の人々は、私は宋時代の米芾(べいふつ)を学んだとか、さらに遡って唐時代の虞世南(ぐせいなん)を学んだとか言っているけれど、彼らの書も王羲之・王献之(おうけんし)に源を発していることに気付いていない。私は50年このかた、王羲之・王献之の書を学んできた…。

臨淳化閣帖 書画合璧巻(部分) 王鐸筆 清時代・順治6年(1649) 大阪市立美術館蔵
図2: 臨淳化閣帖 書画合璧巻(部分) 王鐸筆 清時代・順治6年(1649) 大阪市立美術館蔵

王鐸の書の魅力は一言で語り尽くせません。当時の知識人たちは、書を学ぶには学問を修めるべきであると考えていました。枝葉末節の技法の習得にうつつを抜かすのではなく、物事の本質をつかもうとしたのです。臨機応変に文字の姿を変えながら、グイグイと書き進め、紙面全体からは見事なオーラが立ち昇っています。


一方、乾隆25年(1760)に第3位の成績で進士に及第したエリート官僚の王文治も、王羲之の書をこよなく愛しました。王文治は、まず王羲之の拓本をとことん鑑賞することが大切であると言っています。

図3は、元時代の呉炳が収蔵していたことから、呉炳本として知られる定武蘭亭序です。その拓本の後ろには、王文治が幸運にもこの名品を鑑賞しえた際の感懐を書き記しています(図4)。

定武蘭亭序-呉炳本- 王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)  東京国立博物館蔵
図3: 定武蘭亭序-呉炳本- 王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)  東京国立博物館蔵

定武蘭亭序-呉炳本-に書き記した王文治の識語
図4: 定武蘭亭序-呉炳本-に書き記した王文治の識語

王文治は、友人が所有する定武蘭亭序が、あまりに素晴らしいので借用し、三日にわたってずっと鑑賞しました。王文治は、拓本の来歴などをあれこれ考証するのではなく、あくまでも自らの直感を大切にするタイプでした。そして三日後、王文治は王羲之の書の素晴らしさを感得します。ためつすがめつ、じっくりと定武蘭亭序を鑑賞することで、王文治の感覚が王羲之の書と共鳴し、形を越えた奥深さを理解したのでした。

王鐸と王文治、ともに王羲之の書を何十年にもわたって学び続けることで、自分の理想とする書を見つけ出しました。王羲之の書のどこが素晴らしいのか。そもそも、どのような書が理想であるのか。自問自答を繰り返すことで、あなたにしかたどり着けない桃源郷を見つけてください。

日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「書聖 王羲之」(~3月3日(日)、平成館)

 

 

カテゴリ:2012年度の特別展

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2013年02月28日 (木)