本館 16室
2007年11月13日(火) ~ 2007年12月16日(日)
現在の「北海道」という名称は、明治2年(1869)8月15日に明治政府が決定したもので、鎌倉・室町~江戸時代には、「蝦夷(えぞ)が千嶋(ちしま)」や「蝦夷地」などと呼ばれました。しかし江戸時 代中頃まで、現地の様子が具体的に伝えられる機会は少なく、江戸幕府が実態を把握するのも、18世紀末に調査隊を派遣してからのことです。以後、幕府の度重なる調査とともに、個人による実地調査も行われ、実際に現地を「歩く」ことで得られた情報は、紀行文や地誌、地図といった形で人々に伝えられました。こうした史料からは、江戸時代の人々が北海道を、樺太や千島をも含む、「蝦夷 」という広域な北方地域の一部として、地理的に認識していた可能性を見出すことができます。
今回は、江戸時代における「蝦夷地(えぞち)」の地理や風土を記した、最上徳内(もがみとくない)の『蝦夷風俗人情之沙汰(えぞふうぞくにんじょうのさた)』、「北海道」の名付け親となった探険家・松浦武四郎(まつうらたけしろう)(1818~1888)の紀行文をはじめ、松前藩士・今井八九郎(いまいはちくろう)(1790~1862)が作成した北方図(重要文化財)を出品します。また、北海道の歴史がアイヌの歴史に重なる部分を持つ点に着目し、アイヌによって大陸からもたらされた交易品『蝦夷錦(えぞにしき)』を通じて、北方地域「蝦夷」の地域的な広がりをご覧いただきます。そして、「北海道」へと名称変更し、開拓地となった様子も、明治時代の地図や写真からご紹介いたします。