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黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景3

本ブログは、特集陳列「黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景」(~ 2012年4月1日(日))で展示される作品をご紹介する全3回のブログのうちの、第3回です。

自然の中に憩う人物を黒田は好んで描いています。黒田の代表作としてよく知られている≪湖畔≫(1897年)もそうした作品のひとつです。1897年夏に、後に夫人となる女性、金子たね(後に照子)とともに箱根芦の湖畔に避暑に出かけた際に描かれ、同年秋の白馬会展に「避暑」と題して出品されました。連日、芦の湖畔で水を描く勉強をしていた黒田は、浴衣掛けで湖畔にたたずむ照子を見て岩の上に坐るように言い、その姿に絵心を動かされて翌日から制作に入ったと伝えられます。下絵はほとんど描かず、いきなりカンヴァスに向かい、約一ヶ月で完成したとモデルになった照子夫人が回想しています。淡い色彩と油彩画とは思えないほどさらりとしたマチエールは、他の黒田作品と比較してもあまり例のないものです。黒田はこの作品を含む5点を1900年のパリ万博に出品しています。日本の油彩画としてある程度納得のいく一点だったのでしょう。


重要文化財 湖畔 黒田清輝筆 明治30年(1897)
(~2012年4月1日まで展示)



≪花野≫(1907-1915年)に描かれているのは留学中にサロン出品を目指して構想された≪夏図≫と共通する、草原に遊ぶ女性群像です。


花野 黒田清輝筆 明治40~大正4年(1907~15)
(~2012年4月1日まで展示)


師のコランが得意とした自然景観に中の裸婦群像を描く作品は、黒田にとって生涯の課題でした。≪花野≫はコランの≪緑野三佳人≫(前田育徳会)を参考にしたもので、黒田はこの作品の一部分を模写しています。


コラン氏筆の部分(模写) 黒田清輝筆
(展示予定未定)


木炭のデッサン、小下絵を描き、≪昔語り≫(1898年)の制作と同じように、大画面制作のためのアカデミックな段階を踏んでいます。


花野図画稿(I) 黒田清輝筆 明治40年(1907)頃
(~2012年4月1日まで展示)


留学中に試みられた≪夏図≫と似た作品が、フランスのサロンのようなものを日本でも実現しようとして創設された文部省美術展覧会(文展)の始まる1907年に描き始められたのは、黒田が文展の絵画の方向性をフランスのサロンの絵画に見ていたからと考えられます。≪夏図≫は当初、裸婦群像で構想されたことが父親宛の書簡からわかります。≪花野≫では、≪夏図≫の構図の一部をなす三人の話をする女性が、日本の裸婦として描かれています。この作品は1915年まで筆を入れ続けられたことが黒田の日記からわかりますが、手や足の先など、描きかけの部分があり、署名もされていないところから、未完成と思われます。
人々が自然そのままの姿(裸体)で野辺に集い、憩う情景を描くことを黒田は初期から晩年まで課題としていたようですが、その目標は果たされませんでした。
美術教育、美術行政に奔走し、なかなか自分の制作のための時間を持てなかったというのもひとつの理由ですが、西洋のように人体は神が自らの形に似せて創ったものであるという信仰のない日本で裸体を描くことが難しい、といった東西の文化の違いも背景にあると考えられます。

黒田清輝は印象派風の表現を日本に紹介したと言われます。たしかに外光の表現などは印象派を参考にしていますし、物には固有色はなく、光の当たり方によって色は変化するという前提にたって描いています。けれども、印象派の画家が産業革命を終えて登場した機械文明や都市の景観を積極的に描いているのに対し、黒田は機械文明が起こる前の、自然と人間が調和した情景に共感を寄せ、鉄道や駅、都市の風俗などは描きませんでした。黒田の描く憩いの情景も、自然と人がとても近い関係で描かれています。

自然は時に人間にとても厳しい面を見せます。この時期にはどうしても3月11日に起きた東日本大震災を思い出してしまいます。震災は、機械化がこれだけ進んだ現代でも、自然の力にはかなわないということを思い起こさせました。自然を尊重し、なかよく調和していく道を考える時期に来ているのかもしれません。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 山梨絵美子(東京文化財研究所 企画情報部近・現代視覚芸術研究室長) at 2012年03月21日 (水)